上品なマホガニー色に染まった酒場の一画で、高級なその色に、これでもかと言わんばかりに似
 合う姿がナインハルトを迎えた。
  その酒場は普通のならず者が使うには、少々格式高い、高級ホテルの隅に鎮座しているような店
 で、娼婦達もほとんどおらず、小さなさざめき程度の会話だけが場の空気を揺らしていた。
  並べられたテーブルも触れれば指紋が付いてしまいそうなほど、しっかりと漆が塗り固められ、
 ソファもボルドー色の天鵞絨で包み込まれており、田舎臭い人間ならば訪れる事さえ躊躇うだろう。
 それに、ナインハルトが脚を踏み入れた場所は、店の中でも一番瀟洒な――他の誰にも邪魔されぬ
 よう、銀の扉で閉ざされている臙脂色の絨毯で覆われて、金の燭台がマホガニーの色を掻き消さぬ
 ように控えめに光を灯している場所だ。
  余程の事がない限り、荒野で育った連中は入り込めないだろう。何せ、店側が、客を品定めする
 のだ。薄汚れたシャツしか知らない人間には、この場所は縁のない場所だ。
  ナインハルトも、此処に入る事が出来る人間の事は、自分も含めごく数人しか知らない。そして
 今、自分よりも先にこの場所に踏み入れ、自分を迎え入れる形となった人物は、ナインハルトも良
 く知る人間だったが、此処で見たのは初めての人間だった。
  細身の、しかししなやかな身体を黒い三つ揃えで包み込み、長く形の良い脚を優雅に組んでいる。
 その先端で燭台の光を受けて艶やかに光るブーツも、おそらく最上級の牛皮をなめして作ったのだ
 ろう。しっとりと落ち着いた茶色に沈んでいる。漆で塗り固められたソファの肘掛けに何の躊躇い
 もなく手を乗せ、白い指でチョコレート色の肘掛けを軽く叩いている。もう片方の腕は頬杖を突き、
 その奥で除く口元は緩やかな弧が描かれていた。
  豪奢な部屋の中で、その姿はナインハルトの知る誰よりも、その風景に相応しい。

 「めんどくせぇ場所に来るもんだな。いちいち酒を飲むのに、三つ揃えなんか用意しなきゃなんね
  ぇのか。」

  弧を描いた口から零れたのは、上品極まりない様子からは想像もつかないような、粗野な台詞だ
 った。しかし、それと相反するように、声音は信じられないくらい整っている。微かに残る南部訛
 りでさえ、声に甘さを含ませる効果を発揮して、邪魔にはならない。
  ナインハルトは、乱暴な台詞を端正な声で吐き出す男に、努めて表情を変えぬようにしながら問
 うた。

 「何故、此処に?」
 「俺がいちゃ、まずいのか?それとも、此処にはお綺麗な貴族様しか入れねぇとでも?まあ、その
  わりには服装一つどうにかすりゃあ入れるんだからな。」

    甘い声に微かに冷ややかさが混じった。乱暴な台詞を正せば、おそらくナインハルトは背筋を伸
 ばしてしまうだろう。

 「ま、そんな事はどうでも良いんだ。俺がどうして此処に来たか、だったな。実を言えばそんな大
  層な理由はねぇんだが。」

     冷ややかさが消えたと思った瞬間、その声音はそれどころかまるで氷そのものになったかのよう
 に鋭い切っ先を翻した。

 「エドワード・ヘンリー・ナインハルト。」

  いきなり正式な本名を突きつけられ、ナインハルトは息を詰めた。

 「てめぇを恨んでるガキがいる。そいつをてめぇでどうにかしろ。」
 「何をいきなり。」

  続け様の台詞に、ナインハルトはどうにか反論した。

 「私を恨んでいる子供がいるなど、心当たりがないな。」
 「恨まれるような事はしてねぇってか?」
 「勿論、私は賞金稼ぎだ。だから結果として人の恨みは買っているだろう。しかし私は彼らに正し
  い刑を受けさせる為に、可能な限り無血で捉えている。」

  ナインハルトはこれまでに賞金首を殺した事はない。生きたまま捕らえ、公正な裁判のもと、彼
 らに罰を与える事が出来るよう、心がけている。
  まるで誰の恨みも買っていないとは思わないが、少なくとも眼の前の、生き血を啜っていると言
 っても過言ではない玉座に座している男よりも、買いつけた恨みは少ないだろう。ましてや、子供
 など。
  しかし、次にマッドが続けて口にした台詞に、ナインハルトは眼を瞠った。

 「てめぇが貴族である事に、腹を立ててる奴がいるのさ。貴族だけじゃなくて、イギリス育ちの連
  中にも、妬みや僻みを持ってる奴がいる。てめぇも知ってるだろう。」
 「馬鹿な。」
 「本当さ。エドワード・ヘンリー・ナインハルト。イギリスからやってきて、綿花畑で一財を成し
  たけれども南北戦争で全て失った家系の子。お前の悲劇なんか奴は知らねぇ。むしろ、悲劇をひ
  けらかして、今でも貴族の名を名乗るてめぇが憎たらしいんだろう。」

    自分の家系を言い当てられたのと、どうしようもない恨みの理由に、ナインハルトは今度こそ絶
 句した。それに対して賞金稼ぎの王は口元に湛えた笑みを消さずに、冷淡な声でゆったりと告げる。

 「俺としちゃ、そんなガキに構ってる暇はねぇんだ。そいつが誰を憎もうが恨もうが知ったこっち
  ゃねぇ。」
 「自分が恨まれてもか……。」
 「ああ。俺が憎けりゃ好きなだけ憎めば良い。それで手を出したけりゃ好きにしろよ。てめぇの命
  で行動の代償を払えるんならな。」

  暗に、自分に手を出せば返り討ちに会うのだと言い置いて、マッドは手を開く。

 「ま、俺の事はどうでも良いんだ。あのガキは確かに俺の事も気にしてるようだが、俺があいつの
  嫌いな貴族とやらである証拠はねぇしな。」

  あからさまに貴族然とした態度を貫いている癖に、しかしその出自も名も分からぬが故に、マッ
 ドは貴族であると断言できない。それは、このような事になる事を見越していたからだろうか。

 「ただな、俺の狩りにあいつが出張るって言ってんだ。問題はねぇかもしれねぇが、何せ今回の狩
  りにはイギリス育ちもいれば貴族崩れの奴もいる。勝手に暴走されて何かあったら困るってのも
  本心だ。だから、てめぇにガキの子守りを頼みてぇのさ。」
 「断る。」

  王の言葉に、ナインハルトは吐き捨てるように答えた。

 「私も、そんな事の為に駆り出されるのはご免だ。それに、私にはお前の頼みを聞く義理も義務も
  ない。」

  暗に、人殺しの片棒は担ぎたくないと言ったつもりだった。血の色の玉座に座るマッドの狩りだ。
 そこに横たわるのは、虐殺以外の何物でもない。
  それに、出自による僻みや妬みなど、ナインハルトには受け止めるるもりはなかった。また、そ
 れこそ、その義務はない。
  だが、断られたにも拘わらず、マッドは薄い笑みを消さない。

    「ま、それはてめぇの判断だ。好きにすりゃあ良い。何かあった時は、あのガキを俺が撃ち殺せば
    良いだけの話だからな。言っとくが、俺がどんな方法でガキを止めようが、てめぇには口を出す
  権利なんかねぇぜ。てめぇがガキの面倒を見るってんならともかくな。」

    お前の所為で、子供の血が流れるのだ、とマッドは言っているのだ。

 「脅すつもりか。」
 「脅す?馬鹿言っちゃいけねぇな。てめぇは、俺に脅して貰うだけの価値があるとでも思ってんの
  か?」

  ひやりと突き付けられる刃の切っ先のような視線。そこに撓められているのは、命令する事が許
 された人間の眼差しだった。

   「俺はてめぇの好きにしろ、と言ったぜ、ナインハルト。てめぇがどちらの選択肢を取るかは、て
  めぇが選べば良いのさ。それに、てめぇの中では既に答えが出てるはずだぜ。何せ、ずっとそち
  らばかり選んで生きてきたんだからな。」

  謎めいたマッドの台詞に、何、と問いかける暇もなかった。
  マッドは組んでいた脚を解くと、音も立てずに立ち上がり、ナインハルトの横を頭一つ下げる事
 なく部屋を出ていく。
  銀の扉を開く時、マッドは小さく囁いた。

 「まあ、てめぇの事だ。自分の手は綺麗だとずっと信じ込んできたんだろう。今回だって、俺が選
  択肢を突き付けなきゃ、気付かなかったのさ。」