人間に絶望を感じ、憎み、そうして人間である事に耐え切れなかった魔王が、哄笑しながら、世
 界を塵に還す夢を、何度も何度も見た。
  一瞬で全てが蒸発する中で、何者たりともそこから逃れる事は出来ず、蒼穹でさえ陽炎のように
 たち消える。
  善なる者悪しき者醜き者気高き者。
  一切の分け隔てなく、塵は塵に、土は土に還る中、せめて彼だけはと思った矢先に、眼の前でそ
 の姿が砂よりも細かく消え去った。





 メギドの丘







  眼が覚めるとそこは暗闇だった。けれども微かに輪郭の見える闇に、サンダウンは安堵の息を零
 す。寝覚めの悪い夢の続きが繰り広げられているわけではないと知るのには、朽ちかけた机や古い
 椅子の輪郭が闇に浮かぶだけでも十分だった。
  全てが消えた世界ではないと、ただの穏やかな夜の闇に包まれていると理解するには、真昼の日
 差しを浴びた一粒の砂で良い。憐れな魔王が破壊する世界には、おそらく荒野の熱を持った砂でさ
 え呪われ、残らないだろうから。
  炎でさえ灰になるほど、あの魔王の絶望は深い。止めを刺して息の根を止めたとして、もしかし
 たらまだその辺りに、魂が散らばっているのではないかと思うほどに。

  憐れみを通り越して、人間の業の深さにおぞましささえ感じる。
  そしてその魔王は、確かにサンダウンを含むあらゆる人間の中に蟠り、いつの日か内側から食い
 荒らして芽吹こうと爪を研いでいるのだ。
  あの薄暗い世界に放り込まれる前から感じており、ルクレチアという絶望の都に放り込まれてか
 らははっきりと自覚した。それは自分と同じくあの世界に放り込まれた連中が、やはり魔王の欠片
 を内在させていたからかもしれない。自分と同じように、何処か他人に対して失望を持った彼らを
 見て、自分の姿を思い描いたせいかもしれない。

  いつか、自分が夢の中の魔王のように、世界を塵にする。

  そう思った瞬間、サンダウンは背中が粟立った。まさか自分はそんな事はしない、と思ってみて
 も、それはきっとあの青年も同じだったのだろう。
  一人の子供の亡者が、あの青年が魔王である事を否定しようとしていた事からもそれが分かる。
 あの青年は、魔王から一番遠いはずの存在だったのだ。
  それは、サンダウンも同じ事。
  サンダウンとて、よもや自分が、街を護る存在であるはずの自分が、逆に血を呼び込む悪魔にな
 るなど思ってもみなかった。けれど現実はサンダウンの平坦な考えなど一蹴して、サンダウンに血
 を引き起こさせた。それによってサンダウンが失ったものは、途方もなく大きい。それまでサンダ
 ウンを褒め称えていた人々は掌を返したようにサンダウンを罵り失望し、そんな人々を見てサンダ
 ウンも人間に失望した。
  ただ、サンダウンがあの青年と違ったのは、サンダウンは最後まで『護る』という己の本分を忘
 れず、その為に自らを落した事だ。むろん、青年の立場とサンダウンの立場は違う。青年はそれさ
 え許されぬ状況下にあったのかもしれない。だから、サンダウンに彼を責める事など出来るはずも
 なかった。
  サンダウンが、あの青年を見て思うのは、いつか自分もこんなふうに、大切なものを塵にするか
 もしれない、それだけだった。

  自分ごと、大切なものを破壊する。
  それは、一体どういう気分なのだろうか。

     サンダウンは、ちらりと隣で寝そべっている男に視線を向ける。月の光を浴びた身体の線は、そ
 の縁を白く染めて、けれども筋肉の凹凸のある部分は深い黒に染め抜かれている。黒い髪は先端に
 光を灯し、月白と言うよりも銀に近い色をしている。まるで宝冠を被ったような寝姿に、思わず身
 を寄せたくなる。
  そのしなやかな背中が呼吸の為に動くたび、空気が吹き込まれるように生命の気配が濃くなって
 いく。凶暴で峻烈な気配は、夜の闇の中で幾分か落ち着いているが、それでも隠しきれないのだろ
 う、気配は否応なしにあちこちに飛び火している。
  きっと、ルクレチアにいても、この男はあの死の匂いに飲まれる事無く、苛烈なままだろう。
  だが、それでも、魔王が世界を滅ぼしたなら、この男でさえも塵に還る。先程見た夢を思い出し、
 サンダウンはその魔王は、もしかしたら自分であったのかもしれないとも思った。そうであるのな
 らば、世界と一緒に彼を滅ぼしたのではなく、彼を滅ぼす事で世界を滅ぼしたのだろう。彼だけを
 破壊した後の、彼のいない世界など、きっと耐えられない。

  光を縁取った背中に手を伸ばす。
  すると、いつから眼を覚ましていたのか、ひくりと身体が震えた。

 「……なんだよ。」

  少し眠そうな、声。
  低いが、すっと闇を切り込むような声は、正しく曲がる事を知らない光のようだ。けれども開い
 てサンダウンを見上げた瞳は、夜と同じ色をしている。

 「キッド?」

  寡黙なサンダウンに変わって良く喋る彼は、同時に喋らないサンダウンの気持ちを読む事にも長
 けている。闇のように佇んでいるサンダウンに、何をかを感じ取ったのだろう。訛りの少し残る、
 けれども端正な甘い声で問い掛ける。
  その声に誘われるように身を屈め、横たわっていた身体に顔を近付けた。白く滑らかな肌を唇で
 なぞった後、啄ばむように形の良い下唇を食んだ。
  そして、唇を重ねたまま囁く。

 「世界の終わりを、夢に見た………。」

  全てが塵に還る夢だった。
  空も、砂も、そしてお前も。

  そう囁くと、眼の前の男の眉根が寄せられた。何を言っているんだ、と言わんばかりの表情だ。
 もしかしたら、世界の終わりなど考えた事もないのかもしれない。或いは、今この瞬間に世界が終
 わったとしても悔いのない生き方をしているか。
  そう思って、その黒い眼を見つめていると小さく吐き捨てられた。

 「最期の瞬間に見るもんが、てめぇの顔なんて俺はごめんだな。」

  らしい言い分だった。
  ただ、それを聞いて微笑むには、少しばかりサンダウンに余裕がなかった。腹の底に魔王が蟠っ
 ている、今夜がそれを自覚する夜である以上、仕方のない事だった。だから、自分でも分かるほど
 頑是なく、呟いた。

 「……それなら、誰が良いんだ?」

  顔を顰めるか、呆れるか。
  けれども、サンダウンの予想と、実際の彼の反応は違っていた。
  形の良いなだらかな肩が大きく息を吐くと、唇が静かに震え、それと一緒に掻き消えそうな言葉
 が零れた。

 「一人が、良い………。」

  思いもよらぬ言葉に、サンダウンは眼を瞠った。てっきり、女の膝の上だとか言うかと思ったの
 だが。

 「誰もいねぇ荒野に寝そべって、一人で空を見て。それが、良い。」

  心臓から、血を流して。

  あえかな声で続けられた声に、サンダウンは今度こそ大きく眼を見開いた。それに対して、男の
 黒い眼はぱたりと閉ざされる。

 「天使なんぞ糞喰らえ。白い馬もどうでも良い。ただ、それが俺の仕事だって言うんなら、俺はそ
  うする。」
 「マッド?」
 「俺は、天国に行きたいが為に神の前にひれ伏すなんざ、ごめんだな。そんな事よりも、多分俺は、
  『嘆きの砦』としてそいつらに喧嘩を吹っ掛ける。」

  眠たそうな声で呟かれたそれは、けれども彼の賞金稼ぎとしての心底の矜持だったのだろう。彼
 は世界の終わりを、所謂黙示の日と受け止めたようだが、けれども世界を滅ぼすものが神であれ魔
 王であれ、彼の中での立場は変わらないのだ。
  きっとその時、彼は人々が畏れ右往左往する中、一人で嘆きを受け止めて、その丘に登るだろう。
 それが不毛の荒れた丘で、その時が晴天であれば良いと言っているのだ。
  そして、胸を炎の槍で刺し貫かれて。

 「マッド。」

  再びうつらうつらし始めたマッドに、サンダウンは耐え切れなくなって囁く。

 「マッド、お前は、私以外の誰かに殺されても良いのか?」
 「……世界の終わりだったら、どうせあんたも死ぬんだろ?」

  眠たそうではあったけれど、マッドの回答は明瞭だった。だが、それはサンダウンを満足させる
 ものではなかった。

 「ならば、お前は自分以外の誰かに私を殺されても良いのか?」

  もはやどうしようもない台詞だった。欠伸をしたマッドも、面倒臭そうに呟く。

 「どっちにしろ、それを食い止めるにはそいつらを殺さなきゃなんねぇんだろ………?」

  マッドの語尾は、むにゃむにゃと曖昧模糊になりつつあった。おそらくこれ以上の受け答えは難
 しいだろう。それはサンダウンにも分かっていたが、けれども続けて口にせずにはいられなかった。

 「それならば、一人ではなく、私も連れていけ。」

  自分が魔王になって世界を破壊する事など、頭の中からすっ飛んでいた。それよりも、何かそれ
 ほどに巨大な嘆きが、いつの日か現れた時に、それに向かって最期の砦として顔を上げる彼の姿が
 堪らなかった。それに、何よりも自分が魔王であった場合も、それを止めに来るのが彼であるとい
 う事が。

 「いいな……一人で行こうとするな。世界の終わりでなくとも、どうしようもなくなったら、私を
  呼ぶんだ。」
 「なんで俺が……あんたなんかを……。」

  ふわ、ともう一度欠伸をするマッドを、サンダウンはがくがくと揺さぶってやりたい衝動に駆ら
 れる。何かが起きた時、真っ先にマッドが自分を頼るのだと、少なくとも一人で斃れる事はないの
 だと、その確証が欲しかった。他でもないマッドの口から。

 「他の誰の手も煩わせたくないんだろう?ならば、私を連れていけ。私ならば、何も考える事なく
  連れていけるだろう?」

  家族がいるとか、そういった事は考える必要はない。
  そう囁けば、マッドはむにゃむにゃとするその間に、微かに呟いた。

 「分かったよ……分かったから。」

  それは眠気に負けて面倒臭くなって適当に返答しただけのようにも見えた。だが、サンダウンに
 とってはそれでも十分だった。ひとまずマッドから言質を取ったのだから、それを口にさえすれば
 この先マッドが一人で途方もない場所に行く事はないだろう。
  眠りに落ちようとするマッドをこれ以上引き止めず、そっと掠め去るような口付けをして引き離
 す。その瞬間、マッドが何事か寝ぼけた口調で呟いた。

 「……あんたが来るなら……まあ、別に晴れの日の荒野じゃなくても……何処でも良いか。」

  蒼穹色の眼と、砂色の髪がそこにあるのなら。