その酒場を訪れたのは、本当に偶然だった。

 騒がしさと奇妙な沈黙を孕んだ酒場は、普段なら無視をして通り過ぎてしまうものだった。

 賞金首である自分がその中に割り入れば、一触即発とも言える空気を爆ぜさせてしまう事は眼に見えている。

 それでもその扉を開いたのは、身の破滅さえ厭わない気紛れの所為だろう。

 自暴自棄と言われても仕方ない気紛れは、しかし次の瞬間、焼けつくような熱でもって受け止められた。

 きついアルコール臭と、立ち込める葉巻の煙に眉を顰める暇さえ与えない。

 寡黙で常に沈着な賞金首サンダウン・キッドを、目の前に広がる光景は、確かにその双眸を、僅かにではあるが見開かせる事に成功
 したのだ。

 匂いだけで酔いそうなアルコールの原因である酒瓶が所狭しと倒れ、その上に重なるように幾人もの男達がアルコール漬けのように
 倒れている。

 辛うじてテーブルに着いている男達の口には葉巻が加えられ、絶え間なく煙を吐き出し続けているが、しかしそれを咥えている当の
 本人達は凍りついたように動かない。

 それらの最奥で、悶絶しかけの巨体が蠢いている。

 そして、それらの何一つにも露ほどの興味も示さず、キリストが荒野で出会った悪魔よりも十分に艶っぽい、西部の荒野を駆ける死
 神が、皮肉な笑みを湛えてサンダウンを迎えた。 





 Grauel






 
 凝然とする空気の中、サンダウンは何が起きたのか一瞬で把握した。

 きっかけは分からない。

 しかし、何が起きたのかは分かる。

 テーブルに凭れかけて常よりも上気した顔で、しかし普段と同じ笑みを浮かべる死神――マッドが、この累々と横たわる男達を呑み
 潰したのだろう。

 そして一人で数十人もの男達を相手にしたマッドは、いつものように薄い笑みを唇に挿し、葉巻に火を点けている。

 
「よう、久しぶりだな、キッド。てめぇがこんなサルーンに来るなんざ、珍しいじゃねぇか。」


 甘い独特の香りは、マッドが好んでいるものだ。

 それを細く長い指に挟み、彼は気だるげにさえ見える優美さで首を傾げる。

 しかしその繊細さとは裏腹に、ジャケットの裾から見え隠れする黒光りする厳めしい物体が、マッドの中を暴れ回る凶暴さを示して
 いる。


 
 先程まで張り詰めていた酒場の空気は、サンダウンの登場により一層凍えたようだ。

 5000ドルという高額の賞金が掛けられているサンダウンの名を知らぬ、荒くれどもはいない。

 そして、そのサンダウンを賞金稼ぎであるマッドが追いかけている事も、周知の事実だ。

 今までに、二人が幾度となく繰り返してきた銃弾の交配も、知らぬはずがない。

 それ故に、酒場の中の体感温度は、これから繰り広げられるであろう鮮やかな生死の遣り取りを予測して、絶対零度以下に下がって
 いる。

 それは、マッドの拡散していた意識がサンダウンただ一人に向けられている所為もあるに違いないだろう。

 微笑みと共にサンダウンに送られる、焦がしつくすような熱は、ばら撒かれていたマッドの熱が全て凝集された為だ。

 その感覚に、サンダウンは知らず知らずのうちに背筋を悦びに震わせた。

 誰よりも世界を従える瞳に見られて、喜ばない人間がいないはずがない。

 場の中心人物に目を掛けられて喜ばない物がいないのと同じだ。


「表出ろよ、キッド。」


 微かに赤い頬と瞼が、マッドが酔いの内にある事を知らせているが、それ以上に鋭い熱がマッドが臨戦態勢にある事を知らしめる。

 遠巻きに眺める客など風景の一部と化し、マッドは床に散乱する割れた酒瓶を踏み越える。

 凍てついた空気の中で、唯一彼だけが生者のようだ。


「そろそろケリを着けようぜ………。」


 ゆるりと煙を吐き出す葉巻を挟む指の隙間から、ぽたりと赤い線が落ちた。

 この時、初めてサンダウンはマッドがその手に傷をつけている事に気付いた。

 たらたらと零れるがままになっている血は、やたら艶めかしく、それと同じくらい艶めかしい声でマッドは、それとも、と楽しげに
 囁く。


「てめぇも、こいつらと同じように、俺と勝負するか?」


 長い脚がその爪先で小突いたのは、倒れている男達のうち一人だ。

 アルコール漬けになった男達と、何が原因でこんな勝負をする事になったのかは分からないが、サンダウンはマッドの背後で立ち昇
 った影に眉を顰めた。

 悶絶を背中で繰り返していた巨漢が、脂汗を垂らしながらも立ち上がり、マッドの腕を人形でも掴むかのように引いたのだ。


「俺を無視しようったってそうはいかねぇ……。」


 どうやらサンダウンが現れる前までは、その巨漢の相手をしていたらしい。

 しかしサンダウンを前にしたマッドが、サンダウン以外に心を奪われるなど有り得ない話だ。

 だが、男にはそれが、わからない。


「俺との勝負はまだついてねぇだろぉ?!」

 
 咆哮に近い叫びを上げ、巨漢がマッドをテーブルに抑え込もうとした。

 その強い毛に覆われた指は、明らかな意図を持ってマッドの脚を押し開こうと動いている。

 マッド本人に何度かそういう目に逢った事はあるとは聞いているが、実際にそれを見せつけられる日が来ようとは思わなかった。

 その話を聞いた時は何とも言えない気分を味わったものだが、直に見ると湧き上がるのは沸騰しそうなほどの怒りだ。



 自分が触れる事の出来ない身体に、無遠慮に触れるその手が、八つ裂きにしてやりたいほど、目障りだ。



 サンダウンは瞳にだけ怒りの末端を浮かべ、無言で――誰の目にも見えぬ早業で――銃を引き抜き、マッドに圧し掛かる巨漢の分厚
 い肩を撃ち抜いた。

 牽制の言葉など、投げかけない。

 汚らしい悲鳴と共に巨漢がその身に似合わない素早い動きで仰け反り、肩からは血が噴き上げる。

 その反対側の肩からも、一拍の遅れの後に。

 大きく天を仰いだ男の胸を突き飛ばすようにマッドの脚が蹴り飛ばし、巨体がすっ飛ぶ。

 綺麗な弧を描いた血の跡の間に、マッドはむくりと置き上がった。


「興醒めにもほどがあるぜ………。」


 呟き、ずり落ちた帽子を被り直した彼の手には、白い煙を立ち昇らせているバントラインがある。

 その銃口をサンダウンに向けると、口角をくっと引き上げる特有の笑みを見せる。


「さて、と。キッド、やっとてめぇの相手をしてやれるぜ?」


 てめぇはどっちが好みだ?

  
 浅くそう微笑んだ彼に、銀色の照準を合わせると、その笑みが深いものに変わった。

 満足したような安堵したようなその表情は、しかし一瞬の事だ。

 すぐさまマッドの眼には爆ぜるような色が膨らんでいる。

 その頭上に、天井に隠されて見えないはずの満天の夜空が、見えそうだ。

 背後には、サンダウンが捨てたはずの世界の断片。

 世界中の熱を惜しみなくばら撒くその身体が、サンダウンだけを求める姿は、荒野を彷徨いすぎてその乾きに染まってしまったかの
 ような

 サンダウンを存分に満たしてくれる。 
 
 このまま凍り付けとさえ思うが、今日は些か夾雑物が多すぎる。

 内心で舌打ちし、マッドの眼が孕んだ熱が最大限まで噴き上がる様に、彼よりも速く引き金を引いた。

 
 弾け飛んだバントライン。


 しかしその瞬間に周囲で湧き上がった気配に、サンダウンは銃を仕舞う事さえせずに顔を顰めているマッドの傍に大股で歩み寄り、
 その首を引っ掴んで立たせる。

 そして今にもマッドに襲いかかりそうだった、先程まで遠巻きに眺めていた男達に振り返りざまに銃を突きつけた。

 サンダウンが此処に来る前から、濃厚なアルコールと葉巻と、そしてマッドの熱に当てられた者達が、浮かされたようにマッドを求
 めるのは至極当然の事のように思えた。

 そして強者だったマッドが弱者へと転じた瞬間、鬱積していた欲望が爆ぜたのだろう。

 きっと、この異様な空気の中、正常な意識もないだろう。

 辛うじて、突き付けられた銃に本能だけで後退っている。



 再び凍りついた男達を見回しながら、サンダウンはマッドの首に添えていた手を肩へと回す。

 残念ながら、サンダウンは自分の獲物を他人に分けてやるほど優しい人間ではない。

 ことに、マッドに対してはそうだ。

 自分でさえ触れる事が出来ない身体を、何故他人に分け与えねばならないのか。

 何よりも、今のマッドの身体は酔いの所為か常日頃よりも体温が高く、あまりにも心地よい。
 
 そんな身体を渡せるはずがない。

 手に入らないのなら、せめて誰の物にもなって欲しくない。

 
  
 自分の腕の中で、妙に冷静に弾き飛ばされた銃を引き寄せているマッドを、サンダウンは半ば引き摺るようにしながら酒場の扉へと
 近づく。

 サンダウンの放つ凍てついた気配と、その銃口に、誰一人としてぴくりとも動かない。

 手を挙げる事さえ出来ない男達を一瞥し、二つの影は軋む扉を背中で押し広げ、サンダウンがマッドの背に幻影で見た世界そのもの
 である満天の空の下へと転がり落ちた。 
 
 足早に立ち去ろうとするサンダウンの意に反し、本来ならばもっと何か――軽口か罵声か――を捲くし立てているはずの男の長い脚
 が、のろのろとしか動かない。

 それどころか、膝から一気に崩れ落ちた。

 身を支えようと、本来ならば決してサンダウンに縋ったりしない指が、サンダウンの肩に食い込む。

 その圧迫感に咄嗟に身体を支えてやると、そこに浮かんでいたのは先程まであった飄々とした笑みではなく、苦しげに息を吐いて眉
 間に皺を寄せている顔だった。

 上気して荒く短い息を吐く様は、本当に苦しそうで、しかし同時に有り得ないくらい悩ましい。

 
「く……そ………!あの野郎……っ!無駄に強い薬使いやがって………っ!」

 
 決して手に入らない身体が見せる媚態にサンダウンが危うく迷いそうになった時、その身体の持ち主は苦々しげに罵りの言葉を吐き
 捨てた。

 崩れかけた身体を立て直そうとするマッドは、確かに酔いとは違う熱を孕んでいる。

 しかし、マッドならば薬の仕込みには気付きそうなものだし、あの場にいた男達もそれに気付かぬ愚か者ではあるまい。

 なのに、マッドは気付かず、男達は薬を入れるほどに煽られていた。

 一体、何があったのか。

 物言いたげな視線をマッドに向けると、マッドは荒い息の中、酷く面倒くさそうな表情を作った。

 
「もう、てめぇどっか行けよ。後は一人でどうにかなる。」


 サンダウンの問いに無視を決め込むつもりなのか、マッドは、どう考えても大丈夫じゃないだろうと言ってやりたくなる台詞を吐いた。

 この男は分かっているのだろうか、自分が今、どれだけ危険な状態にあるのか。

 現に、今この時も、賞金首を狙う賞金稼ぎさながらの執拗さで、その身を狙う輩が機会を伺っているというのに。

 よろめくように縋っていた指が離れていくのを、その腕を掴む事で引き止める。

 それさえも振り解こうとする身体には、力などほとんど入っていない。

 しつこく腕を掴んでくるサンダウンに業を煮やしたのか、マッドは弱い抵抗で、しかし声だけははっきりと、とんでもない事を告げた。


「うるせぇな………。俺を潰したら抱いてもいいっつっただけだ。」

「………何?」


 思わず聞き返した声に、自分でもはっきりと分かるほどの驚愕と、それ以上の怒りが籠っていた。

 だがその事に、敏いはずのマッドは薬に犯されている所為か気付かない。

 気付かずに、のろのろとサンダウンから離れようとしている。

 
 ―――お前は………。


 自分がどれだけ残酷な事をしているのか気付いていないのか。

 その身体が欲望に濡れた視線で見られている事を知っているくせに、そしてそれに嫌悪を抱いているくせに、そんな事を口にしたのか。

 男が煽られる事くらい、分かっていたはずなのに。



 そんなに簡単に、触れる事が出来ない身体を、触れさせようとしたのか。


 
「………男に抱かれる事が出来るか、試しただけだ。」


 
 ふつふつと感情を煮立てているサンダウンに背を向け、マッドは呟くように言った。

 その眼は、熱に浮かされた身体や顔とは裏腹に、はっとするほど冷然とした表情をしている。

 まるで、全てが計算し尽くされた出来事だとでも言うように。

 大きく息を吐いた喉が酷く震えて、再び倒れそうになる姿にサンダウンは咄嗟に腕を伸ばして支える。




 無理やり熱を引き摺りだされた身体は、自由をその熱に侵食され、もはや抵抗らしい抵抗はしなかった。