真っ黒な男が突きつける真っ黒な大口は、まるで地獄の凍り付いた底辺のようだと、せむしの男は
思った。




Notre-Dame





 男は生まれながらにしてせむしで、斜視で、瞼は大きく腫れ上がって、鼻はすりこぎで削り取った
ように真っ平だった。親が放り棄てたのも無理はないと思うようなその容貌は、幼い頃から長じてま
で、一向に変化の兆しはなかった。
 つまり、アヒルの子が白鳥になるといった夢物語など、所詮は夢でしかなかったのだ。
 捨てられた醜い子供を拾い上げる手は、幸いにして開拓されたばかりのアメリカ荒野でも幾つかあ
った。プロテスタントが最初に入植したとも言われる大陸では、白人の間では当然、キリスト教が幅
をきかせていた。
 キリスト教は俄然、選民思想なところが強く、己にとって未開の地である暗黒大陸に住む者どもは
悉くが野蛮の生き物で、それを調教するのが己が役目と思っているところが多々ある。
 しかし、一方で同じ白人には同郷の念を覚えるのか、妙に助け合う部分があったし、そもそもキリ
スト教の教えと言うのは弱者救済であるところを踏まえれば、親に放逐された醜い赤ん坊を拾い上げ
る事は、主の御心に叶う事であった。
 ただ、男の場合あまりにも醜い容姿の為、下手をしたら悪魔だと騒がれる可能性もあったのだが、
拾い上げた司祭長が真っ当な心根を持っていた事は幸いで、彼は悪魔ではなく、偉大なる主の作り給
うた人の子として育てられたのである。
 司祭長は、堕落した人ではなく、潔癖な僧であった。僧にありがちな、酷く平等である事を重んじ
る人であったから、多少融通の利かぬところはあったが、しかそれでも醜い子供には献身的な愛を注
いできた。
 だが、今日日ありふれた、醜き者に清き心が宿るだなんて妄想は、生憎と現実ではまあ少ない。所
詮、彼らは人の子である。神が作り給うた、そして神を裏切って楽園を追われた人の子の一人である。
醜き容貌が、それらを帳消しにしてくれるわけがない。
 彼もまた、欲望溢れた人間だったのである。
 だから、司祭長の潔癖な心根に反感を覚える事も、その反感に乗じて行方をくらませ、行き着いた
先がならず者共の巣窟であった事も、別に取り立て驚くような事ではない。特に後半の顛末について
は、醜い外見の者が教会という圧倒的な善意の下から抜け出した時に、後ろ盾なく一人でどうにか世
間様と折り合いを付けられるかと言えばそうではない事を考えれば、実に容易く想像が出来る事であ
った。
 ならず者の中にも、男のように醜い姿の者は多くない。
 男は、無法者達の中で小突かれ、蹴り飛ばされ、その間を潜り抜けながら、それでも行く宛がない
故に、無法の地を自分の居場所としていた。
 冷遇の地で、些少な優しさを与えられたら、そちらに靡いてしまうのは世の常である。
 優しさを与えた相手にしてみれば、一時の気紛れであっても、与えられた方はそうそう忘れはしな
い。時にはそれが恋心に転じてしまう事は、もはやありふれ過ぎて、なんらかの価値を与える事さえ
馬鹿馬鹿しい。
 しかし、それでもそちらにはまり込んでしまうのが人間なのだ。
 まして男は、あまりにも醜い容姿であるが故、一般の人間が楽しむ人生の大半を、押し潰してしま
っている人間である。初めての恋の味に、有頂天になるなというのは、どだい無理な話であった。
 男に優しさを与えたのは、ならず者達の間で華麗に脚を翻す踊り子だった。
 男は、踊り子と聞いている。
 実際は春を鬻ぐ踊り子であったのかもしれぬが、いや、十中八九そうであっただろうが、醜い男に
はどうでも良い事だった。男にとっては踊り子が、苦しむ己に一片の言葉を投げかけ、周りの連中か
ら庇ってくれた、それだけが重要だったのだ。
 そうとも、男には、踊り子が他の男に夢中になって逢瀬を繰り返している事などどうでも良かった。
 踊り子と逢瀬を繰り返す男は、金回りの良い、その地一帯の治安を守る検事であったという。なら
ず者達と癒着を続けている男が、善人であるはずがないのだが、しかし何処か白の騎士然とした検事
に、その化けの皮の下を知っているであろう踊り子は、ころりと騙されていた。
 検事がならず者と癒着している事は、そう珍しい事ではないから、大した悪事ではないと判断して
いたのかもしれない。事実、ならず者と結託して、別のならず者の手で町が荒らされぬようにする、
という事はままあった。
 しかし、踊り子は検事に実は婚約者がいる事は、知らないようであった。己が唯一の恋人であると
信じて疑っていないようであった。自分は蝶が花から花へと飛び移るように、無数の男と寝てきたの
に、男のほうはそうではないと信じているあたり、踊り子もまた、普遍的な恋に憧れ、その味に酔っ
ていたのかもしれない。
 せむし男にとっては、検事の不実は許せぬものであり、踊り子の悲恋はどうにかしてやりたい事柄
であった。
 けれども醜い男など、踊り子のほうでは言葉を交わしたのも一時の気紛れで、既に視界からは逸れ
ている。
 しかし、せむし男のほうはそうではなかった。叶わぬであろう恋に燃えている踊り子を、影からそ
っと見つめ、どうにもならぬ己の容姿に地団太踏み、そして再び踊り子に視線をやるといった事を繰
り返している。
 せむし男は、踊り子が他の男に恋焦がれていても、それ以上の炎で焦がれていたのだ。少なくとも、
彼女と検事が、せめてどうにかして幸せに共になる事は出来まいかと考えるほどに。 
 だから、賞金稼ぎの一群が、ならず者の塒となっている暗窟に雪崩れ込んできた時、どうにかして
踊り子と検事だけでも逃がそうとしたのだろう。
 検事とならず者の癒着は、実はせむし男や踊り子が考えている以上に深いものであって、看過でき
ぬ様相となっていたのだ。検事が己の良いように判決を変えていくなど、治められている側は堪った
ものではない。
 不当な判決を下された者の親族縁者が、賞金稼ぎの王の足元に金を叩きつけたのだが、それはせむ
し男の知らぬ話。
 ただ、狂犬が自分達の首を噛みきろうとしていると騒ぐ周りの連中の声に、事態が由々しき状況で
ある事は理解できた。
 賞金稼ぎの攻撃は、苛烈であった。元来、賞金稼ぎはならず者の命など保証しない。生きていても
死んでいても良いのなら、いっそ死んでいた方がやりやすい。そう考えている人間がほとんどだ。
 だが、それを考慮しても、実は、特に検事の怯え方は異常であったのだ。それは単に、向かう賞金
稼ぎが狂犬の名を冠する男であった事に由来するのだが、その意味はせむし男には分からない。狂犬
が、誰よりも残酷に、適切に罪人を裁くかなど、ならず者の間では有名ではある。むろん、ならず者
の路に脚を踏み入れた検事も、知っている事だろう。そして己の罪の深さを知っているから、怯えた
のである。
 怯える検事に、踊り子は付き従う。その踊り子を逃がす為、せむし男は盾になった。
 二人を裏口から逃がし、自分はせいぜい騒ぎ立てて場を攪乱したのだ。
 そしてあちこちでならず者が撃ち落され、逃げ出し、とうとう騒ぐ人間がせむし男だけになった時、
真っ黒な賞金稼ぎが、現れた。誰かが、狂犬の名を告げる。撃ち取られて跪いて許しを請うならず者
が、その名を呼んだのか。
 さらりと現れた狂犬を、せむし男は一瞬司教かと思った。自分が逃げ出した教会の、司祭長をふと
思い出した。
 だがそれは影の所為で黒い服がローブのように見えただけで、実際は全然違った。狂犬はまだ若く、
服は黒かったが洒落た模様が薄く施されており、シャツも細かい刺繍が縫い付けられてる、一見して
値の張るものだった。
 口元に笑みを刷いて、うっとりとした眼でせむし男を見た。嘲りでも好奇でもない、上品な眼差し
に、せむし男は情愛めいたものを勘違いした。

「なるほど、カジモドだな。」

 狂犬の声は、信じられないほど美しかった。端正で、昔聞いた讃美歌よりも尚、調和していた。

「踊り子に恋したせむし男か。ますますカジモドだ。」

 何を言っているのだろうか。
 首を傾げているせむし男に、知らねぇか、と狂犬は呟く。呟く声さえ、天使のようだ。

「てめぇが踊り子に夢中になってたって話は、ちょこちょこ聞いてた。しかし馬鹿だな、あれは踊り
 子でも、男の上で踊るのが仕事だぜ?」

 まして今は、検事の愛人だ。

「ならず者の間で生きた挙句、そんな女を命張ってまで助けるなんざ、てめぇ育てくれた人間に顔向
 けできねぇんじゃねぇのか?」

 それともまさか、てめぇもフェビュスとエスメラルダが善人だって信じてるクチか?
 そう吐いて捨てた瞬間、狂犬は牙を剥き出しにして、今度こそ嘲りを込めてせむし男を見た。せむ
し男に対して、皆が投げつけた侮蔑と嘲笑と嫌悪の眼差しとは、全く違う狂犬の眼に、せむし男はど
うすれば良いのか分からない。
 嘲りの色はあるが、それはせむし男の容姿に向けられたものではない。

「無知は罪だな。冗談抜きで。てめぇはそれを正に体現してるぜ。自分が何に守られてきたかも知ら
 ないで、ちょと撫でてくれた馬鹿に尻尾を振るか。いっそ首輪でもつけて引き摺り回してやったほ
 うが、てめぇの為だったんじゃねぇのか。なあ。見世物小屋で化け物呼ばわりされてる奴のほうが、
 よっぽどか話ができるぜ。」

 そう言って、狂犬は後ろから別の男が差しだしてきたものを、無造作に床に放り投げた。
 それは、苦悶の表情を浮かべた踊り子と、検事だった。
 ひっと声を上げて、踊り子の首に取り縋ろうとしたせむし男は、しかし狂犬の長い脚で蹴り飛ばさ
れて床に這いつくばった。

「てめぇみたいなガキの盾が、俺の牙を跳ね返せると思ったか。こいつらは違うだろうよ。てめぇが
 食い殺されることなんざ百も承知でてめぇの盾に甘んじた。甘んじたこいつらは馬鹿で、本来なら
 縛り首にしてやるべきなんだがな。だが、それ以上に反吐が出る。」

 未だ、女に取り縋ろうとする、せむし男の無様さに。
 未だ、己を案じている人間の事を思い出せないせむし男の、くだらなさに。

「そんな容姿でも誰か好いてくれるとでも思ったか?必要とされて嬉しかったか?くそくらえ。そん
 なもん、てめぇらのやった事の情状酌量にもなりゃしねぇぞ。愛やら恋が、罪の軽減になるなんて
 勘違いは捨てちまえ。」

 自分でならず者に成り果てた。
 ならず者達に加担した。
 踊り子に恋をして、ずるずると居座った。
 その間も勿論、ならず者達に混ざって、盗みを犯した、薬を売った、人を殺した。 

「容姿、同情、恋愛、無知。悪いが俺は、そんなもんで獲物を逃がした事はねぇ。」

 賞金稼ぎマッド・ドッグは、決して獲物を逃がさない。
 まして、直々に請け負った仕事なら、猶更。
 
「てめぇを裁けと、俺は依頼を請け負った。」

 ひくひくと、女の首に手を伸ばすせむし男に、狂犬が牙を剥く。その、浅ましさに。醜きに清きが
宿るなど、妄想だ。この男は、未だ思い出さない。

「てめぇの、育ての親から。」

 銃声が、黒々と開いた。




 検事殺しを請け負ったマッド・ドッグの下に、一人の男がやって来た。
 マッドの前に現れるには相応しくない、黒のローブを身に纏った、司祭だった。
 壮年の域に達し、髪に白いものの混じる司祭長は、マッドが請け負った仕事の中に、恐らく自分の
育て子がいると言った。
 せむしの男。
 容姿に特徴がありすぎて、間違いがないと。
 酷く疲れた様子の司祭長は、ゆっくりと首を横に振って、マッドの前に跪いた。神の前に額づくよ
うに。

「あの子を助けてください。」

 無理だ。既に人を殺している。
 マッドは、司祭の嘆願を一語で切り捨てた。
 途端に、疲れ切った顔に、深い苦渋の色が広がる。予想はしていただろうに、実際に切り伏せられ
た事で、司祭は一気に老いたようだ。
 しかし、それでも子供の事は見捨てられぬのか、掠れた声で、マッドの手にある銃の引き金となる。

「では、せめてせめて、慈悲を。」

 あの子に。
 マッドは、せむし男の最期の眼を思い出す。
 果たして、カジモドはフロローの事を愛していただろうか。答えは、否、だ。カジモドは善ではな
い。欲望を持った人間だ。
 だからきっと、あのせむし男も、司祭長の渾身の願いは聞こえなかった事だろう。むしろ唐突に出
てきた言葉に、面食らい、最悪何故自分を殺すのかと憤ったのではないか。
 それが、正しい解釈だろう。

「悪魔祓いを頼まれた方がましだったな。」

 教会の庇護の重さをもっと教えてやっていれば良かったのだ。或いはもっと早くから世間一般の仕
事をさせてやるか。醜い容姿なんぞ忘れるほどの技量でも持たせてやれば。潔癖な教会にいたから、
せむし男は何も知らなかった。だから恋に溺れた、教会の庇護の重さが分からなかった、狂犬がやっ
て来た意味を知らなかった。
 せむし男を案じるならば、もっと早く助けてやるべきだったのに。司祭長も結局は祈るしかしなか
った。悪人ではないが、しかし打つべき手はもっとあっただろう。

「二度とやるもんじゃねぇ。」

 聖職者からの依頼なんぞ。
 マッドは小さく吐き捨てた。
 そうあれかし、なんて祈り、狂犬は持たないのだ。