喧嘩別れした時とは比べ物にならない――表情こそないものの、逆にそれが怒りの激しさを表
  わしている――憤怒に、マッドは思わず身を竦ませた。だが、すぐに怯えていては付け込まれる
  だけだと、再び瞳に力を込める。

  「ああ?!俺は普通に仲間達と酒を飲んでただけだろうが!そこに割り込んできたてめぇこそ、
   何のつもりだよ!」

   賞金首の分際で、何を考えて、マッドのいる酒場に現れたのか。そしてマッドを攫って、こう
  して閉じ込めようとしているのか。
   圧し掛かってくる男を睨みつけ、マッドはその身体を押しのけようと腕を突っぱねる。だが、
  サンダウンにはその程度の抵抗など効果がなく、逆に腕を押さえ込まれて顔を近付けられる。葉
  巻の匂いがする吐く息が唇に掛かり、マッドは咄嗟に顔を逸らした。

  「マッド。」

   口付けを避けたマッドに、サンダウンが苛立ったように声を荒げる。だが、マッドは顔を背け
  て拒絶の意志を表示する。マッドの脳裏を横切るのは、女とごく親しげな空間を作り上げていた
  サンダウンの姿ばかりで、それなのにサンダウンと口付けを交わす事など出来るはずもない。
   けれども、サンダウンにはそんなマッドの心情は推し量れなかったのか、かさついた手をマッ
  ドの形の良い顎に掛けると視線を合わせる事を強要させる。
   サンダウンの青い双眸と対峙する羽目になったマッドは、それを睨むしかない。

  「何すんだよ、放せ!」
  「……………………。」

   それでも威嚇音を止めないマッドに、サンダウンの表情も険しくなる。眉間には深い谷間が刻
  まれ、何かを堪えるように奥歯を噛み締める音が、マッドの耳にも聞こえた。それは、ともすれ
  ば何か苦痛を耐えているようにも聞こえる。
   そして、吐き出された低い声は、苦い味をしている。

  「今更、諦めるつもりか………?」
  「ああ?!」
  「此処まで追いつめておいて、今更、諦めるのか?」

   私を、

   どれだけ砂糖菓子で包んでも、誤魔化す事が出来ないほど苦い声で落とされた言葉に、マッド
  は眼を見開く。そして、次の瞬間、あまりの身勝手な台詞に頭が沸騰した。

  「っ、ふざけんなよ、俺が誰を追い掛けようが諦めようが、俺の勝手だろうが!なんであんたに
   指図されなきゃなんねぇんだよ!」

   まるで、マッドがサンダウンを追いかけなくてはならないのだと言わんばかりの台詞は、しか
  し、サンダウンが告げるべき台詞ではない。それはマッドが心のうちで決めるべき言葉だ。
   大体、マッドから逃げ出したのはサンダウンではないか。それを、マッドが追いかけてこない
  と分かった瞬間に、マッドが契約違反したかのように言うのは、一体何様のつもりか。
   けれど、やはりサンダウンはそんな事思いもよらないのか、マッドが悪いのだと言わんばかり
  に、苦渋の色を浮かべた視線で見下ろす。それは、手負いの獣が何か救いを求める視線にも似て
  いたが、しかしそれをマッドに向けてどうするつもりなのか。
   そういう眼差しは、マッドではなくて、ちゃんと受け止めてくれる相手――あの娘にでも向け
  れば良いだけの事だ。

  「どけよ、俺はてめぇの相手してるほど暇じゃねぇんだ。」
  「マッド…………!」

   逃れようと身を捩ると、悲鳴のような声と共に、強い力で押し戻された。そして男の額がマッ
  ドの胸に落ちかかる。
   縋りつくような仕草。
   だが、マッドは跳ね除ける。

  「邪魔なんだよ。そういうのはな、柔らかい胸持った女にして貰え。俺はそんな事されても何も
   してやれねぇし、してやりたくもねぇ。」

   もう、うんざりだ、と吐き捨てる。
   実際に、女の代わりをしている自分に、うんざりしている。そして女がいるにも拘わらず、未
  だマッドにも懐こうとしているこの男に。
   けれど、サンダウンはマッドの腕を掴んで放そうとしない。

  「………何が、あった?」
  「うるせぇな。俺に何があろうがてめぇの知った事じゃねぇだろ。」

   お前に何があっても俺には関係ない。
   サンダウンに女がいようが何だろうが、マッドには関係ない。けれど、マッドは女の代替品で
  ある事を良とするほど自尊心が低いわけでもないし、ましてサンダウンに決まった女がいるのな
  ら、尚更その代わりなどごめんだ。
   しかし、サンダウンは、何故、と問い続ける。

  「………追いかけたのは、お前だろう?」
  「賞金稼ぎが賞金首を追い掛けて何が悪い?追いかける賞金首を諦めようがどうしようが、それ
   は俺の勝手だ!賞金首のてめぇがとやかく言う事じゃねぇだろ!」

   同じ事ばかり繰り返す自分達に嫌気がさして、マッドは本気でサンダウンの腕を振り払う。
   特定の女がいるにも拘わらず、自分に触れようとする男が嫌だ。それとも、都合の良い相手を
  失いたくないだけか。男好きのする身体だとは嫌味な連中に言われてきたが、この男もそう思っ
  ていたのか。
   不愉快を通り越して、息の根を止められたような気がして、マッドはこれ以上は嫌だと身を捩
  ってサンダウンの下から抜け出し、部屋を出ていこうとする。が、それをサンダウンに再び阻ま
  れた。伸びてきた腕が、マッドの身体を後ろから捕えて、抱き竦める。

  「私は、お前にとってはその程度の扱いだったのか………?」
  「てめぇが、それを言うか!」

   たかがハンカチ一枚でマッドに怒りをぶつけた、お前が。
   未だ癒えない傷を抉られたような気分になって、マッドはそれが自分の限界である事を認めた。

  「ハンカチ一枚で思い出に残るような女がいるんなら、そっちに行けよ!俺はてめぇの玩具じゃ
   ねぇぞ!」

   これまでは性欲処理だと言い聞かせる事が出来たし、社会性があるマッドのほうが優位な立場
  にあった。けれども、サンダウンに特定の女がいるにも拘わらず、マッドを抱くのなら、それは
  マッドを弄んで楽しんでいるだけだ。
   そして、それが発覚した後も、己が強者であるが故にまだ許されると思っているのか、サンダ
  ウンはマッドを抱く腕を緩めない。
   そんなに、マッドを甚振るのがおもしろいか。

  「くそ、放せ!放せっつってんだろ!」
  「マッド、あれは、お前が………!」
  「ああそうだな、俺があんたの大切なもんを捨てたからだよ!でもあんただって俺が鍵かけて仕
   舞ってたもんを勝手に捨てただろうがよ!」
  「それは…………!」
  「うるせぇ!これ以上俺に触るな!人肌恋しいんなら、あの女のとこに行けよ!」
  「あの女…………?」

   マッドを宥めようとしていたサンダウンの声が、微かに疑問を帯びる。その隙にマッドはサン
  ダウンの腕から逃れる。

  「マッド、あの女というのは………?」
  「何言ってやがる!ずっと女と一緒にいただろうが!俺が知らねぇとでも思ってんのか!」

   吐き捨てるように言うと、サンダウンの青い双眸が大きく見開かれた。そして、信じられない
  と言うように、呼気と共にサンダウンは呟く。

  「お前、見ていたのか………?」
  「ああ見てたさ!は、良かったじゃねぇか、あんたみたいなおっさんにも女が出来て!だからも
   う俺といる必要もねぇだろ!」
  「待て、違う、あれは昔の知り合いの、妻だ。」
  「そうかよ。でも俺には関係ねぇよな。」

   これ以上サンダウンの言い訳を聞く気にも、話しをする気にもなれず、マッドは寝室のドアノ
  ブに手を掛ける。夜の空気を浴びてひんやりとしたそこは、マッドの手の中に吸い付いて、あっ
  さりと回る。
   静かな音を立てて回転するドアノブに、サンダウンの静かな焦燥が聞こえた。

  「マッド…………!」
  「触るな!触ったら、てめぇの眼の前で頭撃ち抜いて死ぬぞ!」

   当然だ。男の玩具にされる屈辱を味わうのなら、死んだ方がましだ。
   マッドの本気を嗅ぎ取ったのか、マッドに触れようと手を伸ばしたサンダウンの衣擦れの音が
  宙に溶けて消える。それを背中で感じながら、マッドは寝室の扉を開けて、ソファが置きざられ
  た懐かしい部屋へと出ていく。
   それでもまだ、諦められないのか、サンダウンがついてくる気配があった。それを無視して、
  マッドはソファの前を通り過ぎ、台所を素通りしていく。
   埃ばかりが積もった短い廊下を歩き去って、最後の扉に辿り着いた時、今にも海底に沈んでし
  まいそうな声が床を這った。

  「マッド………どうすれば良い?どうすれば、お前は信じてくれる?」

   蜘蛛の糸を切らないように手繰り寄せるような声に、マッドは一瞬、動きを止めた。だが、声
  は零さないし、視線も向けない。代わりに、ドアノブに手を乗せる。

  「………もう、逢えないのか?」

   声も聞けないのか、視線を合わせる事も叶わないのか。
   そう囁く声は、いよいよ途切れてしまいそうだった。悲痛さを伴わず、何処までも感情を欠い
  た声は、何かを諦めたような底知れない怯えが秘められている。
   しかし、それに抗おうとするかのように、サンダウンは小さく言葉を紡ぐ。

  「ならば、マッド………。」

   ひやりとするほど、人間味を欠いた声に、マッドは思わず振り返った。合わさった視線は、そ
  の場に倒れ込んでしまいそうになるくらい、何も持たず、ひたすらに空虚だった。その眼差しと
  同じ声色で、サンダウンは囁く。

  「この場で、私を、殺していけ。」