知っているか、と。
  水底に沈んだかのような暗がりで、サンダウンが泡のような声を出した。
  ごぼり、と浮かび上がったそれに、マッドは酒瓶を抱えたまま視線を動かして返事とする。身体
 に蟠るアルコールが、それ以上の動きは億劫だと告げていたのだ。だからマッドもそれに従った動
 きをする事にしたのだ。
  マッドの視線だけの答えに、砂のような男は気にするふうでもなく、また声をごぼりと浮かばせ
 る。

 「月、と言うのは。」

  そう、名前に太陽を冠する男は言う。
  己と真逆――いや、もしかしたら斜陽を意味する男の名は、もしかしたら燦々と降り注ぐ真昼の
 太陽よりも、夜に煌めく月のほうが付き合いやすいのかもしれない。黄昏時の男は、しかしきつい
 青空の眼を持っているのだが。
  マッドの思考など知らない男は、そのまま続ける。

 「鴉が奪ってきたものらしいな。」

  掠れた声は、乾いた大地の上を滑っていく風のようだ。
  砂色の髪と、荒野特有のきつい青空の眼。悉くがこの男は、アメリカ西部の荒野を体現している。
  その男が、夜の沈んだ時刻に、ひっそりと寝物語のように呟いた言葉は、確かに子供に語り聞か
 せるお伽噺の色をしていた。
  随分と可愛らしい事を、とマッドは思い、口元をにんまりとさせた。ただ、サンダウンの声は、
 子供に言って聞かせるような、柔らかい響きはない。とにかく、普段と同じ、かさついた風と同じ
 色合いの響きをしている。
  女なら、その声に色気を感じるかもな、と思考の隅で思ったマッドは、その考えにちょっとだけ
 可笑しくなった。こんな些細な事で笑えるなんて、もしかしたら酔っているのかもしれない。酔い
 を確証させるように、腕の中に抱き込んだ酒瓶からは、微かにアルコールの匂いがするだけで、水
 音は少しも聞こえてこなかった。 
  グリーン・ボトルの中身は、きつい蒸留酒だった。イギリスから取り寄せたこの一品は、正直な
 ところ貧乏酒ばかり口にして舌の感覚が麻痺しているサンダウンに飲ませるには勿体ない代物だっ
 た。なので、マッドも最初の一杯だけは手渡したが、それ以外のほとんどは一人で飲み干してしま
 った。
  サンダウンも、勝手に自分で別の酒を手酌で飲んでいたから、別に問題はないだろうと思うのだ
 が。
  うつらうつらと、睡魔の尻尾が視界の前を横切るのを眺めながら、それで、とマッドはサンダウ
 ンに話の先を促した。
  鴉――この場合の鴉はクロウではなくレイヴン――即ちワタリガラスだろう。翼を広げれば人の
 広げた両腕と同じくらいの大きさとなる鴉は、インディアンの神話の中でも時々現れる。
  気紛れで、自分の欲しい物を欲しがり、それが他の生き物の良きように動くというトリックスター。
  サンダウンは、月は鴉が奪ってきたものだと言ったが、きっとそれもそんな話だろう。
  気紛れで月を欲しがって、ところがそれが結果として夜空に張り付いて、夜を微かに照らすよう
 になった、そんな話。

    「鴉、は。」

  途切れてしまいそうなサンダウンの声は、しかしマッドにだけは静かに、確実に届けられる。
  黙りこくって表情を顔に出さない男だが、長年の付き合いからだろうか、マッドにはサンダウン
 の言いたいこと、サンダウンが言うべきことはしっかりと伝わるのだ。サンダウンが言うべき事に
 ついては、マッドは決して言及しないが。

 「月が欲しくて、人間の子供にまでなったそうだ。」

  トリックスターは、時として自分以外の何かに化ける事さえある。そうまでして手に入れたかっ
 た月。
  きらりきらりと光る月は、光物の好きな鴉には、確かに欲しい物ではあっただろう。その為にな
 ら、なんだってする。

 「だが、手に入れた月を、鴉は天に放り投げてしまった。」

  月を嘴に咥えて高く舞い上がった。だが、何故か手に入れた月を天に放り投げてしまった。持ち
 上げる事に疲れたのか、それともこんなものは別に欲しくなかったと思い直したのか。
  どんな理由があったにせよ、鴉は欲しくて堪らなかった月を、手に入れた途端に手放した。
  そうして天に投げられた月は、そのまま天に張り付いて、夜を照らす煌めきになったという。
  インディアンにとって月は人間達の守護であり、最上のものを意味する。

 「どうして、」

  サンダウンは、青い眼を何処か遠くに、視線の先には何もないのにそちらを遠く眺めながら言っ
 た。

 「欲しがったものを手放したのだろうな?」

  それは誰にも分からない。さっきも言ったように、想像していたものと違ったからか、それとも
 飽きたからか。
  サンダウンの問いは、独り言のようだったので、マッドも特に答えはなかった。それに答える術
 もなかった。答えは議論しつくされてしまっている。だからそこに、新たな解釈を加える必要性も
 感じられない。 
  答えのない問いかけに、するとサンダウンは問いそのものの方向性を変えた。

 「どうすれば、」 

  青い眼が、すらりと暗闇でマッドを見据えた。
  答えを求める眼差しで。

 「欲しい物を手放せるのだろうな?」

    かさついた声が、静かに闇を打った。
  それは、誰の事を言っているのか。
  執拗にサンダウンを追いかけて、一向に諦める事のないマッドに対する皮肉として言ったのだろ
 うか。
  だが、サンダウンの声には皮肉や嘲笑の響きはない。ただただ真摯な問いかけがあるのみだった。
  切実さの絡んだ響きに、マッドは一瞬、二の句を告げずにいたが、しかし気を取り直してマッド
 らしい回答を返す。

 「欲しいんなら手放す必要はねぇだろうよ。」

  強欲なマッドは、いつだってそうしてきた。
  しかし、次にマッドを迎えたのは、何処か暗いサンダウンの眼差しだった。

 「だが、お前は他人のものに手を出そうとは、しないだろう。」
 「なんだ、あんたまさか人妻に手を出そうって言うつもりか?」

  今度こそ本気で驚いたように訊けば、サンダウンは苦い声で、いっそそちらのほうが良かった、
 と呟いた。
  誰かのものだと確定しているのならともかく、誰のものでもあって誰のものでもないものを欲し
 がるほうが、気が狂いそうだ。それはまるで、月を欲しがる子供のよう。けれどもサンダウンには、
 月を手に入れるほどの、ワタリガラスのような知恵も何もないのだ。
  しかも、手に入れたなら、決して手放せないだろう。手放すぐらいなら、死んだ方が良い。
  魂ごと悪魔に売り渡しそうなサンダウンの声に、マッドは死ぬんなら俺の腕の中で死んでくれ、
 とだけ言った。
  マッドの腕の中に5000ドルの札束を落とせ、と。
  すると、沈んだ闇の中で、サンダウンがようやく微かに笑う気配がした。

   「お前、なら。」

  諦めないか。
  諦めないな。
  サンダウンの最後の問いかけに、マッドは断言する。
  どんな理由があっても、本気で欲しければ手放さないだろう。仮に手放したように見えても、き
 っと心を仕留めている。
  ワタリガラスも、案外、惚れていた月を惚れさせる事に成功したから、天で輝く事を許したのか
 もしれない。

    「……そう、だな。」

    吹き荒んでいたサンダウンの声が、少しばかり凪いだ。
  何かに納得したような、そんな声音だった。

 「……お前は、もう。」

  呟いたサンダウンの声は、最後のほうは闇の泡のようにぼやけて、マッドには聞き取れなかった。
  欠伸をしたマッドは、グリーンのボトルに抱き付くのを止め、それを脇に追いやると代わりに毛
 布を掻き込んで、もう一度欠伸をした。
  そろそろ睡魔の尻尾がぱたぱたと動くのを、捕まえるつもりだ。
  だから、それ以上サンダウンの声は聞こえなかった。




  ――お前は、もう、こちらを仕留めているからな。