雲のない夜の帳に、白い星々が細やかに輝くその下で、乾いた風が旋毛を巻いている。時折吹き
 込む冷ややかな風には、幾つもの砂が孕まれて、背丈の短い草が御座なりに生えた地面に薄い風紋
 を作っていた。
  ひっそりと刷き込まれた風紋は、俯瞰して見ればもしかしたら壮大な神の絵柄が浮かんだのかも
 しれないが、絵描きである風は今宵は強く刷毛を振るう気もないのか風紋は浅く、しかも夜という
 事もあって、仮に鳥のように飛べたとしてもその偉大な全容を見る事は叶わなかっただろう。
  気まぐれな絵描きは、刻々と風紋の形を変えるが、繊細なその動きも、また人の眼には知られぬ
 ものであった。
  優美なる絵がそこに描かれているとは知らぬのか、無粋で硬質な蹄の音が鳴り響く。
  虫や野生の獣の足跡ならば、それも一興なのだろうが、生憎とあからさまな俗物に近い位置にい
 る足音は、家畜とも言えるものだった。
  ただ、凄まじく乱暴で猛々しい響きは、一概に家畜と言い切ってしまうには、己の意志の色が強
 い。事実、大地に描かれた風紋が、黒い絵の具で押し潰されたように、それの通った部分だけが爆
 ぜ飛んでいる。かなり強く、蹄を押し当てたらしい。
  ともすれば背に乗っている物さえも降り落としてしまいそうなほど荒れた足音に、しかしその背
 に乗る者は顔色一つ変えず、むしろいっそ愉快そうに唇を曲げて、同じように風紋を自分の色で塗
 り潰していた。

  


 Moon Shadow





  マッドはご機嫌だった。
  ご機嫌、と言うよりも、愉快だったと言った方が正しいか。
  今は夜で、人々は夕飯を食べに家や酒場に向かう頃だというのに、マッド・ドッグは逆走するよ
 うに閉まりかけの町の門から抜け出し、愛馬に荒野を走らせている。
  空腹かと問われれば空腹に近い。眠くないのかと言われれば疲れがあるから眠れるような気もす
 る。だが、それらを吹き飛ばしそうなほど、愉快だ。食事も、寝る事も後回しにしたいほど、夜の
 下をひた走っていたい。
  何がそれほどに愉快なのか、と問われれば、それは返答に詰まる。
  マッド自身、どうしてこんなふうに夜空の下を駆けようと考えたのか、はっきりとは説明できな
 い。ただただ、今すぐに町に引き籠り、時間を潰してしまうのが嫌だったのだ。
  むろん、町に帰れば帰ったで、それなりにこの愉快な気分を昇華させる事は出来たかもしれない。
 美味い飯と酒に、柔らかい女の肌。それらに埋もれたなら、それはそれで気分が良い事だろう。
  だが、そんなふうに誰かと付き合って手に入る時間で、この気分を昇華させる気には、今宵ばか
 りはならなかった。
  ただただ一人で、いるのは物言わぬ黒く荒々しい愛馬だけで良い、それ以外は一人で、この高揚
 した気分を楽しみたかった。
  そう、とにかく気分が高揚しているのだ。
  昂ぶっているのではない。獲物を屠った後を引き摺って、血の匂いに巻かれて酔っているのでは
 ない。とにかく愉快で、高揚しているのだ。
  このまま歌でも歌って、笛でも吹いて、いっそ過去に置き去りにしてみせたヴァイオリンでもピ
 アノでも弾き立てて、天にでもそのまま舞い上がってしまいたいくらいだった。きっとそれが出来
 たなら、本当に月にまで飛び上がって、その裏側まで見る事が出来たかもしれない。
  かつて、本当に本当に昔々、マッドの指が鍵盤を叩くのを見て、蝶々が閃いているようだと言っ
 た者がいた。誰だったか忘れてしまったけれどもそう言った人間がいた。指の隙間から極彩色の蝶
 が幾重にも折り重なって舞い上がっていくようだと。今なら、それを現実に出来るかもしれない。
 種も仕掛けもないままに、気分の高揚だけで幾万の蝶を舞い上げる事が出来るかもしれない。
  或いは、これも大昔の話だが、マッドの指が鍵盤を叩くのを見て、花弁が指の隙間から吹き零れ
 るようだと言った者もいた。興味もなくどうでも良い話だったので忘れていたのだが、不意に思い
 出した。指が閃くたびに、薄紅色の花弁が舞い散るようだと言っていた。きっと今なら、それも可
 能だろう。薄紅色だけでなく、無数の彩色の花弁が風に舞って流れていく事だろう。
  黒い馬を走らせながら、マッドはからからと笑いだした。
  何が楽しいとも分からない。ただただ愉快で、気分よく高らかに声を上げたかった。
  人が見れば気がふれたと思うかもしれない。
  もしくは、まるで子供のようだと思うかもしれない。
  マッドとしてはどちらでも良かった。狂人であろうと子供であろうと、マッドは愉快で、ひたす
 らに機嫌が良い。
  聡い愛馬は、獣である故に語らず、そしてマッドの思うがままに夜の下を駆け巡る。何処に向か
 うとも分からぬ主の道程は今に始まった事ではない。そもそも、マッドの旅に目的などあるはずも
 ない。
  荒野を縦横無尽に駆け巡って、踏破して踏み躙った場所がなくなって、ようやく立ち止まるのか
 もしれないし、その後はまた何処かの土地を踏み躙りに行くのかもしれなかった。
  いずれにせよも、その時もマッドは笑っている事だろう。
  今ほど愉快ではないかもしれないが、きっとそれでも高揚した気分で、笑っている。
  そしてぼんやりと頭の端で思う。かつて、その昔も、自分はこんなふうに高揚していただろうか、
 と。そして、きっと高揚していた事だろうな、と思う。踏み躙る対象は違っても、新しい音符を踏
 破してみせた時、確かに高揚していたはずだ。
  なるほど、だから、今の時に昔の事を思い出したのか。
  あの時の高揚に、良く似ているから。
  弦ではなく手綱を操りながら、マッドは確かに似ているといえば似ているな、と納得した。この
 夜を馬で駆るのと、夜のホールの明かりの下で楽器を弾くのは、確かにしている事かもしれない。
 いや、馬と楽器を並列して語るのは、マッドくらいなものか。
  黒い馬が跳ねる。
  溝でもあったのか。
  深く暗い溝を思い、それを飛び越えた様を見ていないが想像し、心が更に上を向く。このまま上
 を向き続けて、月に吸い込まれたなら良いのに。もしくは自分と同じ目の色をした夜の淵に溶け込
 めたなら。
  だが、後者は無理だな、と思い直す。マッドが夜に溶け込んだところで、どうせくっきりとそこ
 だけ浮いて見えるか、逆により深く黒くなるかのどちらかだろう。同じ黒でも、マッドの黒のほう
 が濃い。マッドはそう自負している。空の黒よりもマッドのほうが黒いのは当然だ。そして、きっ
 と、それは己が跨る黒馬も同じ事。こうして黒い一人と一頭で、黒い夜を駆けていても、紛れ込ん
 でしまう事は絶対にない。
  そらみろ、相性が良い事だろう。
  この馬を手に入れた時、そう言った時の事を思い出し、マッドは更に笑みを深める。
  マッドが気紛れに夜通し駆けさせても、この馬は渋る事がない。従順なのではない。マッドの気
 分が高揚している時は、この馬も高揚している。聡い馬だ。主人の感情をはっきりと読み取り、し
 かも主人の気分に呼応する。
  荒々しく旋毛を引き起こし、風紋を切り裂く様は、マッドの好みだ。この馬のこうした粗暴なと
 ころがマッドは気に入っている。マッドが獲物を屠れば興奮するし、マッドが激しい怒りを覚えて
 いたなら足を激しく踏み鳴らす。
  この馬の中身には、未だに荒々しい魂が吹き荒んでいる。
  故に、激しい高揚の末のこの遠駆は、この馬もまた望んでいた事だろう。夜の闇を恐れるほど繊
 細でもない。闇の獣の牙など脚で蹴り砕くだろう。マッドと同じだ。全くの危機感もないままに、
 愉快に月の照らす中、長く伸びた自分の影だけを追いかける。
  ああ、愉快だ愉快だ。
  たった今、岩を大きく飛び越した時に、青い眼の獣が身を起こしたようだが気にする事もない。
  マッドは夜の下を走る事を楽しんで、自分の影を追いかける事だけを楽しんでいる。うっそりと
 身を起こした荒野の獣になど関わっている暇はない。
  背後で、深い息の根が聞こえた。
  青い眼が爛と煌めくのが背中で分かる。
  だが、マッドは知るものか。
  マッドは今、楽しんでいる。目を覚ました獣の為に足を止める必要が何処にあるだろうか。この
 まま月まで駆けていけそうなのに。
  例えばもし、マッドが巻き散らかす蝶のように、花のように、その後を勝手に追いかけてくると
 言うのなら話しはまた、別だが。