この、砂ばかりの荒野で良く自分を見つけられたものだと思う。

 何処に中心があって、何処に端っこがあるのかも分からない、青い空と乾いた風が支配する世界で、
 
 点となって動き回る自分を見つけるのは、至難の技だっただろう。

 本来ならばこんな場所にいるはずがない身体はしなびていて、今まで感じた事もない歳月の長さを
 
 マッドに痛烈に見せつけた。

 水分を絞り尽くされたかのような枯れ枝のような指は、少しでも力を込めれば、ぽきりと音を立て
 
 て折れてしまいそうだった。

 にも拘らず、自分を見つけた彼は、まだ何処にそんな水が残っていたのかと思うくらい、ぼろぼろ
 
 と涙を零し始めた。

 その干からびた指の間で、くしゃくしゃに丸められた紙切れが、年老いた彼に無理をさせた理由の
 
 全てを物語っていた。





 one and only








 
 苦しい苦しい苦しい。



 ディオを限界まで走らせて、けれどもディオよりも激しく自分の心臓が脈打っている。

 頭痛が起きて、目眩を起こして、このまま地面に倒れ伏してしまえばどれだけ楽だろう。

 砂の上に倒れ込む痛みも、今はきっと一滴だって感じないだろう。

 銃弾で貫かれても、それすら快楽に思える。

 そんな痛みなどよりも、もっと奥深い所で、醜い傷跡が悲鳴を上げている。



 痛い痛い痛い痛い。



 干からびてしわしわになった細い指が突き出した、真っ白な紙切れ。

 泣きじゃくる老人。

 落された黒いインクが指し示した言葉。
 
 それはたった一つの命が消え失せた事を知らせる手紙。

 罪を罪だと思いながら、それでも逃げ回れる事が出来る時間が終わりを告げた瞬間。

 もう、マッドを許してくれる人間は何処にもいない。



「眠るようでした。」



 涙を零す年老いた使用人は、長らく誰も呼ぶ事がなかったマッドの本当の名を呼んで、そう告げた。



「けれど、最期の最期まで貴方の事を気に掛けてらっしゃいました。何処にいるのかと。元気にして

 いるのかと。」



 マッドが捨ててしまった人が、マッドを捨てていなかった事を告げる様は、天の裁定のようだ。

 魂を秤に掛けられる様は、きっとこんな心地に違いない。

 マッドが持っていた後ろめたさ全てを許して、天に持ち帰った彼女は誰よりも幸いだったに違いな
 
 い。

 そんな彼女の墓前に、どうやって立てというのか。

 どうかと望むかつての使用人の姿に、マッドは後退る。

 花一輪持つにも血で汚れすぎた手を、彼女の前に翳す事などできはしないのだ。
 
 もう、彼女の望んだように、あの白と黒の鍵盤の前に手を伸ばす事もできない。



 狂った自分の中にある、一番弱い琴線が、激しく波打つ。

 数年前、この乾いた大地の上に降り立った時に引き千切ったはずのそれは、得も言われぬ音色を立
 
 てて、激しく心を揺さぶっている。

 

 祈る聖者のような老人の姿を見たくなくて、マッドはばさりと引き攣れた様な衣擦れを立てて身を
 
 翻した。

 以前の自分ならば、そんな音は立てなかった音に、自分の帰還を待つ人々が興醒めする事を願いつ
 
 つ、典雅とも優雅とも言えない動作で、

 黙示の馬の如き面持ちのディオに跨る。

 いっそこのまま、炎の槍で貫かれれば良い。

 そう、有り得ない望みを願いながら、マッドは粗野な仕草で荒野に飛び出した。



 





 痛い、苦しい。

 せめて、いっそ、罵ってくれたなら、楽だったに違いない。

 けれど、もう、許しを請う事も、後ろめたい想いを抱く事もできない。

 






 
 転ぶようにディオから降りて、誰とも顔を合わせる必要がないように、誰からも見捨てられた町の
 
 一画に倒れ込む。

 誰も参拝する事のない教会の中で、打ち捨てられた救世主の前に身体を投げ出して、けれど彼に懺
 
 悔などしない。

 思うのは、自分もこの救世主のように見捨てられたら良かったとか、そんな都合の良い言葉ばかり
 
 だ。

 けれど、そんな手前勝手な願いは終ぞ叶えられず、彼女は死という焼き鏝を押し付けて還ってしま
 
 った。

 
  
 喉の奥が痛い。

 呑み込もうとする動作を繰り返せば、まるで何か硬い物がつっかえたような痛みを感じる。
 
 それは、言う事も出来なかった謝罪なのか、それとも言い訳なのか、何か言葉が凍りついて喉の壁
 
 面に張り付いているようで。

 

 息が細くなる。

 鼻の奥がつんと酸っぱいような刺激を感じる。

 眼の表面がじわりと熱い。

 今、何か一つ動作を起こせば、何が滴り落ちるか。

 そんな権利もない癖に。



 荒い息を零すマッドは、次の瞬間、痛む喉を忘れて息を呑んだ。

 耳に届く馬蹄が、誰も来ない町に人の到来を告げている。

 沈黙を背負った音は、それが孤独に現れた事を示している。

 そして、そこに背負われた気配が、マッドの背筋を粟立たせた。

 
 
 ―――こんな時に。


 
 粟立つ肌は、恐怖からくる慄きではない。

 身体を刺し貫くのは苦痛ではなく、甘い痺れさえ伴う喜びだ。

 眼を覆う水の膜は、すでに色を変えている。

 本来ならば悲しみに身を投げ打って、地に倒れ伏して泣きじゃくる時だと言うのに、乾いた空の下
 
 で狂ったマッドの身体は、悦びで泣きそうだ。

 だって、この廃墟に満ち溢れる気配は、あの男の登場を告げている。

 賞金稼ぎとしての習性を染みつかせた身体が、悦ばないはずがない。



 後悔の念に打ちひしがれているはずの心が、渦を巻きながら上昇していく。

 泣き叫ぶはずの唇は、弧を描く。

 土塊を握り締めて震えるはずの拳は、腰にある黒光りする銃へと伸びていく。



 だって、仕方ない。

 あの男が、自分のもとへ、やってくる。

 誰よりも追いかけて、待ち望んだ姿が、他でもない自分のもとへ、やってくる。

 その命は、この世にある誰の死よりも、優先すべきものだ。

 一番近しい血脈の死であっても、曇らせる事などできはしない。


 
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。



 許しを請うのだとすれば、それだろう。

 もう、彼女を心の一番に置く事が出来なくなった事。

 彼女で心を満たす事が出来なくなった事。

 マッドの心の全ては、あの男に攫われてしまっている。

 もう、どんな酒でも女でも、郷里の思い出も、心を支配する事がない。



 恐ろしいくらい荘厳に、教会の扉が開いた。

 向こうも、マッドの居場所が分かっているかのようだ。

 もしも、マッドの今の状態が分かってやってきたのなら、彼もまた、マッドと同じくらいマッドで
 
 心を支配されているのだろう。

 そんな自惚れを感じて喜んでいる時点で、もう、重症だ。

 けれど、この乾いた砂と空に魅せられたマッドが、それの化身のような姿に惹かれないほうがおか
 
 しい。

 それは、もう、神が糸を操って紡ぎ上げた一枚の絵だ。



 荒野の強い日差しを浴びた姿は、逆光でいつになく黒く突き抜けている。

 それでも、どんな姿形をしていても、マッドは彼がどんな表情をしているのか分かる。

 

 直接触れる気配に、血潮が沸騰する。



 ああ、もう、その胸目掛けて銃弾を放って、それと同じくらいの速さでこの身体をそこに投げ出し
 
 てやりたい。

 髪の毛一本、涙一滴、絶望の一欠片全て、あんたの物だから。

 気配だけで過去の残像を掻き消すくらい、あんたの事しか思ってない。

 母親の恨み言も、背徳の酒も、いつかくる断罪の刃も飲み下してやるから。

 

「…………マッド?」



 名前なんてそれでいいんだ。

 あんたの知らない名前を呼ぶ声なんて、実はもうほとんど覚えてないんだ。

 あんたが知ってる名前が、全てなんだ。

 あんたが、その名前を呼んで、俺だと認識してくれたなら、それだけで自分の立場が証明できるか
 
 ら。





 ―――いつか聞いたピアノの音なんかより、自分に向けられるその銃声が、愛おしいんだ。 


 
 

 

 

 

 













TitleはB'z『クレイジー・ランデブー』より引用