酔いの回った頭を抱えながら、マッドはなんとなく人心地ついたような気分になった。
   あの喧嘩別れした日からずっとぐだぐだとサンダウンの事ばかり考え続けて、こうして酒を楽
  しむ暇もなかった。確かに心の底にはまだ何か蟠るものがあるけれど、久しぶりにゆっくりと仲
  間達と酒を飲んで、一区切りついた気分だ。
   それは、あのお気に入りだった塒を一掃した所為かもしれない。だらだらと続いていた関係と、
  そこにうじうじと縋りついている自分を一蹴する為に実施した、あの掃除は、意外とマッドの中
  に大きな効果を齎したようだった。
   捨て去るまでに時間が掛かったが、捨ててしまえば何て楽なのか。案ずるより産むがやすしと
  は正にこの事だ。

  「マッド、どうして最近逢いに来てくれなかったの?」
  「悪ぃな。ちょっと仕事が立て込んでてよ。」

   しな垂れかかってくる娼婦の恨み事に、マッドはゆったりとした笑みを浮かべてあやすような
  口調で返す。肩を引き寄せて軽く頬に口付ければ、彼女はすぐに機嫌を直したようで、マッドの
  少しはねた黒髪を撫でつけてくれる。
   他の娼婦達も、マッドの前にグラスを置いたり、そこにアルコールを注いだりと何かとマッド
  の世話を焼いてマッドの眼線を引きつけようとする。
   そんな彼女達の女性ならではの仕草を、マッドはすっきりとした心持ちで見やる。
   久しぶりのマッドの到来に、賞金稼ぎ仲間も娼婦達も喜び、マッドの機嫌を取ろうと擦り寄っ
  てくる。隣に座る女達の柔らかな温もりに埋もれ、仲間の軽妙な話に笑いながら、マッドは喉を
  通る酒の熱さにうっとりと身を委ねる。
   そんなマッドの様子に女達は頬を染めながら酌をし、男達も新しい酒をどんどん用意して行く。
  マッドが指を動かす必要は何処にもない。指に着いた酒の一滴さえ、誰かが勝手に拭い去ってく
  れるのだ。

   本当に、こんなふうに大切にされるのは久しぶりの事だった。
   アルコールの入り混じった息を零して、マッドは満足そうに椅子に凭れかかる。そう、これが
  マッドの座るべき場所だ。大勢の仲間と娼婦にちやほやとされて、その機嫌一つでその場を凍り
  つかせる事が出来る権限を持つ、西部一の賞金稼ぎの立ち位置だ。
   これまでずっと、あの塒の中に閉じ込められて、食事や掃除や、果ては床の相手までさせられ
  ていたが、あれはマッドのいるべき場所ではない。間違っても、サンダウンがゴロゴロしている
  ソファがマッドの座るべき場所なはずがない。  
   それを再認識できた事で、マッドはもう一歩、かつての自分の位置に戻ったような気がした。
  ほっと安堵の息を吐くと、それを何と勘違いしたのか、娼婦達の一人が不安そうな眼を浮かべる。
  マッドの機嫌を損ねたのかと不安に思う彼女に、マッドはなんでもないと笑い掛け、グラスを傾
  けた。
  
   とくとく、とマッドの体内にアルコールがどんどん降り積もっていく。
   久しぶりの仲間達との逢瀬という事もあってか、マッドの酒を飲むペースは徐々に上がってい
  く。それにマッドはもともと酒豪という事もあり、そんなマッドのアルコール摂取を止めようと
  いう者は何処にもいなかった。
   音楽と笑い声が木霊する中、マッドは開放的なその空気に浮かれて、自分のペースを見失って
  しまった。

  「あら、珍しいわね。寝ちゃったわ。」

   酒場の黄色とオレンジの、ウィスキーを連想させる光が瞬く向こう側で、女の声が反響するよ
  うに響いている。頬を柔らかな何かに埋めて、その声が何処から降ってくるのかを定めようとし
  ていると、今度は男の声が聞こえた。

  「ありゃ、随分と飲んでると思ったら、酔っ払っちまったのか。」
  「まあ久しぶりだったしな。こういう事もあるかもしれねぇな。」

   笑い合う声に混じって、誰かが髪を撫でている。

  「こうやってると、本当にまだ子供に見えるわねぇ。西部一の賞金稼ぎだなんて信じられないわ。」
  「あん、リリーばっかりずるいわよ。あたしにも触らせて。」

   深い落ち着いたマダムのような声に、子供っぽい声が重なる。それに被さる苦笑いの声。

   寝てても起きてても、やっぱりそいつが女を侍らせるのか。      
   当り前だろ、いや寝てるから余計にってのもあるな。
   まあマッドの奴がそんなふうに酔っ払うのは珍しいからな。

   頭上の何処かで交わされているらしい言葉に、マッドは少し顔を顰める。自分の名前が出てき
  たから、その言葉の意味を考えようとしてみたのだが、結局アルコールの波に流されて理解でき
  ないままに聞き流してしまう。
   それを、まだ頭の片隅に残っている賞金稼ぎの自分が、危険だと言っているが、けれどもそれ
  も琥珀色の夢の中に溶けていきそうだ。疲れにも似た酔いは全身に圧し掛かり、しかし不快では
  ない。それは、眠りに落ちる間際のようだ。さざめき合う人の声さえも、心地良くて、マッドの
  意識はふらふらと浪間を漂う。

   ―――………?

   だが、急に何故か不安になった。
   琥珀色の夢の浪間は相変わらず心地良いけれど、急に太陽が雲で隠されて、空が翳ったように、
  何か言い知れない不安を感じたのだ。
   夢現でその原因を探していると、それが人の声が消え失せた所為だと言う事に気付いた。そし
  て柔らかく髪を撫でていたはずの手も、まるで凍りついたかのように止まっている。
   どうしたのだろうか。
   硬い雰囲気が漂ってくる中、けれどもマッドの身体は動かない。
   そんなぐんにゃりした身体が、突然、浮遊感に襲われる。身体を埋めていた柔らかな物から
  引き離される。だが、マッドはそれを不快に思う事はなく、むしろ先程まであった不安が掻き
  消されていく。むしろ、安心感はさっきよりも強い。

   乾いた風が身体を包み込んだような気がした瞬間、マッドの意識は安堵の波に飲まれて完全
  に琥珀の海に沈んだ。




   誰かに名前を呼ばれたような気がした。
   頬を撫でる手はよく知ったもので、マッドは特に警戒もなく、それに頬を擦り寄せる。嗅ぎ慣
  れた葉巻の匂いが鼻腔を擽り、同時に乾いた風に揺さぶられたような気がして、マッドは未だア
  ルコールの抜けきらない瞼を押し開けた。
   ぼやけた視界を数回の瞬きではっきりとさせたが、そこに広がるのは夜の闇だけだ。
   だが、徐々に闇になれてきた眼に映る光景に、マッドがぎょっとする。
   そこは、マッドが数日前に二度と――少なくとも、当分の間は――来ないと決めた、あのお気
  に入りの塒だったからだ。

   そして、視界を遮るように、ぬっと立ちはだかった影を見て、マッドは更に眼を瞠った。
   夜目でも分かる背の高い影と、その中で光る荒野の青空と同じ色をした瞳。そこから漂う、乾
  いた砂の匂い。
   思わず飛び起きて、マッドは信じられない物を見たような気分で、黒々と聳え立つ影を見上げ
  る。その拍子に、ぎしりとベッドが軋んで、マッドは自分が何処にいるのかを完全に悟った。

   此処は、お気に入りの塒の、しかもサンダウンが使っていた寝室だ。
   そして、眼の前に聳え立つのは、紛れもなく、サンダウン・キッド本人だった。

  「なんで………。」

   自分は、確か、賞金稼ぎ仲間達と飲んでいたはずなのに。
   強かに酔っ払って、うとうとしていたところまでは覚えているが、どうしてこんな所にいるの
  か。しかも、よりにもよって、この男がいる時に。
   マッドは意識が完全に落ちる前の、微かな空気の転調を思い出し、はっとする。
   娼婦の膝枕の上で感じ取った急激な不安と、そしてその前後に起きた仲間達の声の途絶えと、
  自分を膝枕する娼婦の強張り。
   ただ事ではない、その状態の、理由は。

   マッドはその理由に思い至り、眼の前の男を睨みつけた。

  「てめぇ………、一体なんのつもりだ!」

   よりにもよって、賞金稼ぎと娼婦が集まる場に堂々と現れた挙句、酔っ払って意識が飛びかけ
  ていたマッドを連れ去るなんて。
   きっと、あの場にいた全員が、突然の5000ドルの賞金首の来訪に凍りつき、そして眼の前で奪
  われたマッドの身を案じているだろう。いやそれ以前に、サンダウンがマッドを連れ去った理由
  が見つからず、混乱の極致にあるかもしれない。
   その惨憺たる有様を想像してマッドは頭を抱え、その事態の収拾をせねばならないのが自分で
  ある事に苦いものが込み上げる。
   元凶である男を睨み上げて、マッドは舌打ちする。

  「………俺は帰るぞ。」

   ベッドから降りて、サンダウンの脇を通り過ぎようとした時、痛いほどに腕を掴まれ、そのま
  まもう一度ベッドへと引き戻される。ベッドの上でバウンドしたマッドは、今度こそ、威嚇の声
  を上げた。

  「てめぇ、いい加減に………!」
  「お前こそ、何のつもりだ。」

   しかし、威嚇の声は、それ以上に怒りの籠ったサンダウンの声で阻まれる。何、と思う間もな
  く、ベッドに倒れ込んだマッドの身体の上にサンダウンが覆い被さってくる。だが、それに抵抗
  しようとしたマッドは、突然降りかかる、圧倒的な気配に息を飲んだ。

   見上げた男から立ち昇るのは、比較するものがないほどの、深く暗い怒りの気配だった。