マッドがその世界に迷い込んでしまった原因は、間違いなくサンダウン・キッドの所為だった。
  
  最近、何か酷く物憂げな表情をする事が多くなった西部一の賞金首は、マッドと出会うと物言い
 たげに、ともすればそのまま抱き寄せられるんじゃないかと思うくらい真剣な眼差しで、マッドを
 見つめてくる。
  以前なら銃を叩き落として終わりであった逢瀬は、いつの間にかサンダウンが蹲るマッドを見下
 ろし、その手を伸ばしてマッドの手を取るところまで続く。
  その、まるで恋人の手を恭しく取って導くかのような行動に、一瞬ぽかんとしたものの、すぐさ
 ま異常性に気付いたマッドは怒鳴り散らした。
  
  お前は一体何を考えているのか、と。
  
  サンダウンの中には、マッドには計り知れない奇妙な虚がある事を、マッドはうすうす気が付い
 ていた。その虚が、最近大きくなりつつある事にも気付いている。そしてそれは、マッドに見せつ
 けるように、サンダウンを覆い始めている。
  いつだったか、サンダウンが忽然としてその姿を消した時からだ。この、虚が特に大きくなり始
 めたのは。再び現れたサンダウンには、もはや誤魔化す事が出来ないほど、ぽっかりと大きな穴が
 口を開いていた。
  
  だが、それをマッドに見せつけられ、まして救いを求めるように手を伸ばされても、困る。今ま
 で散々、マッドを邪険に扱ってきた癖に、のっぴきならない状態まで虚が大きくなったと見るや、
 マッドに擦り寄る様は、マッドにしてみれば我慢のならないものであった。それが、孤高を保って
 いたサンダウンであるから、尚更マッドは腹立たしい。ずっと見せてきた孤高な態度は、ただ気取
 っているだけだったのか。
 
  興醒めしたような、或いは何か裏切られたような気分になって、マッドはサンダウンの手を振り
 払った。その瞬間、サンダウンが傷ついたような表情を浮かべたが、マッドはそれを改めて見やる
 気にはならない。
  踵を返し、サンダウンに背を向け、枯れ果てた大地を足早に立ち去る。サンダウンの声を聞く気
 にはならなかったし、顔も見たいと思わなかった。
 
 
  
 
 
  A Midsummer Night's Dream
 
 
 
 
 
 
  
  はっとした時には、周囲は緑の匂いで囲まれていた。
  荒野を歩いていたつもりが、サンダウンを頭の中から振り払おうとしているうちに、いつの間に
 か森の中にまで分け入ってしまっていたらしい。肌を掠め去る緑色の匂いのする風の質感は慣れぬ
 もので、マッドは慌てて踵を返して元の路へ戻ろうとする。
  が、振り返ってぎょっとした。
  たった今歩いていたはずの道は、すでに深い草の中に閉ざされており、そこをマッドが通ってき
 たという痕跡は跡形もなかった。
  しかし、途方に暮れるという行為を基本的にしないのがマッドである。軽く舌打ちをして、再び
 先程まで進んでいた方向に向き直り、その先を睨みつける。そこには、ご丁寧にも道が真直ぐと伸
 びていた。
  明らかに誘う様子のそれに、マッドは思考を巡らせる。どうやら自分は、何処を踏み間違えたの
 か知らないが、おかしな世界に放り込まれてしまったらしい。迷いの森なのかは知らないが、明ら
 かに簡単に出て行く事を許してくれる雰囲気ではない。さわさわと揺れる鬱蒼とした草葉の影から、
 自分以外の気配もしない事も、また不気味だった。

  かといって、このまま此処で立ち尽くしているわけにもいかなかった。
  どう考えても罠としか思えないが、真直ぐに伸びる道を歩くしかない。道を逸れて、草をかき分
 けて進んだとしても、生い茂る森の中では道に迷う事は必至だった。
  仕方ない、と軽く頭を振って、今にも草の中に埋もれてしまいそうな道を歩き始める。草いきれ
 がむわっと湧き起こり、その青臭い匂いと熱気を吸い込んで、マッドは胸が重たくなったような気
 がした。

  気が付けば、じっとりと蒸し熱い。見えないが、木々の更に上の方では太陽が照りつけているの
 かしれない。
  暑さで死ぬなんて事だけは勘弁だ、とうんざりしていると、背後で空気を裂く音がする。近付く
 気配に、咄嗟に身構えた。こんなところにいるのは、猛獣か、はたまた化け物に違いない。
  すると、現れたのは果たして緑色の獣だった。長く伸びた鬣が、一際濃い深緑をしている。欲望
 をはっきりとそのまま映し込んだ瞳は、けれどもその欲望が具体的に何なのか、マッドには判断で
 きなかった。
  情欲か、食欲か、破壊欲か。或いは、それら全てだったのかもしれない。いずれにせよ、マッド
 に対しては決して――例えそれが情欲であったとしても――好意的ではなかった。何故ならマッド
 には獣に犯されて喜ぶ趣味はないからだ。
  じりじりとにじり寄ってくる緑の獣を睨みつけていると、マッドの好戦的な気配が森中に知れ渡
 ったのだろうか。ずるり、と草の影からもう一頭、ガタイの良い獣が首を擡げて出てきた。こちら
 は、緑の獣よりもはっきりと破壊欲を示している。
 
  厄介な事になった、とマッドは腹の底で呟く。
  何せ、今のマッドは丸腰だった。一体いつの間に何処で落としてしまったのか知らないが、いつ
 も腰に帯びているはずのバントラインは、何処にも見当たらない。如何にマッドが並の賞金稼ぎよ
 りも強くとも、獣相手に素手で敵うはずがなかった。
  変に威圧するんじゃなかった、と後悔してももう遅い。マッドを挟む二頭の獣は、マッドを破壊
 する事に欲望を見出したようだった。

     ひゅん、と空を裂く音がして、獣達の爪が弧を描く。白い軌跡を見たマッドは飛び退ってそれを
 躱したが、服の裾が引き裂かれた。千切れ飛んだジャケットに付いたボタンが、ちかり、と光る。
  それが功を奏した。
  獣達は、そちらに一瞬気を取られたようだ。きらきらと光ったそれに、緑の獣ははっきりと飛び
 かかろうとしている。
  その様子を見抜いたマッドは、すぐさま身を翻し、獣達を置き去りにして背の高い草の中に逃げ
 込んだ。
  そして、そのまま駆け出す―――

 「ぅあっ……?!」

    瞬間、脚に這い上がった感触に、マッドは思わず声を上げた。慌てて脚を見れば、自分の影が異
 様なほど長く伸びて、その影から手のようなものが這いだしているのが分かった。少年のようなそ
 の手は、けれども少年とは思えない冷酷、且つ卑猥な動きでマッドの脚を這い上がっている。

  いつの間に。

     突然現れたその異形に、マッドは気配を感じる事が出来なかった。獣に襲われている最中だった
 とはいえ、そこまで意識が散漫になっていたとでも言うのか。
  痛みを伴いながら、脹脛を撫で、脛を突き刺し、太腿を撫で上げるその感触にマッドは身震いす
 る。それは、まるで毒のようだ。
  それを払いのけようと身を捩っているうちに、再び背後で別の気配が持ち上がる。先程の獣が、
 また追いかけてきたのかと思い、現在の影に絡みつかれて動けない状況も相まって、苛立った眼で
 顔を上げれば、そこにあった奇怪な物体にマッドは瞠目した。

  それは、あの獣達ではない。互いの頭と尾を噛み合いながら、一つの円環を作っている三匹の鬣
 を持った蛇だった。いや、蛇と言い切るには、それらには前脚がしっかりと付いている。しかし、
 蛇であろうとなかろうと、それらは長い身体をのたうくりながら、マッドの身体に絡みつこうとし
 ている。
  人の脚ほどの太さもある蛇達は、円環を崩さぬように不格好に這いながら、影に縫い止められて
 いるマッドを自分達で作り上げた輪の中に閉じ込め、締め上げようと動き始めた。

 「く………!」

  締め上げられる感触に苦鳴を零し、マッドは無茶苦茶に身を捩った。蛇に締め殺されるなんて、
 いくらマッドでもそんなサバイバルな人生はご免だ。蛇の中でも少し細めの一匹に狙いを定め、思
 い切り肘鉄を喰らわす。他の蛇に比べれば弾力もない一匹は、それだけで敢え無く円環から弾き飛
 ばされた。
  途端に、一気にばらける蛇達。それまで互いに噛み合って円環を作り上げていたのが嘘のように、
 全く別の行動を取り始める。一番太い蛇は逃げ始め、中くらいの大きさの蛇は首を擡げて威嚇をす
 る。
  威嚇をする蛇は、威嚇だけでは飽き足らなかったのか、マッドに飛びかかってきた。マッドの足
 元目掛けて飛びかかってきた蛇は、けれども幸いにして脚に絡みつく影に、ちょうど喰いついた。
  途端に、ぱっと離れる影。
  その隙に、マッドは影と蛇がのた打ち回る地面から飛び退る。びちびちと跳ねまわるそれらに一
 瞬死線を走らせ、けれども長居は無用と知っていたので、すぐに走り出す。
  もう、元の道が何処にあるのかは分からなかった。けれども、走るしかなかった。

  走って、どのくらい時間が経っただろうか。
  突然、辺りに声が響いた。

  ―――秩序の円環を、壊したな。

  それは確かにマッドを咎めるものだったが、けれども咎めるというには声があまりにも無機質す
 ぎて、マッドはうっかりと無視してしまいそうになった。それを辛うじて止めたのは、秩序の円環
 という聞き慣れぬ言葉の所為だ。

  ―――秩序の乱れを望むとは、何たることか。

  けれども、次に投げ出された言葉はマッドの疑問に答えるものではなかったから、マッドは自分
 で疑問に対する答えの見当を付けるしかなかった。

  円環、というのは、あの蛇の事か。

  それしか、思い浮かばなかった。あの蛇の、何が秩序なのか。そう思って、一匹が外れた瞬間に
 ばらばらに動き始めたのを思い出し、なるほど、そうかもしれないとも思う。
  けれども、その思考に長い間浸っている事は出来なかった。
  何か金属質な音がしたかと思った途端、マッドの頬を何かが掠めさったからだ。ひりつく痛みと、
 焦げ付いた匂いと共に。
  何かに狙撃されたのだ、と気付いたが、狙撃の音はしなかった。それはマッドにとっては不幸以
 外の何物でもない。それに、何故か、その狙撃は一体何処からマッドを狙っているのか、寸分と違
 わずにマッドに付き添ってくるのだ。
  まるで、マッドの心を読んでいるかのように。その事に苛立つマッドは、視界さえ歪んでいくよ
 うだ。その度に、頭の中を掻き混ぜられるように頭痛がする。

 「く、ぅ………!」

  一際頭の中を酷く掻き混ぜられ、マッドは呻いて膝を突いた。
  それを見ていたのか、さっきからちらちらと感じていた視線の主が、はっきりと哄笑を上げた。

  どうだい、この、嘆きの国は?

  嗤笑を帯びて聞こえてきた声は、誰かのものに似ていたけれど、マッドにはそれが誰のものなの
 か判然としなかった。

  此処には人間でいられなかった、或いは人間でいる事に耐えられなかった化け物達が集まるのさ。

  闇の中で瞬いた声は、血腥さを感じるほど、陰鬱だった。赤い夢に溺れているようなそれに、マ
 ッドは顔を顰めた。

 「で、どうやったら、此処から出られるんだ?」

  それでも物怖じする必要もない為、平然と問い掛けると、それは再び笑ったようだった。
  出られるわけがない、と。
  此処は化け物の国で、出口などありはしない、と。
  しかし、マッドはそれを聞き入れるには、やや強情な人間であり過ぎた

 「出られねぇわけがねぇだろう。入れた以上、出られるはずなんだ。」

  そんな自明の理を、化け物達は一蹴する。嘆きの国から逃げ出す事は出来ないのだ、と。現に逃
 げ出す事が出来た者は一人としていなかった。逃げ出せたとしても。

  同じく化け物になっていくだけだ。

  笑い含みの、けれども泣き出しそうなその声が、一体誰のものなのか、ようやくマッドは思い出
 した。そして、げっそりとした。しかし同時に、あの縋るような眼が何を意味していたのか、理解
 できた。

 「あの野郎………。」

  化け物に成り下がるのが怖いだなんて、そんな怯え方、子供だってしない。人間は人間でしかな
 いのだから、怯える必要もないのに。大体それなら、もっと早く言ったなら、一瞬で鼻先で笑い飛
 ばしてやったのに。
  沈黙は金というが、しかし善ではないのだ。無意味な言葉の惜しみは、単に己を擦り減らせるだ
 けだ。

  タネが分かってしまえば、この森は迷いの森でも嘆きの国でもなんでもない。或いは、嘆きの砦
 であるマッドに嘆きを止めさせようとして、呼び寄せたのか。ならば、もうその役目は果たしてい
 る。

 「キッド。」

  その名を口にすると、茂みの奥が大きく動いた。

 「出て来いよ。」

  こんな回りくどいやり方をするなら、もっと他に方法があっただろうに。具体的に言うなら、言
 葉にするとか。無言で見つめられても、マッドも困る。
  そう思って、蠢く茂みを睨みつけていると、のそりと一頭の馬が出てきた。しかも何故か背中に
 羽根が生えている

  瞬間、マッドは眼を大きく見開いた。

  まさか、これがサンダウン・キッドだとでも言うのか。化け物に成り下がったとか言っていたが、
 まさかこれがその姿だとでも。

  真っ青な眼を持つ馬を見て、マッドは一瞬気が遠くなる。同時に湧き起こるのは後悔の念だ。先
 程までの色々な合点――嘆きの砦やらそのあたりの事云々――を打ち消したくなった。
  そんなマッドを見て、砂色の天馬は鼻息を荒くして、マッドに飛びかかってきた。あまりにも突
 然の事で――というか先程までの深刻な雰囲気との差があまりにも大きすぎて――マッドは咄嗟に
サンダウンを殴り飛ばしてしまった。

  砂色の腹を見せてすっ飛んで行くサンダウン。

  ぼす、と音を立てて茂みの中に落ちて行く姿を見て、マッドは我に返った。馬なのに殴っただけ
 であんまりにも綺麗にすっ飛んで行ってしまったものだから、驚いてしまった。
  サンダウンが落下した衝撃で、むわっと草いきれがいっそう濃密になる。まるで緑の色でも付い
 ていそうなそれが顔面に押し寄せてきて、マッドは思わず眼を閉じる。
  眼を閉じて緑の風圧が治まるのを待っていたら、不意に手首を掴まれて、ぎくりとした。

 「マッド。」

  低い声がして、馬ではないサンダウンがマッドの手首を掴んでいた。そして一言、呪いが解けた
 とだけ言って、それ以上の説明はせずにマッドを抱き締める。
  どうやら嘆きの砦であるマッドは、確かに嘆きの国の嘆きを止める事が出来たようだ。それによ
 って、化け物だったサンダウンは元に戻ったと、そういう事らしい。
  けれどもマッドには、そんな尤もらしい理由を納得する暇もない。何をするんだ、と言う暇も与
 えられず、サンダウンが口付けてきて、そのまま押し倒される。
  嫌だ、とか、止めろ、とか言ってみても、びくともしない。サンダウンは硬い地面にマッドを押
 しつけて、マッドを剥いていく。

  マッド、マッド……。

  それしか言葉を知らないようにサンダウンが囁いて、マッドに顔を埋める。その行為に、マッド
 は身悶えし、鳴き声にも似た喘ぎを上げる。
  もう、息をする事も出来ない。キッド、キッド、とサンダウンと同じようにその言葉しか喉から
 出せない。
  そんな相手と自分の状態に、何か酷く既視感を覚えたけれど、それを形にする前に、マッドの身
 体は熱に呑み込まれた。





  眼を開くと、砂色の髭が視界に入ってきた。見下ろせば、自分のものではない腕がしっかりと身
 体を抱き締めている。身体の下は固いが、けれども一応古びたポンチョが敷いてある。
  それらを見て、たった今の夢の最後の既視感が何だったのかをはっきりと思いだした。

  夢を見る直前まで、犯されていたのだ。
  賞金首サンダウン・キッドに。
  しかも無理やり。

  無言で物言いたげにこちらを見つめ、挙句の果てには手を取ろうとする賞金首に、些か嫌気がさ
 して背を向けた。途端、かさついた腕に身体を絡め取られ、そのまま押し倒された。切羽詰まった
 ような表情をしたサンダウンは、マッドが何を言っても――おそらく、マッドは自分の知る限りの
 罵詈雑言を使い果たした――その手を止める事はなく、マッドを裸に剥くと圧し掛かってきたのだ。
  幸いにして――これを幸いと言うべきかは判断しかねるが――無理やりではあったがサンダウン
 はマッドを傷つけるような事はしなかった。おかげで、マッドの身体は大惨事になる事は避けられ
 たのだが。
  が、痛いものは痛い。
  ついでに、乱されたという自覚もあるので、それはそれで腹立たしい。
  それと、こうやって未だに抱き締められている事にも。

  むかっ腹が立ってきて、マッドはサンダウンの身体から離れようとする。しかし、それが出来な
 いほどに、サンダウンはマッドに密着していた。色々やった後、なんの後始末もないまま抱きつか
 れている所為で、非常に暑苦しいし、汗臭い。それらはマッドにしてみれば不本意な事この上ない。
  じっとりと蒸し暑い天候も相まって、マッドの機嫌は下降の一途を辿っている。
  少しだけ頭の片隅に残っている奇妙な夢の残滓を思えば、そもそもあんな変な夢を見たのはこの
 男の所為だという気がしてきた。
  思いついてしまえば、一切の根拠はないが、間違いなくこの男の所為だと断言できた。全ての責
 任はサンダウンにあると断定したマッドは、意地になってサンダウンの腕の中から逃れようと身を
 捩る。
  が、マッドよりも圧倒的に重たくて暑苦しい男は離れる気配を見せない。それどころか、一連の
 マッドの動きで眼を覚ましたのか――いや最初から眠ってなどいなかった可能性もある――更にし
 つこくマッドに抱きついてきた。もがくマッドのそれは、悉くが逆効果であったらしい。

 「マッド……。」

  低い声が震えを湛えて響いた。
  それが、掻き消えそうな夢の残滓の中で聞いた、数々の嘆きを内包していて、マッドはぴくりと
 動きを止める。
  マッドの様子に安堵したのか、サンダウンはそれでも震える声音で囁く。

 「いかないでくれ。」

  行かないでくれ。
  逝かないでくれ。

  幾つかの意味を孕んだ言葉に、マッドは圧し掛かったサンダウンが鬱積した思いを遂げるかのよ
 うにマッドの足の指の隙間まで奪い尽くした事を思い出した。
  この男は、こうする事でしか、誰かを引き止める方法を知らないのだ。一人であり過ぎた魂は、
 恐ろしいほどに臆病だった。言葉一つを口にする事を恐れるほどに。離れてしまうならば、粉々に
 壊してしまう事を選ぶほどに。
  それに気付き、マッドは酷く呆れた。
  それで、マッドが本当に壊れてしまったらどうするつもりだったのか。マッドが人一倍頑強でな
 かったら、男に抱かれてそれでも発狂せずにいられなかったら。
  しかしマッドはその問答をあっさりと投げ出した。結局のところ、マッドはショックは受けたも
 のの、それは精神的ダメージと言うほどのものではなく、生憎とぴんぴんしている。それがサンダ
 ウンだったからなのかとうかは分からないが、それについては深く考えないようにする。
  代わりに、ぎゅうと抱きつく臆病な男に、苦々しげに呟いた。

 「だったら、襲うにしても、もっとちゃんと分かりやすくしろよ。」

  言って、口の端に口付けた。