埃を被った窓硝子から零れる夜の光を、マッドはぼんやりと全身で受け止めた。
  眠るには早い時間帯の宵闇には、まだまだ生活の光が満ちており、灯りを消した部屋の中にも侵
 入してくる。
  普段ならマッドも酒場を巡っているような時間なのだが、今日は荒野で欲望を育て切った男に掴
 まって、そのまま安宿に放り込まれてしまった。尤も、その欲望はマッドの中にも蟠っていたので
 一概に相手の所為だけには出来ないのだけれど、それにしたってせっかく町にまで来たのだから、
 それなら女を買えば良いじゃないか、とも思う。此処は、普段自分達が出会う、何もない荒野のど
 真ん中ではないのだ。

  欲望の捌け口がない荒野でならば、仕方ないとも思う。
  賞金首と賞金稼ぎである以上慣れ合うつもりは毛頭ないが、だが女の絶対的な人数が少ない西部
 で、しかも町ではなく荒れ果てた砂地を行くとなれば、賞金首だろうが賞金稼ぎだろうが保安官だ
 ろうが無法者だろうが、男であったなら欲望を持て余すのは必至だった。そして、男同士での性行
 為が行われる事も必然的に増えていく。
  とは言ってもマッドは、これまで男を抱いた事も、男に抱かれた事もない。自慢するわけではな
 いが、マッドは女に困った事がない。一夜限りの相手をしてくれる娼婦達は、マッドを見ればすぐ
 に腕を引き、交渉の必要もない。

  なのに。

  マッドは先程まで思う存分自分を堪能していた男を、僅かなりとも恨めしげに見やった。
  この男――賞金首サンダウン・キッドを追うようになってから、どうしても町に立ち寄る回数が
 減った。サンダウンは、まるで人目を避けるように――賞金稼ぎである以上それは当然の事なのだ
 が――必要最低限しか町に立ち寄らない上、町に立ち寄る以外はやたらと町から遠ざかった場所に
 いる所為だ。
  その所為で、否応なしにマッドも町に立ち寄る回数が減っていく。そうなると、必然的に女を抱
 く回数も極端に減っていく。だが、そろそろ枯れて行くだけであろうサンダウンはともかくとして、
 マッドはまだ若い。瑞々しく貪欲な若い身体は、眼の前に女の裸体があるわけでもないのに、勝手
 に欲を積もらせていく。それは、生物としてはごく自然な生理現象だったが、けれどもマッドにし
 てみれば堪ったものではない。
  確かに女のほうから寄ってくる身体をしてはいるが、マッドは別に性欲狂いなわけではない。だ
 から、数日間ならば女がいなくても全く困らないのだが、しかしマッドが好む好まざるに拘わらず
 に降り積もる欲は、自分の身体が自分の良いなりにならないようなもので、マッドは非常に苛立っ
 た。
  そして、苛立ち紛れに、もう数えるのも億劫な幾度目かの逢瀬の際、マッドはサンダウンに不平
 不満をぶちまけた。

  正直なところ、マッドは自分がその時に何を言ったのか、良く覚えていない。多分、責任を取れ
 とかなんとか、何の考えもなしに苛立つままに吐き捨てたのだろう。単に苛々して、それを発散さ
 せる為だけに怒鳴り散らしたのだから、吐き捨てた台詞にそれほどの意味など込めてもいなかった。
 それ故に、サンダウンから、まともな返事が返ってくる事など、これっぽっちも期待していなかっ
 たのだ。

  だが、サンダウンは逆上しているマッドに近付くと、わかった、と囁いた。そして、ぽかんとし
 ているマッドをそのまま組み敷いた。
  かさついた武骨な、西部の男を象徴する手がマッドのシャツのボタンを外し始めた時、マッドは
 ようやく我に返った。

  何すんだ馬鹿俺にそんな趣味はねぇ大体街に行きゃあ女が相手してくれんだ何でてめぇとなんか
 触んな止めろ馬鹿嫌だ。

  そんな事を一息に喚いたにも拘わらず、サンダウンの手は止まらなかった。マッドのベルトを引
 き千切る勢いで下半身を露わにし、そこに顔を埋められてしまえば、マッドにはもう声も紡ぐ事が
 出来ない。臀部を撫でられ、内腿をかさついた手で触れられるだけで、身体が戦慄いた。
  そもそも、身体には欲が積もっている。あっと言う間に追い上げられ、マッドは頭の中を埋め尽
 くす白い衝撃に甲高い悲鳴を上げた。

  それからの記憶は、どうにも曖昧模糊としている。
  泣き叫ぶ自分の声と、サンダウンが肌に口付ける度に当たる髪とか髭の感触だけは、生々しく肌
 が覚えている。後は、意外とサンダウンがしつこかった事とか。
  どうしようもなく身体ごと翻弄される思考回路の端で、なんだこいつも溜まってたのか、などと
 身も蓋もない事を思った。

  明け方になって、ようやく解放された頃には、マッドの身体は指一本も動かせないほど疲れ切っ
 ていた。溜まりに溜まっていた欲望は一滴も残らず搾り尽くされ、マッドが苛立ち紛れに喚いた言
 葉通り、サンダウンは責任を果たしたのだ。
  そしてその時には、サンダウンは味を占めており、マッドを性欲処理の相手と見なすようになっ
 ていた。定期的にやってくるマッドは、格好の獲物に見えたのだろう。
  度重なる決闘の末に圧し掛かる男を止める術を、マッドは持たない。どれだけ喚き立てたところ
 でマッドは敗者であり、勝者がサンダウンである事が覆った事はないのだ、今のところ。敗者が勝
 者に屈服するのは力が全てである荒野では自明の理であり、マッドはそれに逆らう事は出来ない。
  何よりも、若い身体は的確な愛撫に従順だった。マッドが思うよりも丁寧で巧みに解しにかかる
 サンダウンに、マッドはいつしか自ら脚を開き、のた打ち回った。

    そして、今宵も、まだ宵の入口だというのにマッドはサンダウンに押し倒され、安い宿の固いベ
 ッドの上で、上がる嬌声を噛み殺し、弛緩した身体をシーツに沈みこませた。
  情事の後は、いつも気だるくて、マッドは何もする気になれない。もともとそうするように作ら
 れた身体ではないのだから、女よりも疲労が濃いのは当然なのかもしれない。けれども、初めての
 時に比べれば、随分とましになったものだとは思う。だが、それでもやはり身体に掛かった負担を
 隠す事は出来ない。
  ぐったりとしていると、サンダウンの腕が労わるように身体を包み込んできた。サンダウンにも
 マッドの身体に負荷を掛けているという自覚はあるのだろう。情事の後、サンダウンは指一本動か
 せないマッドを放置する事はなく、刺激しないようにマッドの身体を清拭すると、まるでマッドを
 守るように包み込む。
  それは、荒野の固い砂の上でも、今のような安宿でも変化する事はない。
  恋人にでもするかのような優しい触れ方に、何を考えているのかと思う。マッドの機嫌を損ねる
 事で、都合のよい性欲処理の相手を失う事を恐れているのだろうか。
  サンダウンのそんな行為に訝しむと言うよりも、うろたえるように視線を動かせば、サンダウン
 の肩にくっきりと付いた歯型を見つけてしまい、マッドは慌てて顔を背けた。
  それは、つい今しがた他ならぬマッド本人が付けたものだ。
  安宿は壁も薄い。上がる嬌声が他の部屋にまで響き渡るのが嫌で、唇を噛み締めていたら、サン
 ダウンに止められてしまった。噛み締めていた下唇を啄ばまれ、止せ、と言われた。それに首を振
 って嫌だという意思表示をすれば、それならばと肩を差し出された。それに戸惑ったり考えている
 暇もなく突き上げられ、マッドは耐え切れず、差し出されたサンダウンの肩に噛みついて声を抑え
 たのだ。
  その、変色するほどにくっきりと痕になっているそれを見てしまい、マッドは居た堪れない。そ
 んなマッドの身体にも、サンダウンが付けた痕がいくつも散らばっているのだが。

  果たして、これは単なる性欲相手に――まして女ではなく男に――行う事なのだろうか。これま
 で男とそんな行為に及んだ事がないマッドには、分からない。いや、女にだって、相手が商売女で
 あるならば、きつく所有印を残す事は憚られる。それとも、それはマッドの意識だけの事であって、
 サンダウンの意識はまた別の考えを持っているのだろうか。

    自分がサンダウンに残してしまった噛み痕から眼を逸らし、マッドはちらりとサンダウンを見上
 げる。すると、常よりも幾分か穏やかな青に出会った。
  その青を見て、マッドは何だか腹立たしくなった。

  海の青であったなら、マッドは泳げぬわけではなかったから、なんとか対岸まで泳ぎ切る事が出
 来ただろう。或いは脚が攣った振りをして溺れてしまう事もできたわけだ。
  しかし、今眼の前に広がっているのは、空の青だった。西部の荒野特有の、濃く強い青だった。
 マッドは泳ぐ事はできるが、空を飛ぶ事は出来ない。それ故、その果ても分からなければ、深さも
 想像が付かなかった。ただ自分を見下ろす眼に、いかなる感情も読み取れず、しかし理解できない
 それが穏やかに自分を包み込んでいるという状況に、マッドは苛立った。

 「あんたの眼が、嫌いだ。」

  この関係が始まった時のように、マッドは腹立ち紛れに、思いついた言葉を意味もなく呟いた。
 その呟きに、サンダウンが瞠目する。見開かれた青は、やはり蒼穹のようで、マッドはまた腹を立
 てる。空を飛べないのに、見下ろす青が憎らしかった。
  青空から眼を逸らすと、サンダウンが困惑したように身を寄せてきた。どういう意味か、と。突
 然、眼が嫌いだと言われたサンダウンの困惑は尤もだった。しかし、マッドはそれに具体的に答え
 るつもりはなかった。
  よもや、お前の事が理解できないからだと言うわけにはいかなかったし、更に深く、ならば何故
 理解できない事が嫌なのかと問われれば、それ以上の事はマッドにも分からないからだ――いや、
 分かりたくもない。
  だから、マッドは謎かけのような言葉を吐き捨てるに留まる。
   
 「俺は泳げるけど、飛べねぇんだよ。」

  早口で告げて、マッドは口を噤んだ。これ以上は何も答えるつもりはなかった。いや、そもそも
 これ以上何かを告げたら、何かとんでもない事になりそうな気がしたのだ。この性欲処理という関
 係が、奇妙に歪んでしまう。それに類する事を、マッドは口走ってしまったのだ。
  けれどもそれが、サンダウンが気付かねば何事も起きない言葉だ。だから、マッドはこれ以上の
 言葉を口にしなかった。
  そしてサンダウンはマッドを見下ろして首を傾げている。そのまま、すぐに何かを口にする気配
 はないようだった。ただし、サンダウンから眼を逸らしていたマッドは気付かなかった。サンダウ
 ンの眼が、困惑以外の光を灯していた事に。
  顔を背けてしまった賞金稼ぎに、賞金首はつと顔を寄せる。その耳朶を甘噛みするように、囁い
 た。

 「………ならば、宇宙を一人で彷徨っている私は、どうなる。」

  言っている意味が分からなかった。なんだ、と視線を上げれば、空が降りかかってきた。頬をか
 さついた手で包み込まれ、唇に掠め去るような口付けが降りてくる。そして瞼に。
  思わず、眼を閉じた。
  瞼に口付けたまま、サンダウンは囁く。

 「あちこちに標のように光を浮かべて、けれども多すぎて、私は一体何処に行ったらいいのか、分
  からない。」

  ゆっくりと離れる。恐る恐る眼を開けば、空は、何かを堪えるような表情を浮かべていた。それ
 でも、と眦に口付けられる。

 「………私は、お前の眼が、好きだ。」

  宇宙のような全てを見通せるかのような澄んだ眼。

  呟かれて、マッドはぎくりとした。サンダウンには、しっかりと自分の口走った意味が通じてい
 たのだ。けれども、逃げ場はなく、サンダウンはマッドの耳元で囁き続けている。

 「空は、宙の一部なんだろう………?」

    今度は、サンダウンから謎かけのような言葉が吹き込まれた。けれども、発端であるマッドには
 碌に考える必要もなく、その意味が分かった。
  サンダウンの眼を空だと言ったマッドに対して、サンダウンはマッドの眼は宇宙だと返した。そ
 の宇宙の中で彷徨っているのは空のほうだ、と。そして空は宇宙の一部だと告げた。
  その、意味は。
  気付いたマッドは、低く唸って、サンダウンを睨みつけた。けれども、サンダウンはびくともし
 ない。

 「俺に、どうしろってんだ………。」

  サンダウンの言葉は、性欲処理の相手ではないと告げられたようなものだった。それでも、そう
 問うたのは、もしかしたらはっきりとその言葉を聞きたいという欲求が、マッドの中にあったから
 かもしれない。
  そんなマッドに、サンダウンは耳元に口付けを落としながら請う。

    「お前の中から、弾かないでくれ………。」

    宇宙にとって空はただの一部でしかないかもしれないが、空にとっては宇宙が全てだ。

     図らずとも甘く聞こえた声は、マッドの聞き間違いであるはずがなかった。遠回しに、ただしマ
 ッドの最初の意図を汲んだ言葉遊びのような台詞で、お前だけしかいない、と告げた男に、マッド
 は完全に逃げ場を奪われた。
  いや、端から逃げ場も何もなかった。
  サンダウンは自分はマッドのものだと言った。つまり、サンダウンはマッドの一部であり、もは
 や切り捨てる以外に方法はない。そしてサンダウンはそれをしないでくれと請うている。
  また、マッドにもサンダウンを自分から切り離す事は不可能だった。
  マッドなしでは生きられないと呟くサンダウンは、マッドから弾き出されないように深く根を張
 っていたし、それを切り離せばマッドもただでは済まないであろう事は明白だった。
  だから、マッドは見下ろす空が、そっと自分の中でその範囲を広げる事を止められない。

  マッドは空を飛ぶ事は出来ない。
  けれども、身体の中に根付いた空は、マッドを自分自身に引き寄せる為に、吸い込むように羽ば
 たかせた。
  代わりにマッドは、離れまいと根を伸ばす空を抱き締めた。