鉄錆びた様な、生臭いような、そんな匂いはいつも湿り気を帯びている。その匂いを強く嗅いだ直
 
 後、鋭い稲光と共に叩きつけるような豪雨に見舞われるのは、いつもの事だ。ただ、雨の気配を知
 
 る為の匂いと、実際に雨が降るまでの時間が短かったのは、不運と言うしかない。

 
 
 乾きすぎて、水を受け止める事が困難になってしまった大地は、あっと言う間に海のようになった。
 
 あちこちに波紋が広がり、泡立ちが膨らんでは弾ける。水捌けの悪い大地とは対照的に、じっとり
 
 と水分を染み込んだ衣服は重く、それ以上に肌に纏わりついて気持ちを悪くさせた。



 しかし、今のサンダウンにとってそれは特に心を動かすような事ではなかった。放浪するようにな
 
 ってから、確かに命を繋ぐ最低限の事は気にしてきた。だが、最近はそれも徐々に削り取られ、そ
 
 の様はまるで崖の縁を歩いているようだ。そんな無理の祟るような生活をしている理由は、他なら
 
 ぬサンダウンが一番よく知っている。


 
 ―――かなり、長い間、逢っていない。


 
 サンダウンの世界に、最後に光が無理やり撃ち込まれたのは、いつだったか。あの、抱き締める事
 
 の叶わなかった夜が、最後だ。それ以来、気配を感じる事もない。

 

 ―――やはり、諦めたのか。



 どうしようもない諦観の念が、腹の底に広がって行く。仕方ないという納得は、ほとんどが諦めに
 
 よるものだ。そしてその諦めは、サンダウンの生への執着に直結する。故に、サンダウンは命を繋
 
 ぐ線を削るのだ。雨の中だというのに、馬を駆けさせもせずにいく様は、奇妙な光景だろう。しか
 
 し、ぎりぎりの縁を歩くサンダウンにしてみれば、雨如きで喚く必要はない。

 

 ばしゃばしゃと音を立てて、細く重い、冷たい糸を掻き分けていく。水煙の所為で白くけぶる世界
 
 の中に、朽ちかけて今にも壊れそうな小屋を見つけたのは、その時だった。遠目にみれば黒い塊に
 
 しか見えないそれに気付いたのは、サンダウンが旅慣れているからだとか、経験からだとかそんな
 
 類の話ではない。まるで、今にも息絶えようとしている獣のような、か細い気配を感じたからだ。

 雨に流されそうなそれを感じたのは、その気配が、自分の心の大半を占めている者のものだったか
 
 らで。



 知らず知らずのうちに、愛馬の脚を速めていた。地面に突き刺さる針のような雨を煩わしげに振り
 
 払い、少しでも乱暴に扱えば壊れてしまいそうな扉を、出来る限り音を立てぬように押し開く。
 
 

 その瞬間、はっきりと小屋の奥にある気配が震えた。身を捩るような、逃げようとするかのような
 
 素振り。それを無視して小屋の中に雨滴をばら撒いた時、立ち尽くしている黒い瞳と、眼が合った。

 傷ついた獣のような光をその眼に浮かべたマッドは、しかし小屋の中に漂う重苦しい空気とは対照
 
 的に、くっと口角を上げる彼が良くする笑みを見せる。



「よお………てめぇも雨宿りかよ。けど、この場所は俺が先に見つけたんだぜ?勝手に入ってくるの

 は虫が良すぎねぇか?」



 笑い含みの言葉は、だが、何処か押し殺したような意図を秘めている。その手の中で黒光りする銃
 
 は、半ば遊びのようにくるくると回転しているが、しかし銃を手にしている事が何よりもマッドの
 
 本心を物語っているように見えた。

 

 ―――近づくな、と。


 
 ならば今すぐにでも、その銃の引き金を引けば良いはずだ。しかし、サンダウンから僅かに銃口と
 
 視線を逸らすマッドは、酷く物憂げな表情を浮かべるばかりだ。にも拘らず、全神経を使ってサン
 
 ダウンの動向を探っている。
 
 

 突き離すわけでも、かといって歩み寄るわけでもないマッドの様子は、その意図を量るための情報
 
 量としては絶対的に少ない。それでも、本気でサンダウンを拒む気はマッドにはない事だけは分か
 
 る。きっと、今その身体を引き寄せたなら、マッドは抵抗しないだろう。 

 

 だが――――。



 サンダウンは、すっと気配を隠す。サンダウンの気配で距離を測っていたマッドが、一瞬うろたえ
 
 たのが分かった。恐らく、隙にもならない、その瞬間。しかし、サンダウンにしてみればその一瞬
 
 で十分だ。



 腕を取り、肩を引き寄せる。すぐ下に広がる黒い瞳が大きく見開かれているのが見えた。それを覗
 
 き込むように、薄い唇に口付けた。

 

「…………っ!」



 己の状況を理解したのか、マッドが低く呻いた。苦しげな顔から少しだけ顔を離し、耳朶を舐める
 
 ように、彼の本心を問い質す為に囁く。

 

「嫌ならそう言え………何もせずに放してやる。」

「……………!」



 腕に囲った身体が、はっきりと強張った。見下ろした黒い瞳に、漠然とした不安が薄い膜のように
 
 広がっている。本来ならば明瞭な答えと気配を返してくるはずの男が、返答を待つサンダウンに対
 
 して、何かを恐れるように不安定な沈黙しか浮かべない。まるで答える事を罪か罰だと感じている
 
 かのようだ。頬をなぞって返答を促しても、迷い子のような視線ばかりが返ってくる。その視線に
 
 小さな潤みが膨らんでいる事に気付き、サンダウンはマッドの瞬きを忘れて強張った眼元に口付け
 
 た。

 

 胸元に引き寄せると、マッドは力尽きたように眼を閉じ、手をだらりと垂れ下げる。普段ならばこ
 
 のまま押し倒してしまうのだが、マッドの切なげな様子にもっと追い詰めて、答えを引き摺り出し
 
 たくなった。苦しんでいるマッドの姿を思い違えていないのならば、答えは十分に分かっているよ
 
 うなものなのだが、ならば寧ろマッドの口から聞きたい。



 サンダウンはマッドの垂れ下がった腕を取り、自らの肩に導く。普段とは違う手順に、マッドが戸
 
 惑いがちに顔を上げた。その瞼に口付け、追い詰める為の、しかし十分に譲歩した言葉を囁く。



「………嫌なら、手を放せ。」



 短く、簡単な動作一つで、サンダウンから逃げる事が出来る。本当にマッドがサンダウンに飽いた
 
 のなら――諦めるのなら、逃げ出せるはずだ。苦しむ必要など、何処にもない。だが、マッドが見
 
 せたのは苦悶に満ちた表情だった。眉間に皺が出来るほど硬く眼を閉じ、唇も硬く弾き結ぶ。この
 
 世の全ての苦しみを背負ったかのような顔をして、逡巡した指を震わせる。

 
 
 その切ない指先が、ほんの僅かに力を込めてサンダウンの背に突き立てられた。気付くかどうか分
 
 からないくらい、小さな力の差。それでも、しがみつくように、確かに力が込められた。


 
「そのまま、放すな………。」



 垣間見えた愛しい素振りにサンダウンは眼を細め、硬く閉じた腰を抱き寄せた。