マッドにしては、それは珍しく静かな年の瀬だった。
  毎年毎年、最後の夜を迎える時は、女を抱いていたり賞金稼ぎ仲間に囲まれていたり、それなり
 に騒がしい。
  けれど今年最後の夜、マッドは愛馬のディオだけを侍らせて、北風が渦巻く荒野で一人毛布に包
 まっていた。
  マッドも自分でも珍しいなと思う。これまで――荒野に来る前も含め――最後の夜を独りで過ご
 す事はなかった。いつもこの日は誰かと過ごし、カウント・ダウンをしてその瞬間を待ち、馬鹿騒
 ぎをするのだが。
  ぼんやりと酒瓶を傾けながら、愛馬の温もりだけを感じつつ星空を仰ぎ見る。吸い込まれそうな
 くらい澄み渡った夜空は、ずっと見ているだけで浮遊感を伴う。その光景に重なるのは、自分と愛
 馬の鼓動だけだ。
  それを、悪くないと思いながら、マッドは毛布を更に肌へと引き寄せた。




  The Last Fine Day





  いつの間にか眠ってしまったのか、人のざわめきで眼を覚ましたマッドは屋敷の広間にいた。赤
 絨毯を敷き詰めた広間には幾つものテーブルが置かれ、そこにはこの世のありとあらゆる美味を集
 めた料理と、色とりどりのアルコール類が用意されている。
  その隙間隙間を埋めるのは大勢の、人、人、人。
  白い服を着た給仕達が身のこなしも鮮やかに通り抜け、華やかな衣装に身を包んだ女性陣があち
 こちで談笑している。その中に、落ち着いた色調のスーツを着た紳士達がこれまた和やかに話をし
 ていた。その足元を駆け回るのは、小さな子供達。

  彼らを見比べながら、マッドは首を傾げる。
  大人達の小言も意に介さず走り回る子供達と、その子供達を注意して回る大人達の中には、明ら
 かに同一人物だと思われる者が混ざっていたからだ。
  金髪の巻き毛の少女と赤いドレスに身を包んだ淑女は、どちらも確かにマッドと同年齢の従姉妹
 だったし、あちらで一心不乱にピアノを引いている少年と大げさな身振りで話をしている茶色のス
 ーツを着た紳士は、マッドも何度か話をした事がある良家の子息だった。
  昔、交流のあった彼らはマッドを見ると一様に笑いかけ、会釈をする。それは子供である彼らも
 同じで、マッドは果たして自分が大人の姿なのか子供の姿なのか、分からなくなった。
  目線は確かに大人の目線の高さだが、けれども妙に不安定な気分は子供のようでもある。なんと
 なく落ち着かないながらも、同時にこれで良いのだとも思い、断定をせずにマッドは人が溢れかえ
 るきらびやかな広間の中を、ぶらぶらと歩いていた。

  ふかふかとした赤絨毯は今では足を取られてしまいそうなくらい懐かしいもので、漆喰を固めた
 暖炉など西部に来てから見た事があるだろうか。まして、頭上高くで燦然と煌めくシャンデリア等、
 きっとこれからの人生では見る事は出来ないのではないだろうか。
  懐かしい品々と、懐かしい顔を、通り過ぎる景色の中で見ているうちに、マッドはようやく此処
 が何処なのか思いだしてきた。

  ああそうだ、此処は昔住んでいた家の広間だ。エントランスを開けて真っ直ぐ進んだ先にある、
 大きな扉の向こう側。大勢の客人が来た時にしか使われない、特別な場所。幼い自分は、誰もいな
 い時の広間と、皆がいる広間を見比べて、呆気に取られていた。

  一旦思い出せば、記憶は花開くように鮮やかに塗り替えられる。
  赤い絨毯とシャンデリアばかりが目立っていた広間は、その白い柱とクリーム色の壁に、瀟洒な
 細工を刻み込む。漆喰の美しい暖炉には炎が灯り、ぱちぱちと爆ぜる音とその匂いが届く。顔のな
 い給仕達は知った顔を描き、天井には大天使の絵が浮かび上がった。
  大きな扉が開くたびに、すっと切り込むような冷たさが首筋に入ってくる。

  今は、冬。
  それも年の瀬。

  今宵は親類や、父や母の友人達を招いたパーティを行う日だ。遠目に、紳士達に交じって穏やか
 に声を響かせている父親の茶色い髪が見えた。何処からともなく聞こえてくるピアノの音は、広間
 の片隅に設けられた舞台で、母親が鍵盤を滑らかに撫でているのだろう。
  年の最後の夜、こうして屋敷の広間に皆を集め、新しい年を待つ。これが自分達の最後の夜の過
 ごし方だった。幼いマッドは同じ年齢の子供達と一緒に、飾り立てられた広間の中を駆け巡ってい
 た。

  ふわりと、艶やかな笑みが投げかけられた。
  それは、一緒にピアノの練習をしていた少女だ。長じた彼女は、幼い頃から変わらない我がまま
 めいた愛らしさでマッドに視線を送る。見れば周囲のあちこちで、かつて一緒だった子供達は大人
 びた姿で意味深な合図を送りあっていた。
  マッドにも幾つもの合図が送り込まれる。
  媚びた目線、潤んだ視線、婀娜っぽい笑み、艶やかな指先。
  けれどもマッドはそれらに曖昧な表情を浮かべるだけだった。そういえば昔からモテたよなあ等
 と考えながらも、結局それらの何れかを選ぶ事なく離れ離れになってしまったわけだが。
  結局、彼らはどうなったのだろう。あの戦火を無事に潜り抜けたのだろうか。それとも。

  ぼんやりと考えているうちに、何かの足音が近づいてきた。なんの足音だろうと思っていると、
 集まった人々の中でもざわめきが生まれ始める。
  波のように広がりを見せるそれに、マッドは思い至った。
  そうか、もうすぐ新年か。
  ならばこの足音はそれが近づいてくる音か。
  薄らとした思考で納得しているうちに、徐々に照明が落とされていく。弾けるような白が黄色味
 を帯びて、落ち着いた橙へと変化して行きウイスキーのような琥珀色になり、更に深い茶色から遂
 には暗闇へ。

  カウントダウンの始まりだ。  

  近づく足音に合わせて、人々が数字を叫ぶ。

  10、9、8………。

  暗闇の中、彼らの吐息と熱がうねり始めた。割れるような合唱。にも拘わらず、足音はかき消さ
 れる事なく異様に響いている。

  7、6、5………。

  響く足音に、マッドは神経が昂ぶっている事に気づく。眠れない子供のような状態は、この雰囲
 気の所為ではない。足音が近づくたびに、背筋が総毛立つ。妙だ、おかしい。けれども何がおかし
 いのかが分からない。

  4、3、2………。

  炎が震えるようにざわめく神経を持て余したまま、カウント・ダウンは過ぎていく。気の所為だ
 ったのか。そう思った、直後。
  翻った気配と紫煙の匂い。気がついた時には手遅れだ。身を捩っても何にもならない。

  1!

  かさついた手が頬を包みこむ。
  同時に唇に、想像したよりもずっと柔らかいものが当たった。

  0!

  深くなるそれに、マッドは焦る。カウント・ダウンが終われば、後はいつ照明がついてもおかし
 くない。なのに、口付けは一向に終わりを見せる様子がない。指で強く抗議しても、ぴくりとも動
 じない男に、マッドは周囲のざわめきも相まって、本気で身を捩った。

  こんな状況を彼らに見られたら。

  でも、その前に、この場所にこの男がいるはずがないわけで。

  そもそもあの屋敷にまだ自分がいるはずもなく。

  そうだ此処は西部の荒野だと思いだした瞬間に、マッドは覚醒した。
  眼を開けばそこに広がるのは満天の星空で、顔に降りかかるのは冬の切れるような冷たい空気だ。
 手の中にある酒瓶が微かに揺れ、中にある酒も一緒になって揺れる振動が掌に伝わる。
  数回頭を振って、靄のかかった思考を晴らすと、口元に軽い自嘲が浮かんだ。未だに昔の事を夢
 に見るなど、馬鹿げている。まして、その夢の中にあの男が出てくるなんて。

  思って、マッドはぎくりとした。
  鼻孔に漂う、自分のものとは違う安っぽい紫煙の香り。何処にでもあるその匂いは、けれどもマ
 ッドを見て何もせずに立ち去る男など、一人しかない。

  いや、何もせずに、ではない。
  マッドは自分の唇に指で触れて、まさか、と思う。
  あの、生々しい感覚は。 

  思った瞬間に、そこだけが別の生き物になったかのように熱を帯びた。

  これが唇でなかったら、その赤ははっきりと分かってしまう事だろう。それを誤魔化すように、
 マッドは小さく舌打ちした。
  普段はこちらの事など見向きもしないで、通り過ぎて行くだけのくせに。こんな時に限って。

 「何考えてんだ、あのおっさん。」

  寝込みを襲うなんて最低だ、と呟いて、マッドは毛布に顔を埋めた。