もともと、表情豊かな男ではない。いつも無表情で、何を考えているのか分からないところが
  あった。けれども纏う空気が和らいだり、鬱陶しいくらいにへばりついてくる事から、サンダウ
  ンが決して無感情な人間ではない事が分かる。
   けれども振り返って見たその顔は、無表情だどうだと言うそれ以前の問題だ。作り物めいた人
  形のような表情は、生者のそれではなかった。
   生気一つ見当たらないその顔に、マッドは一瞬それが誰なのか分からなかった。
   サンダウンであるならば、どんな姿であろうと分かるはずなのに。

  「マッド。」

   知らない顔が吐いた名前は、やはり知らない声音だった。夜の闇さえも飲みこむような影を長
  く伸ばした『それ』は、暗い色をした眼でマッドを見つめる。荒野の空色が濁っている事に、マ
  ッドは、なんで、と思う。
   マッド一人がいなくなったくらいの事で、何故今にも吹き消されてしまいそうな蝋燭の炎のよ
  うな姿になるのか。マッドがいなくても、その身体を抱き留めてくれる柔らかい白い腕があるだ
  ろうに。
   それとも、マッドにないがしろにされる事が、死を選ぶほどに屈辱だと言うのか。

  「てめぇいい加減にしろよ。今まで俺から逃げてたくせに、俺がそっぽ向いたら『殺せ』だ?何
   か?5000ドルの賞金首様は、自分が注目されてねぇと気がすまねぇってか?いつもは俺を無視
   してやがるくせに、俺が無視したら、ないがしろにしたってか?俺如きにシカトされるのは、
   不愉快だってか?」
  「ああ…………。」

   頷くサンダウンに、マッドは今度こそ心臓を抉り取られた。結局、自分は、この男の中でその
  程度の扱いでしかなかったのだ。サンダウンがこれほどまでに薄暗い眼をしているのは、家畜で
  あるマッドに逃げ出された事に対する屈辱の所為か。
   何処までもマッドを惨めにしようとする男と、これ以上は一緒にいたくなかった。誰にも渡し
  たくないと思っていたし、何処までも追いかけたかったが、それはもう、叶わない。どれだけ何
  をしても、その程度にしか想われない事を良と出来るほど、マッドは一途ではない。
   身を翻して、今度こそ扉を開こうとする。
   その背に、すっと切り込むようにサンダウンが言葉を吐いた。

  「………お前だけ、だ。」

   その眼がこちらを向いていないと気が済まないのも、無視される事が不愉快に感じるのも。

  「お前しか、いない…………。」

   今にも瓦解しそうな、泣いているのかを勘違いしそうな震える声で呟かれ、マッドの背中が跳
  ねた。

   お前だけだ。
   お前しかいない。
   それは、閨で睦言の代わりに落とされる言葉だ。
   それを、今、言うのか。
   しかも、そんな、魂が潰えそうな声で。

   がくがくと膝が震えそうになったところで、サンダウンがもう一度、希うように問うた。

  「マッド、どうすれば良い?どうすれば、お前は、私を信じる………?」

   ゆっくりと伸ばされる腕。
   けれどもそれはマッドに触れる前に、何かに阻まれたかのように宙で止まる。二度と声も聞け
  ないのか、と怯える男は、マッドに触れる事一つにこれほどまでに戸惑っている。いつもサンダ
  ウンが作り上げている強靭な夜の檻からは考えられようもないほど、弱々しく張り巡らされた糸。
   それは、マッドが扉を開けばそのまま溶けてなくなってしまうだろう。
   そのためにもマッドは、流されそうだった形勢を立て直す為に吐き捨てる。

  「俺に信じて貰う必要なんかねぇだろうが。大体、俺なんかよりももっと信じて欲しい相手がい
   るんじゃねぇのか。」

   たかが布切れ一枚で、柄にもなく怒り狂う事が出来るほど、心に残った相手がいるのなら、そ
  ちらに向かえば良い。マッドを代替品にする必要は何処にもないだろう。

  「さっさと行けよ、そっちに。俺は布切れ一枚で怒りをぶつけられて許してやれるほど、心は広
   かねぇぞ。」
  「マッド…………。」

   切り捨てるマッドの言葉に、流石にサンダウンの声にも再び苛立ちが滲み始める。それとも、
  やはりまだハンカチを捨てたマッドを許していないのか。
   だが、次のサンダウンの言葉はマッドの想定の範囲を越えた言葉だった。

  「お前は、やはり、私が何に怒っているのか分かっていないんだな………。」
  「あ?」

   怪訝に思い顔を顰めるよりも先に、サンダウンの両腕が、サンダウンに背を向けていたマッド
  の背後から伸びて、マッドの顔を両側から挟みこむようにその大きなかさついた手が扉に突き立
  てられる。扉とサンダウンの腕と身体に囲まれて、マッドはぎょっとした。
   が、サンダウンの声はいよいよ険呑なものに変わる。

  「私がお前をないがしろにした?ふざけるな………お前こそ、私をないがしろにしているくせに。」
  「は………?俺がいつ、あんたをないがしろにしたよ?!」

   強請るサンダウンにいつも料理を作って、汚れた服を洗ってちゃんとアイロンも掛けた。それ
  の、どこがないがしろにしていると言うのか。
   しかしサンダウンの表情は険しい。

  「見ろ………お前は何も、覚えていない………。覚えているのは私ばかりだ。」
  「な………、俺が何を忘れてるってんだよ!」
  「あれは、お前が私に寄こした物だろう。」

   怒り混じりの声で、素早く耳に吹き込まれた言葉に、マッドは怒鳴り返した時の開いた口のま
  まで動きを止める。サンダウンが、何を言っているのか分からなかったからだ。
   ぽかんとするマッドの耳に、歯噛みする音が聞こえてくるような苦り切った声で、サンダウン
  は続ける。

  「お前が、私に寄こした………最初で最後の、『物』だ。」

   何度目かの逢瀬の時に、何処でか知らないが手の甲に切り傷を作っていたサンダウンに、マッ
  ドが投げて寄こしたのが、青い縁のある白い清潔そうな布だった。サンダウンの傷を柔らかく包
  み込んだその時の事は、言われれば何となく覚えているような気もする。

  「私は、お前との事は全て覚えているのに、お前はすぐにそうやって忘れる………。」

   マッドの顔のすぐ横で突き立てられた手は、サンダウンの激情がそれほど深いのか、木の扉に
  爪を立てて、表面を荒野の枯れ野のように毛羽立たせている。
   だが、そんな事を言われても、困る。マッドに起こる日常は多彩で、心に止め置く事はたくさ
  んありすぎる。サンダウンとの事を全て第一として覚えておく事など不可能だ。

  「うるせえな。いちいちあんたとの事なんか覚えていられねぇよ。俺はあんたと違って、人づき
   あいってもんがあるんだよ。」
  「知っている………だから、」

   だから、あの布切れ一枚が、どれほど大切だったか。

  「表立って逢いに行く事も出来ない、約束を交わす事も出来ない。お前は放っておけば、何処か
   に行ってしまう。あの布切れ一枚しか、お前が形として残していった物はない。」
  「だから、あんなもんを、後生大事に持ってたってのかよ。恥ずかしいと思わねぇのかよ。」
  「…………私には、もう、お前しか残っていない。それを大切に思って、何が悪い。」

   理解すれば、サンダウンの行為は居た堪れなさを感じるほどに恥ずかしい。何を思ってサンダ
  ウンが、マッドが気紛れのように渡したハンカチを大切に持っていたのか、など、聞いているだ
  けでも憤死しそうだ。
   が、サンダウンは此処まで来て引き下がる気にもなれないのか、いつもの無口さは何処へやら、
  無駄に饒舌に続けていく。

  「だが、お前は、それをあっさりと捨ててしまう。しかも、事もあろう事か、女から貰ったもの
   かとまで言う。私はお前の事しかないのに、お前が忘れているだけなのに。………腹が立つ。」
  「あ…………。」

   今までずっと怯えてマッドに触れる事がなかった手が、ゆるりと動いてマッドの胸と腰を拘束
  した。項に、男の息が、獰猛な色を浮かべて吐きかけられる。

  「挙句、こんな場所に私を置いていくつもりか………?こんな、お前の気配のない、廃屋に。」

   マッドの気配を擦り込もうとするかのように、サンダウンは身体を合わせてくる。
   ぴったりと身体を寄せ合って、マッドを包み込もうかとするかのように、絡め取ろうとするか
  のように、その両腕は鋼鉄のようにマッドを引き寄せる。

  「マッド…………。」

   掠れた、砂塵混じりの声は、いつになく焦がれていて。

  「お前しか、いない………。」

   逃れる術が、残っていない。
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