視界の端で茶色い髭面がにじり寄ってくるのが見える。
 日が暮れてようよう涼しくなり始めた時間、先程まで暑さでべっちゃりと床に転がって、床の冷た
さで暑さを和らげようとしていた髭面のおっさんも、涼しくなるにつれて本来の自分を取り戻しつつ
あるようだ。尤も、床に這いつくばったまま近づいてくる様は、荒野を馬で駆け巡っている本来の姿
からは、大いにかけ離れているのだが。おそらく、もう少し人間めいた姿に戻るには、時間がかかる
のだろう。
 だが、問題はそこではない。
 髭面のおっさんが人間離れしているのは今更なので、マッドは特に気にしたりはしない。いや、気
になるには気になるのだが、いちいち気にしていたらきりがないという事を悟るほど、長い付き合い
をしているため、半ば諦めた気分でおっさんの人外化を眺めている。
 もう一度言うが、問題は今更のおっさんの人外化ではない。おっさんがこちらににじり寄っている
という、どうしようもない事実にある。おっさんが這いつくばってにじり寄ってくる、という字面だ
け見れば、それは何かの怪奇小説にも思えるが、先だって言ったように、この髭面は暑さにやられて
いただけなので、怪奇でも何でもない。ただ、暑さに回復しつつある中、しかしまだ本調子でないで
あろう身体を押して、マッドの元に向かってくるという事実は、この先に起こる事態を幾つか予想す
れば、これまでの経験からして概ね良い方には傾かない。
 ナメクジが這うように、じりっじりっと近づいてくる様を眼の端で捉えながら、マッドは、さてこ
のおっさんはまた何を思いついたんだと、読んでいた本の内容を思考隅に追いやって、目下、面倒事
の大半を引き連れてくる這いよるナメクジ――もとい賞金首サンダウン・キッドの動向について思い
やった。




Onion Soup





「温かいものが食べたい。」

 じりっじりっと這いよる賞金首サンダウン・キッドは、マッドの脚元までナメクジのように這った
後、くいっと首だけを上に向けてマッドを仰ぎ見ると、青い眼差しのままそう告げた。告げられたマ
ッドは、その瞬間有無を言わせず賞金首の顎を蹴り上げなかった自分を褒めてやりたくなった。
 涼を求めて床に這いつくばっているはずの賞金首を、マッドは理性を総動員して蹴り上げようとす
る己の脚を宥め、出来る限り平坦な声で言った。

「てめぇはさっきまで暑さでばててたんじゃねぇのか。」

 暑苦しい時に、己の暑苦しさで倒れていたヒゲが、何をいきなりますます暑苦しいものを求めてい
るのか。

「スープとか。」
「てめぇ人の話を聞いてねぇな。」

 人外だから人の言葉は解せないのか。その割には人の言葉を話しているが。
 マッドの冷ややかな視線が冷たかったのか、床で蠢くサンダウンは、もぞもぞしている。
 
「温かいものが食べたいんだ。」

 うぞうぞ。
 床に這いつくばった茶色い物体が、駄々を捏ねるように動く。なんだこの生命体。マッドは心底呆
れた心持ちでサンダウンを見下ろす。一体この荒野にいる誰が、床で蠢く茶色いおっさんに五千ドル
の賞金が懸っているだなんて思うだろうか。マッドなら、絶対に思わないだろう。こんなナメクジの
ようにしか動かないおっさんが、そもそも賞金首であるだなんて。
 だが、現実に茶色い髭面のおっさんは、その銃の腕から何人もの賞金稼ぎを返り討ちにし、その度
に賞金額が吊り上がり、ついには五千ドルの域にまで達した賞金首である。五千ドルといえば一生食
うに困らないくらいの金だ。欲に駆られて手を出そうとする輩や、或いは腕試しにとサンダウンを追
いかける者も多い。
 かくいうマッドも、そういう賞金稼ぎの一人なのだが。 
 マッドは、足元でこちらを、青い眼いっぱいに期待を込めて見ているヒゲを見下ろす。
 実際に知り合って、何度も決闘を申し込んで返り討ちに会って、それでも諦めずに追いかけた結果
がこれである。
 執拗に追いかけるマッドに何を思ったのか、サンダウンはいつの間にやら追いかけてくる賞金稼ぎ
と酒を飲むようになった。
 だけならまだいい。
 もしかしたら、食事を恵んでやったマッドにも責任はあるのかもしれない。サンダウンはマッドに
飯を作ることを要求し始めた。無理強いするのではない。無理やり作らせようというのではない。た
だ今現在のように、ご飯を訴え、こちらを無心に見つめてくるのである。野良犬や野良猫に餌をやっ
てはいけないという戒めを、マッドは身をもって殊更深く思い知っている。

「夜は冷えるし。」
「今現在も、床から離れようとしないあんたか何を言ってんだ。」

 もさもさの髭と髪に覆われたサンダウンが、夏バテを起こすのは毎度のことである。もはや毎年の
恒例行事と言って良い。いっそのこと、この事実を賞金稼ぎ内に知らしめて、夏場こそサンダウンを
撃ち取る機会であると報道してやりたい。
 だが、毎年夏バテを起こすサンダウンは心得たもので、腹の立つ事に夏場はマッドのお気に入りの
塒で過ごすと決めているらしい。マッドとて、いくらなんでも自分の気に入りの塒を、賞金稼ぎの無
粋な足跡や決闘で荒らされたくはない。

「玉ねぎのスープが食べたい。」
「あんた、喧嘩売ってんのか。あれ作るのに時間がかかるだろ。てめぇは食うだけだから知らねぇの
かもしれねぇけど、あれ玉ねぎを焼くのに時間がかかるんだからな。」

 徐々に自分の要求を強め始めたおっさんに、マッドは眦を決した。これ以上このヒゲの言うように
していたら負けである。そう思ったのである。
 しかしサンダウンの口から飛び出た玉ねぎスープ――つまりはオニオンスープである――について、
作るのに時間がかかるという、調理に関する事象に対して口を出してしまった時点で、既にマッドの
負けなのだが、マッドは気が付かない。

「焼くだけだろ。」
「違う。焼き加減が難しいんだ、あれは。てめぇが思ってるように焼いてみろ、一瞬で焦げて終わり
だ。あんた玉ねぎを飴色になるまで焼くなんてことしたことねぇだろ。消し炭か半生しか知らねぇだ
ろ。」
「飴色。」
「おいしそうだな、とか思ってんじゃねぇ。あと茶色に近いからって自分の色だとも思うんじゃねぇ
ぞ。てめぇは茶色だが茶色の代表格でもねぇんだからな。」
「手伝う。」 
「てめぇがいたって何の役にも立たねぇだろうが。てめぇに何ができるんだ?てめぇに延々と鍋を掻
き混ぜることができるっていうのか?」 
「できる。」
「良いじゃねえか。やってみろよ。ただし一欠けでも玉ねぎが焦げたらそこで終了だからな。わかっ
たな。」

 こうして、賞金首と賞金稼ぎの玉ねぎスープ、もといオニオンスープの作成が始まったのである。




 そして、サンダウンは先程から、マッドが薄くスライスした玉ねぎとたっぷりのバターと油を入れ
た鍋を、ぐりぐりとかき混ぜ続けている。弱火でじりじりと焼かれている玉ねぎは、今のところ薄ら
と黄色味を帯びているだけである。

「言っとくが、少しでも手を止めたら焦げるからな。」 
「……………。」 

 離れたところでサンダウンを見ているマッドの台詞に、サンダウンはひたすら鍋を掻き混ぜ続ける。
 実を言えばもう少し火を強めてもいいのだが――その方が早く玉ねぎが飴色になる――それだと焦
げる確率も高くなる。
 なので、マッドはわざと弱火で鍋を掻き混ぜさせているのだ。間違っても鍋を掻き混ぜる時間を長
引かせて、サンダウンに対する嫌がらせをしようとかそういうつもりはない。
 ナメクジから人間に戻ったサンダウンは、さっきからずっと無言で鍋を掻き混ぜている。非常に真
剣な顔をしているが、普段からこういう顔立ちなので別に真剣でもなんでもないかもしれない。マッ
ドにはどうでも良いことである。むしろ真剣な顔をしているから真剣な事を考えていると思っていた
ら、物凄く途方もないことを考えていることが多いので、サンダウンの表情と考えについては気にし
ないようにしている。
 無駄に真剣な表情だけは作っているサンダウンを放置しておいて――放っておいて焦げたらその時
はそこで終了なだけなのでマッドは別に構わない――マッドはパンを焼いている。 

「……何のためのパンだ。」 
「スープに乗せるんだよ。パンにスープがしみ込んで、それなりに美味いぞ。」

 横目で問うてきたサンダウンに、マッドは短く答える。すると、そうか、と返事があった。美味い
という言葉で納得したのかもしれない。一体何処に何をどう納得したのかは、さっぱりわからないが。
だが、マッドとしてはサンダウンが黙り込んでいるので何一つとして問題ない。鍋を掻き混ぜている 
ので大人しいし。
 平和である。
 と思っていたら。

「共同作業だな…………。」
「初めての、とか言ったらその鍋ひっくり返してやるからな。」

 不穏な言葉が聞こえてきたので、被害が起こる前にとりあえず先制攻撃だけは仕掛けておいた。