マッドは、今にも崩れ落ちそうな小屋の中から、止まない雨を見つめた。いつもは乾き切った大地
 
 のくせに、一旦雨が降ると眼の前さえ覚束ないような驟雨となり、水捌けも悪いために、地面が濁
 
 流に飲み込まれたような状態となる。当分は此処から出られそうにないと、マッドは溜息を吐いた。

 街を出たばかりなので食糧も水も困る事はないが、閉じ込められて何処にもいけないとなると、何
 
 となく憂鬱になる。



 ガキみてぇ。



 雨で外に出られない事を嘆くなんて、子供みたいだ。マッドはひび割れた窓硝子から視線を逸らし、
 
 眼を閉じる。何もする事がないのなら、少しでも休息をとるべきだ。こんな日に襲ってくるような
 
 根性のあるならず者も、そうはいまい。
 
 

 埃に塗れた壁に身を凭せ掛ける。手負いの獣がひっそりと息を殺して傷を癒すように、マッドも呼
 
 吸を雨音に合わせて身を丸める。



 だが、そんな思惑は敢え無く沈没した。

 反射的に開いた瞳は、すぐさま、らしくもなくうろたえたような光を灯す。



 ―――なんで、。



 近づく気配。雨をしのげる場所を探しているらしいそれは、違える事なくこちらに近づいている。

 あまりに知りすぎた気配に、マッドは咄嗟に腰を浮かせて、逃げるような素振りさえ見せた。
 
 
 
 普段なら、腐れ縁だなんだと笑い飛ばせただろうが、あの夜からマッドの気分は冴えない。ぐずぐ
 
 ずと燻る感情は、葛藤というにはあまりにもお粗末で、膿んだ傷口のように眼を背けたくなるよう
 
 なおぞましさだ。そんなみっともない状態で会ったところで、余計に気分が悪くなるだけだ。いや、
 
 それ以上に胸中でどろどと渦巻く感情が破裂しそうになる。けれども、狭い小屋の中では逃げ場も
 
 隠れる場所もどこにもなく。



 何よりも追い求めて、そして誰よりも会いたくない姿は、当然のようにマッドに向かってきた。
 
 

 動けないマッドをよそに、サンダウンはずかずかと朽ちかけた床を踏みつぶし、小屋の中に入って
 
 くる。マッドが気配でサンダウンに気付いたように、サンダウンもマッドがいる事に気づいている。

 気付いていて、この小屋の中に入ってきたのだ。軋んだ音を立てて翻る気配とサンダウンの影に、
 
 マッドは立ち尽くした。



 辺りに漂う、澱んだように重い空気は、決して雨の所為だけではないだろう。マッドは冷えた空気
 
 の中で、どうにかしていつものような笑みを浮かべようと口角を持ち上げる。



「よお………てめぇも雨宿りかよ。けど、この場所は俺が先に見つけたんだぜ?」



 勝手に入ってくるのは虫が良すぎねぇか?



 こんな古ぼけた空家に勝手にも何もないだろうが、一応、言っておく。むろん本心ではないが、く
 
 るくると手の中で銃を遊ばせてみると、サンダウンが僅かに顔を顰めたのが分かった。
 
 

 この男は気付いただろうか?
 
 口では本心を語っていないが、手の中にある銃はマッドの本心を示している事に。



 ―――近づいてくれんな。



 この状況はあまりにも危険すぎる。外は雨で、ありとあらゆる命は怯えて隠れてしまっている。太
 
 鼓を叩いているかのような音は激しく、他の如何なる音も通さないだろう。この小屋は、冷たく濁
 
 った、何よりも弱く、しかし強靭な檻の中にある。そして、マッドとサンダウンの間には雑夾物は
 
 存在しない。己の中で薄汚くねっとりと蠢いている感情など、障害にもならない。
 
 

 どれだけ気分が乗らないだとかそんな言い訳をしても、この男に求められたら、きっと拒めない。



 サンダウンから僅かに眼と銃口を逸らし、マッドは気配だけでサンダウンとの距離を測る。この距
 
 離しか、マッドが身を守るものはない。
 
 

 探るマッドに何かを感じたのだろうか。サンダウンはマッドに近づく歩みを止めた。雨音が遠くで
 
 聞こえる小屋の中に、ぽたぽたと、サンダウンの身体から垂れる滴が床にぶつかる音が響く。マッ
 
 ドは手の中で銃を弄びながら、その滴の音でサンダウンの位置を覚える。



 その音が不意に途切れた。
 
 同時に、サンダウンの気配を見失う。

 それは、時間にすればほんの一瞬の事。

 だが、マッドが危機感を覚えるには十分で、サンダウンが自身の気配を見失ったマッドの隙を突く
 
 にも十分だった。

 
 
 心臓が一拍打つにも満たない時間で、詰められた距離。


 
 腕を取られる。
 
 視界が塞がれる。

 影が重なる。

 一番薄い皮膚どうしが触れ合う。



 ゼロになった距離が、僅かにずらされた。青い双眸に映る自分が、ようやく見えるようになる。だ
 
 がすぐに、熱を送り込まれる。



「…………っ!」



 呼吸を奪われ、マッドは短く呻いた。そんなマッドから、サンダウンは再度離れ、耳朶に近づき甘
 
 噛みするように囁く。



「嫌ならそう言え………何もせずに放してやる。」

「……………!」



 耳に吹き込まれた言葉に、マッドは身を固くした。これまで、好きなようにマッドの身体を蹂躙し
 
 ていた男が、初めて示した『逃げ道』。それは、この一方的な関係の責任の一端が、マッドにも授
 
 けられる事を意味している。



 了承すれば、マッドがサンダウンを受け入れる事を認めた事になる。

 拒否すれば、サンダウンはマッドに触れる事もなくなるだろう。



 漠然とした不安を抱え込んで黙り込んだマッドの頬を、サンダウンの指がなぞる。促すようなそれ
 
 に、マッドは答えられずに青い眼差しを見上げるしかない。読み取れない光を宿すそれは、しかし
 
 マッドが口を開くまで待ち続ける意を示している。眼を逸らしたくても、頬を包み込んだ大きな掌
 
 が、それを許さない。



 受け止めれば、心に蟠る願いを認める事になる。

 拒絶すれば、その願いが永遠に消え失せる。

 凝ってしまった虚勢が受諾を許さない。
 
 浅ましい欲が拒絶を望まない。

 あまりにもくだらない、しかしだからこそマッドを引き裂かんばかりの葛藤。



 迷い子のように途方に暮れるマッドに何を思ったのだろうか、サンダウンの眼差しがふっと和らい
 
 だ。頬を包んでいた手の片方が肩に回され、瞬く事も忘れた眦に口づけられる。その時になって、
 
 マッドは自分の身体に力が入っていた事に気づく。そして、瞬きが少なすぎた所為か、眼元が潤ん
 
 でいた事にも。
 
 

 胸元に引き寄せられ、乾き切った瞳を閉じる。髪の間に指を差し込まれ、線をなぞるように撫でら
 
 れてる。



 マッドは、だらりと腕を垂れさせて、いつものようにされるがままになっていた。だが、いつもな
 
 らそのまま押し倒されるはずが、サンダウンの手がマッドの垂れたままの腕を取った。背中に導か
 
 れた腕に狼狽えて顔を上げると、瞼に唇を落とされて、咄嗟に再び眼を閉じる。



「………嫌なら、手を放せ。」


 
 再び突き付けられた選択。言葉にする事をあくまでも嫌がるマッドへの、サンダウンのぎりぎりの
 
 妥協。手を解けば逃げ出す事が出来る。けれど、今はサンダウンに肩を抱かれて、その熱を感じて
 
 いる状態で。どろどろに溶けた檻は、ほとんど塞がっている。



「……………。」



 閉ざされようとしている檻の扉をすり抜ける力など、もはや残っていない。サンダウンの背に緩く
 
 回された腕は、とても、降ろせそうにない。動かずに答えを待っているサンダウンに、マッドは閉
 
 じていた瞼を更に固く閉ざす。そして、本当に少しだけの力を込めて、その広い背中に指を立てた。

 しがみつくように。



「そのまま、放すな………。」



 言うや否や、マッドの腰は男の腕に捕えられた。