夜半、ベッドに身を沈めていると、足元でごそごそと蠢く音がした。
 眠る前に、髭面の小汚い、銃の腕だけはピカイチの賞金首が、自分の脚の間でもぞもぞと動いてい
た事を夢の中で思い出し、マッドは夢から覚める為に、渾身で舌打ちした。
 舌打ちが聞こえたのか、足元から聞こえていた音は、不意に鳴りやんだが、しかしもう遅い。
 マッドは眼が覚めてしまった。




Ocean Depths





 眠る前に、自分を裸に剥いた男と、それじゃあその後何かあったのかと言えば、結論から言うと何
もなかった。
 剥いてから、散々うじうじしていたサンダウンは、ぶつぶつと欲しいだとか何だとか言っていたが、
結局マッドに手を出してこなかった。奪うつもりはないだとか言っていたが、裸に剥かれて跪かれて
足の指を舐められたマッドとしては、むしろてめぇ俺を舐めてんのかと言うところだ。
 見た目に自身のあるマッドとしては、大いに傷ついた。
 これまで、押し倒されるところまでは――その前にマッドの蹴りが炸裂していたので――いかなく
とも、男にも女にも迫られた事があるマッドは、自分の身体と顔が、如何に他人に魅力的に映るかを
自覚していた。自覚していたからこそ、それを最大限に活かして生きてきたところもある。マッドに
とっては、顔も身体も武器だ。
 己の矜持が許せる範囲で、男にしなを作ってしなだれかかった事もある。内心嗤いながら、男の前
でわざと生足を見せてやった事もある。
 勿論、マッドは男に抱かれて喜ぶ趣味などない。だから、それは仕事で必要な場合に限って、だ。
もしくは、本気で相手をどん底に叩きつける為か。男に剥かれる事があったとしても、直後に股間を
蹴り上げる事を計算してやっている。
 ただ、サンダウンに剥かれる事は、マッドの中では想定外であった。
 サンダウンは、無口でもっさりした、何を考えているのか分からないおっさんである。五千ドルと
いう高額の賞金と、その銃の腕を除けば、マッドのサンダウンに対する認識などその程度のものであ
る。おっさんである。
 逃げ足だけは早いおっさんをかなり長い間追いかけているが、この男についての噂というものをと
んと聞かない。聞くのはどこどこにいるとか、そういう噂だけで、ならず者にありがちの女の話や血
腥い話を聞かないのだ。新しい罪状が増えたという話も聞かない。
 五千ドルという賞金が何を仕出かして膨れ上がったのかは分からないが、このままそれが更新され
る事は、この先どうやらなさそうである。
 いや。
 マッドは自分が未だ剥かれたままである現実を思い出し、首を横に振った。
 自分に対する、この不埒な行為は、一応罪になるのではないだろうか。今のところ暴行は加えられ
ていないが、マッドが女であったなら間違いなく痴漢行為である。あと、足の指を舐められる事も、
十二分に痴漢行為だ。
 まあ、百歩譲って痴漢行為はまだ良いとしよう。良くはないが、マッドはその程度の事で騒ぎ立て
るつもりはない。男の前で全裸を曝すなど、今更だ。ならず者を罠にかける為に、こういう事をした
事もなくはない。
 ただ、マッドが気になるのはサンダウンはそれ以上手を出してこない事である。繰り返すが、マッ
ドがこういうふうに肌を曝していたら、下心のある男は大抵手を出してくる。
 なによりも、サンダウンはマッドを剥いて全裸にした張本人である。何故、手を出してこない。足
を舐めてそれで満足するのか、このおっさん。完全に枯れているのか。それとも、ただの脚フェチか。
 そう思いながら、結局サンダウンは何もしてこなかったので、アホらしくなって眠ったのが数時間
前。
 ちらりとカーテンに閉ざされた窓を見れば、やはり光は差してこないから、まだまだ夜は深いのだ
ろう。
 そういえば、眠る前には灯っていたランプの炎も消えている。眠る前はサンダウンが微かに動く影
も、部屋の中で大きく動いていたし、マッドの呼吸の動きも陰影になって踊っていた。それらが、全
て闇に沈んで、深い蒼褪めた闇が微かに蠢いているだけである。
 それでも、サンダウンの動きに気が付いたのは、単にマッドの眠りが決して深くはなかったからだ。
全裸で、しかも賞金首の前で無防備に眠りこけたりはしない。マッドは身体を休めるだけの、獣の浅
い眠りを漂っていた。
 獣の眠りは、幾つもの夢を連れてくる。
 サンダウンの気配を足元に感じながら、マッドはサンダウンが何かぶつぶつと繰り返す夢を見てい
た。何を言っているのかは全く聞き取れなかったが、マッドに対して言いたいことがあるらしい事だ
けは分かった。そしてそれが、実際に現実でもサンダウンが言っているらしいことも。
 そういえば、眩しいとか何とか言っていたな。
 そして、それがマッドが剥かれた理由だった気がする。マッドが眩しいから、剥いたらもっと眩し
くなるんじゃないかと。 
 いや、おかしいだろ、それ。
 眩しいだとかそういう台詞は、まあ確かに口説き落とす時の文句に使わないでもない。陳腐ではあ
るが良くある良くある。その言葉が、サンダウンから、しかもマッドに向けて吐かれた事は意外だが、
しかしそれはまあ置いておこう。
 おかしいのは、眩しいから更に眩しくしてやろうという言葉だ。剥いたら眩しくなるという意味も
不明ではあるが、眩しさを更に悪化させてどうする。
 私には眩しすぎる。
 それなら分かる。
 だが、だからもっと眩しくなれとは。もっと輝けという事か、それは。いや、それならそう言うだ
ろう。それともそんな言葉が出て来ないほど、このおっさんは語彙力が貧相なのか。
 案外、そうなのかもしれない、とマッドは思った。
 剥いた後で、手出しもせずに、ただ跪いて足の指を舐める――というか口づけるだけの男に、奪い
たければ奪えとマッドは言った。言外には勿論、出来るものなら、と含めて。しかしそれに対してサ
ンダウンは、奪うものではない、と真顔で答えた。
 なんだ、奪うものではないって。
 奪う価値もねぇってか。
 そう思ってベッドに潜り込んだ後で、ああ奪ったりはしたくないって事か、とようやく合点がいっ
た。それならそうと言え。
 どうも言葉の少ないおっさんは、その言葉の意味を解するのに時間がかかる。これまでどうやって、
他人に己の意志を伝えていたのだろうか。伝えられないから、噂らしき噂が出て来ないのか。人間と
関わる術を持たないから。
 マッドは、未だに足元で蠢く男を、視線だけで見る。サンダウンは、とうの昔にマッドが眼を開い
て、夢から覚めている事に気が付いているだろう。しかし、その瞬間に止まった動きは、再び動き始
めている。

「おい、てめぇ、何してやがる。」

 今夜だけで何度目だ、この問いかけは。
 マッドは渾身の溜め息を含めて吐き捨てる。案の定、サンダウンからの返事はない。ただ、サンダ
ウンのかさついた手がマッドの脚首を掴んだ。
 普通なら、その手は性欲を孕んでいて然るべきで、そうならばマッドも容赦なく蹴り飛ばした事だ
ろうが、しかし生憎とサンダウンの手は黙々と作業的な感情しか零さない。まるで銃の手入れをする
かのような手つきで、マッドの脚首を掴んで、何かをしている。
 だから、何をしている。
 マッドが痺れを切らして上半身を起こすのと、足首に何かひんやりとしたものがぶつかったのは、
同時だった。
 身を起こして、脚の間を見下ろせば、足元の闇の中で青い眼がきらりと光った。その更に下で、も
っと別の何かが煌めいた。マッドの脚首で、何かが光っている。

「お前、が、」

 深淵から囁くような、低いサンダウンの声が闇を打った。掠れた声は、ようやくサンダウンの中に
欲がある事を示す。

「お前が、見下ろす私の場所は、こんな色をしている。」

 荒野の空のようなきつい青い眼をした男は、マッドの脚首にぶら下がっているそれを、武骨な指先
でなぞった。
 紐か何かを通したそれは、インディアンが良く飾りにつけているビーズだろうか。鉛玉ほどもある
大きさをしたそれは、その肌触りから硝子玉のようだ。ちかりと光った色合いは青い。だが、サンダ
ウンの眼よりも暗い色をしている。
 例えていうなら、鯨の骨が沈む海の底だ。
 そしてサンダウンは、自分はそこにいるのだと言う。

「……お前が来る前は、」

 足の指に、覚えのある感触が落とされた。眠る前に感じたそれに、また口づけられたのだ、と思う。

「……色さえなかった。」

 だから、もっと、もっと。
 言葉が閉ざされた。サンダウンが黙り込む。息の音は聞こえるし、衣擦れの音も聞こえる。
 もっと、眩しくなれば、きっともっと、世界は色づく事だろう。
 言葉は聞こえなかった。
 だが、マッドはそういう声を聞いた気がした。
 足元で、サンダウンのいる場所と同じ色をした硝子玉が、肌を叩いた。