分厚い木のテーブルに、壊れそうな勢いで空のグラスが叩きつけられた。

 そのグラスに絡む繊細な指には、幾筋もの濡れた跡が残っている。

 アルコールの匂いが香るその手の持ち主は、皮肉な笑みを浮かべてテーブルを挟んだ対面に座る男を見やる。

 挑発的な眼差しと、やはりアルコールに濡れた唇に見詰められ、血走った眼をした男は並々とアルコールが注がれているグラスを一
 気に煽った。

 太い喉元がぐびりぐびりと動き、髭を蓄えた口元からはだらだらと飲み干せなかった酒が流れ落ちる。

 その様子を、皮肉な笑みを消さずに見つめているのは、まだ若い男だ。

 あらゆる色を呑みこんだかのような黒い髪と、きらきらと光の踊る同じく黒い瞳、そして西部の武骨さとは対極に位置するような繊
 細な指が印象的だ。

 しかし腰のホルスターに帯びた黒光りする銃が、物騒に彼の属性を主張している。

 薄い笑みを口元に刷いた彼の前で、先程グラスを煽った男の身体が突っ伏した。

 固唾を呑んで見守っていた群衆が、どよめく。

 そのどよめきにも笑みを一つ送り、賞金稼ぎマッド・ドッグは悩ましげに囁いた。


「さあ、次はどいつが相手だ?」





 Traumerei






 こんな馬鹿げた事を始めたのは、きっと自分からだ。

 アルコールに侵食されかかった記憶を辿り、マッドは思う。

 そうでもなければ、こんな馬鹿げた勝負をするはずがない。

 こんな勝負を持ちかけられたなら、言い出した奴を冷笑して終わりだろうし、機嫌が悪い時ならば相手を蹴り飛ばすかしているだろう。

 そのどちらでもなく、次々と勝負を挑む相手がいる所を見れば、どう考えても自分が言いだしっぺに違いなかった。

 グラスを再び傾けながら、眼の前で真っ赤になって強い酒を流し込んでいる男を見る。

 この男ももうすぐ潰れるだろう。

 その事実に安堵している自分がいる事に気付き、マッドは苦笑した。

 



 試してみようと思ったのだ。

 
 自分が、男に抱かれる事が出来るのか。


 

 
 男に抱かれたいなど、産まれてこの方思った事などなかったし、自分が男に抱かれているところなど想像も出来なかった。

 けれど、何故か自分を抱きたいと思う男は大勢いるようだった。

 女の数自体が少ない西部では仕方ない事なのかもしれないが、何故よりによって自分なのか。

 自分の持つ仕草やら声やら体躯やらが、珍しいものに映るのか、賞金稼ぎになって名を馳せるようになってからも、マッドを路地裏
 に引きずり込もうとする輩は大勢いたし、若い青年達も本気で掻き口説こうとするのだ。


 事実、数時間前、自分を酔いつぶす事が出来れば抱いても良いと宣言してから、ひっきりなしに挑戦者が現れている。

 今も、自分の順番を待っている男達が周囲に侍っていた。

 
 そんな、好んで自分に手を出そうとする連中に、マッドはいつも冷笑と共に一蹴していた。

 男を抱く趣味も、男に抱かれる趣味も、マッドにはない。

 快楽を追って溺れるのなら、どう考えても女のほうが良いし、幸いにしてマッドは女には困らない。

 サルーンにいれば、一夜限りの相手――商売女達のほうからマッドに寄って来る。

 だから、性欲を持て余して男に走る必要などないのだ。


  
 にも関わらず、マッドは今、自分の身体を賭けて、酒を飲み続けている。





 何十人か目の男を潰し、マッドは大きく息を吐く。

 その眼の前に、マッドの倍の体重はあろうかという大男が、椅子を軋ませて座った。


「そろそろやばいんじゃねぇか?え?」


 にたりと好色な眼を浮かべてグラスに酒を注ぐ男に、マッドはやんわりとした笑みを向けた。

 そして、一気に酒を煽って、挑発的に男を見据える。 
 



 
 きっかけは、マッドの身の内にいつの間にやら棲みついていた、どうしようもなく醜い悪魔だった。

 自分と同じ顔をしたそれは、高らかに笑いながらマッドの一番深いところを貫いている。

 誰も知らない、遥か昔にマッドが壊して捨てた残骸の掃き溜めのような場所を抉り、引き摺りだそうとしている。

 愛情だの、優しさだの、西部に来る途中で列車の中から投げ捨てた――その実、マッドは気付いていないだろうが確実にその中に息
 づいている――穏やかな感情を、悪魔は掻き集めて繋ぎ合わせ、弄んでいるのだ。

 しかも、最近では高い確率で一人の男の姿を取り、眼が醒めている時だけでなく夢の中でさえ甘く囁く。


   
 ―――抱いて欲しいんだろう?



 頬を柔らかく包み込み、物静かな青い双眸で問われる。

 
 誰に?

 誰が?


 マッドからの問い掛けは不要だ。

 夢の中での――ひいては精神世界での問答は、全てマッドが答えを知っている。

 何よりも、悪魔が借りている姿こそが、答えだ。

 

 荒野の真上に広がる空と同じ、濃い青。

 荒野を舞う風に流される、砂のような色の金髪。

 自分とは対照的な、武骨でかさついた掌は、住まう場所が異なる事を思い知らすかのよう。



 長い間、追い求めている姿だ。

 これからも、追い続ける身体だ。

 きっと、殺されたっていいと思っている。

 だが、それはあくまでも賞金稼ぎとして、追いかけ、求めているのだ。

 間違っても、悪魔が囁くような意味合いではない。

 マッドが夢見るのは、その額を、胸を、この銃弾で撃ち抜く瞬間だ。



 けれど、その夢の中で、悪魔はマッドを思う様に嬲り続けている。

 マッドが追いかけている身体そのままの姿で、マッドの腕を引く。

 腕を引いて、腰と肩に腕を回して抱き寄せて、抱き締めて口付けて組み敷いて、身体を開かせて。


 ―――抱いて欲しいんだろう?


 囁いて。



 一度や二度ではない。

 まるで、箍が外れたように、連続して雪崩れ込むように同じ内容の夢を見る事だってある。

 自分を嬲る相手はいつだって同じだ。

 その相手に抱かれて悦ぶ自分がいるのも、同じ。



 遂に自分は壊れてしまったのだろうか?


 
 最近、本気でそう思い始めている。

 いろんなものを壊して此処まで来てしまったが、遂に、それほどまでに、自分の感情や感覚は狂ってしまったのだろうか。

 昔についた傷が数十年後になって身体を蝕むように、壊してきたものが今になって自分に復讐しているのかもしれない。

 人として単純な欲求が、持てないように。

 

 だから、試したのだ。

 本当に、自分が男に抱かれて悦べるのか。


 
 しかし。



 マッドは煽ったグラスをテーブルに置いて思う。

 どうやら自分はまだ男に抱かれて悦ぶほどには壊れていないらしい。

 眼の前で累々と横たわる男どもが、それ証明している。

 男に抱かれても良いと思っているのなら、こんなに必死でアルコールを消化する必要がない。

 早々にダウンして、男に組み敷かれれば良いだけなのだから。

 そもそも、自分を酔い潰せたら抱いても良い、などと迂遠な方法を取らずに、どこかその辺にいる男を誘えば良いだけだ。

 



 眼の前でばったりと倒れた男に、もはや蠅に向けるほどの関心も寄せずにマッドは、思考を手繰る。

 手はアルコールを注ぐのを止めずに。

 対面には、何十人か目の男がにやにやと笑いながら――そして舐めるようにマッドの身体を見回して――グラスを手に持つ。

 今にも舌舐めずりしそうな男に、マッドは、やはり抱かれるのはごめんだ、と内心で呟いた。




 
 男に抱かれたいわけじゃない。
 
 
 誰でも良いわけじゃない。

 
 誰に抱かれたいのか、など、。 



 いちいち問い掛けるのは愚の骨頂だ。

 夢に出てくるのは、いつだってあの男だった。

 答えなどとうに出ているだろうと嗤うのは、悪魔か、それとも自分自身か。

 口にする気にも言葉にする気にもならない。

 誰にも知られたくないし、誰かに願って祈ったところで、叶えられるようなものでもない。

 いっそ、このまま墓場に持っていくべき内容だ。

 それか、言葉にした瞬間に、死ぬべきような。

 声に出したところで、何も起きない。

 いや、何も起きないのならまだ良い。

 寧ろ、蔑まれる可能性だってある。

 そんな事になったら、あの男に蔑まれる事だけは、それだけは死んでも避けたい。

 死んだほうが、ましだ。




 ぱきり、と。

 乾いた音を立ててグラスが割れた。

 掌に走った痛みに、マッドは微かに眉を顰めた。

 手の中でアルコールを満たしていたはずのグラスが、浅い底だけを残して割れていた。

 どうやら、強く握りすぎたらしい。

 赤を流す傷口に、零れたアルコールが注がれる。

 それと同時に、対面に座っていた男が立ち上がった。

 視界が回転した、と思った時には壁に叩きつけられていた。

 背中の痛みに小さく呻いた視界を塞いだのは、酒で上気した、しかしにやけた男の顔だった。


「へっ。そろそろ身体が言う事を利かなくなってきたんじゃねぇか?」


 マッドを壁に押し付けてそう言う男の言葉に、マッドは、ああと思う。

 薬でも盛られたか、と。

 思考を巡らす事に真剣になりすぎて、周囲に気を配る事がおろそかになっていたらしい。

 その隙に、薬を盛られたのだ。

 どれだけあの男に心を奪われているんだ、と苦笑いしたマッドに何を思ったのか、男は形の良いマッドの顎に手を掛け、顔に広がる
 にやつきを一層深いものにする。


「気持良くなってきたか?だが、お楽しみはこれからだぜ?」


 そういう薬か。

 男が盛ったのは、所謂媚薬とか呼ばれているその手の薬だ。

 そんなに飢えてるのか、とマッドは眼の前の男が少し可哀そうになった。

 だが、ほんの少しだけだ。

 そもそもマッドは男に抱かれる趣味はないのだ。

 そして、どれだけ酔っていようと、薬を盛られていようと、西部一の賞金稼ぎの名は伊達ではなかった。

 
「げばっ!」


 酔いと薬で陶然となっているはずのマッドの脚は、それはもう、素晴らしい勢いで男の股間を蹴り上げた。

 あまり可愛らしくない声を上げて悶絶する男の手から、マッドはしなやかに抜け出す。

 
「薬でこの俺を組み敷こうたぁ良い度胸だ。」

 
 ジャケットの裾を払いながら、マッドはうっとりと男達を見回す。

 思わずといったふうに立ち上がった男達は、潤んだマッドの瞳の中に、しかし凍てついた光が灯っている事に気付き、腰が抜けたよ
 うに再び椅子に腰を落とした。

 絶妙の角度で首を傾げて彼らを今一度眺め、マッドはテーブルに置いていた帽子を拾い上げる。

 
「せっかく盛り上がってたってのに、興醒めだな。俺はここらでお暇するぜ。」


 後はてめぇらで楽しみな。

   
 そう告げるマッドの背後で、うごうごと持ち上がったのは、股間を蹴り上げられて悶絶していた男だ。

 口の端から苦しげに――マッドの眼からすれば見苦しげに――涎を垂らし、男は唸る。


「このくそガキが……いい気になりやがって!身ぐるみ剥いで犯してやらぁ!」


 とてもではないが品が良いとは思えない台詞に、マッドは上がる息を抑えて笑う。  


「もうちょっとましな口説き文句を聞きたかったぜ。」


 突っ込んでくる男をひらりと躱して、ホルスターから銃を引き抜く。

 黒光りする銃が、酔いと薬に震えながらも、しかし普段と同じように凶暴に撃鉄を挙げる。

 牽制と本気の狭間で引き金に手を引くマッドの顔は、やはり笑みを孕み、その身が熱やら快楽やらで侵食されかかっている状態とは
 思えない。


 
 その笑みが、不意に凍りついた。

 周囲の人間は気付かぬくらい、微妙な笑みの変化。

 マッドの手から、ゆるゆると銃が下げられた。

 
「わりぃが、てめぇの相手をしてやる暇はねぇな。」

「ああ?怖気づきやがったか!」


 マッドにしてみれば見当違いな言葉を吐く男に、彼は肩を竦めてみせる。


「いや、だってよ。」


 デーブルに凭れ、熱い息を吐く。

 これは、酔いや薬の所為だけではない。

 マッドは上昇する自分の感情に、浅く微笑んだ。

 気分の上昇に伴って、慣れ親しんだ気配が近づいてくる。

 
 
「恋人の前で、他の奴といちゃつくのは、流石に止めとくぜ………。」



 凝然とした酒場の扉を、何事もないかのように開く武骨な手。

 瞬間、感じるのは心臓が痛くなるほど、焦げ付いた熱だ。

 背筋が粟立つ。

 肌という肌が、歓喜で震える。

 今、この場で撃ち殺されても、きっとこの身体は悦ぶだろう。

 悦びで死ねると言うのなら、今が、その瞬間だ。



 だが、マッドはすぐにいつもの皮肉な笑みを湛えて、酒場に入ってきた影を迎える。
 
 この歓喜を、獲物に出会えた賞金稼ぎのものへと挿げ替える。

 それは、今まで自分がしてきた選択の中で、一番正しく善い選択だろう。

 肉親に対しては間違え続けてきた選択を、今、求める姿に対して正そうとしているあたりで、もはや後戻りが出来ないくらい間違え
 ているのだろうけれど。




 アルコールと葉巻の匂いが強く立ち込める狭い空間に、乾いた砂混じりの風邪が流れ込む。

 
 
 夢にまで見た身体――サンダウン・キッドの姿が、彫像のようにそこにあった。