マッドは気合を込めて、お気に入りの塒を見渡す。
   真昼の日差しを受けた窓硝子には染み一つない白いカーテンが掛かっており、その隙間から白
  い光が零れ落ちている。白い光が緩やかな波状の形を落としている木の床には、微かに埃が溜ま
  っているものの、けれども荒れ果てた様子はない。
   その様子を見て、安堵するとともに、マッドはここ数日間誰もこの塒を訪れる事はなかったの
  だと思い、僅かに眉根を寄せた。

   マッド自身、この塒にはしばらく訪れていなかった。
   情けない話だが、サンダウンが使っていなかった寝室以外は小屋の何処も彼処にもその気配が
  色濃く残り、マッドにとっては息が詰まりそうで、ともすれば碌な思考回路を生み出さない。
   まして、その碌でもない思考回路が、自分の一方的な感情に過ぎないとマッドは理解している。
   これまでサンダウンを身勝手だ身勝手だと罵ってきたが、本来の有り様を忘れて、サンダウン
  が離れた後も一方的に罵っているマッド自身が、一番身勝手だ。
   そんな自分の身勝手さを、この小屋にいれば嫌でもつくづくと思い知らされるばかりで、単に
  自分を虐めるだけの事でしかない。

   だから、しばらくの間、この塒には近づかなかった。
   他の塒や町を点々として、賞金稼ぎを撃ち取って、それを金に替えて。サンダウンに逢わない
  事以外は、全てがいつも通りの生活を送っていた。
   けれども、今日、ようやくこの塒を訪れる踏ん切りがついたのだ。

   マッドは自分が選んで付けた、白いカーテンをそっと外す。手の中でくたりと丸まったそれは、
  やはり染み一つなかったけれど、初めてこの小屋の窓に掛けた時に比べれば、生地がこなれてい
  る。それだけの時間、此処にあったのだ。
   感慨深げに、手の中に収まったそれを見下ろし、マッドはもう一度、明るい部屋の中を見渡す。

   部屋の中で一番存在を主張しているのは、サンダウンが――どういう業を使ったのかは分から
  ないが――持ちこんできたクリーム色のソファだ。その上には、マッドがソファの色に合わせて
  買ってきたクッションが三つほど乗せてある。
   クッションの前にあるのは、この小屋にもともとあったテーブルだが、そこにある銀色の灰皿
  はマッドが持ってきた物。縁が少し欠けているのは、サンダウンが床に落とした所為だ。底が凹
  んでいるのは、マッドがサンダウンの無精に怒って投げつけた事があったからだ。投げたそれは
  気持ちの良い音を立てて、サンダウンの後頭部に当たった。

   台所には行儀よく並べられたお揃いの食器が揃っており――最初はマッドの分だけだったのに、
  何処で見つけたのかサンダウンが同じ物を持ちこんできた――引き出しを開ければ、包丁や鍋と
  一緒に、保管してある葉巻の類が出てくる。そこにはマッドの好む物と、サンダウンが好む物が
  混ざり合っており、最後に漁ったのがサンダウンである事が分かる。マッドはいつも、自分の分
  とサンダウンの分は分けて入れるようにしているからだ。

   台所の床を外すと、そこは食糧を入れる保管庫になっている。そこには漬物や干し肉などの保
  存食と、そして夥しいアルコールの瓶が並べてあった。最後に見た時から瓶の数は一本も減って
  いない。マッドが買った記憶のない酒は、多分サンダウンが持ち込んだものなのだろう。最初は
  マッドが酒を管理する事に眉を顰めていたが、何度か言い聞かせるうちに、自分から此処に酒を
  入れていくようになった。

   洗面台には二人分の歯ブラシが鎮座している。一つのコップに二本入れている所為で、稀にサ
  ンダウンが間違ってマッドの歯ブラシを使う事があって、その度にマッドは怒鳴り散らした。一
  度コップを別々にした事があったが、何故か数日後には一つのコップに戻っている。あれは、サ
  ンダウンの仕業と見て間違いないだろう。
   すぐに風呂に入れるようにと切らした事のないタオル類は、何故かサンダウンが持ってきたも
  のだ。なんでサンダウンがこんな大量のタオルを持っていたのかは未だに謎だが、あるに越した
  事はなかったので、マッドはそれらをローテーションさせながら使っていた。

   マッドはそれらを見渡しながら、思った以上に自分の物がある事に苦笑いを浮かべていた。他
  の塒にはこんなに物は置いていないはず。それならば、やはりこの塒はお気に入りだったのだろ
  う。
   けれど、もう、此処に来る事はない。惜しいとは思うが、少なくとも当分の間は此処には来な
  いだろう。

   恐る恐る立ち寄った、あの町で、やはりマッドは見てしまった。
   あの時と変わらずに、親しい空気を見せる二つの影を。

   女はやはり町娘のようで、それは娼婦のように金銭での関係ではないという事だ。つまり、情
  が多く働く関係。傾けられる心の内は、如何ほどに多いのか。
   紛れもない事実を見せつけられながらも、それならもうその姿を捜し回る必要はないなと、こ
  の周辺にこの男はいるのだから探す手間が省けると、賞金稼ぎとしての思考が働いたのは、完全
  に麻痺してしまったからか。
   ぼんやりと麻痺したそれがようやく解けたのは、一人ホテルのベッドで丸くなってからだった。
  自分の気配の混入を許さないその空間が、頭の中を引っ掻くようで、けれどもそれは何かにすっ
  ぽりと収まるような光景でもあった。
   そしてその当然の光景があるこの世界で、自分とサンダウンの気配が未だ入り混じっている塒
  が、何かとても不必要なものに思えたのだ。

   だから、マッドは今日、この塒を訪れた。
   この世ならざる物と化した、塒の気配を一掃する為に。

   けれどサンダウンの気配はどうしても強く残っており、マッドの手では消す事が出来ない。だ
  からマッドは、どちらかと言えば気配を消しやすい自分のほうを一掃する事に決めたのだ。
   喧嘩別れしたあの日のようにゴミ袋を持って、汚れないようにとエプロンを付ける。ただあの
  日と違うのは、あの日は要る物と要らない物を分けて、要らない物だけをゴミ袋に入れていった
  が、今回は全てをゴミ袋と木箱の中に放り込んでいく。

   白いカーテンも、クッションも、銀の灰皿も、さくさくとゴミ袋に詰めていく。
   葉巻は自分の分だけ取り出して、携帯している葉巻入れに入れ直し、マッドが持ち込んだ酒瓶
  も保管庫から抜いておく。マッドが作り置きしておいた保存食も全て取り去って、保管庫に残る
  物と言えば、サンダウンが持ち込んだ酒くらいだ。
   洗面台にあった歯ブラシはゴミ袋に突っ込んで、マッドが気に入っていた石鹸もゴミ袋に入れ
  る。
   食器はカーテンやクッションと一緒に木箱に詰め込み、この日の為に借りてきた馬車に乗せて
  いく。替えの服や、暇つぶしの為の本も馬車に乗せ、小屋の中からはどんどんマッドの気配は薄
  れていく。

   そして最後に、マッドは手を付けていなかった、サンダウンが使っていた寝室へと足を運ぶ。
   そこは、この小屋の中で一番サンダウンとマッドの気配が混在していて、マッドは思わず目眩
  がしそうになり、寸でのところで堪える。
   部屋の大部分を占めるダブルベッドは、サンダウンが使って、そしてマッドが引きずり込まれ
  るベッドだ。それ故に、どうしても二人の気配が濃くなってしまう。尤も、それは、単にマッド
  の思いすごしかもしれないが。
   この部屋で時折落とされた睦言が、そういう錯覚をマッドに見せているだけなのかもしれない。
   けれど、マッドにしてみれば他人事ではなく、勘違いでもないのだ。どうにかして気配を薄れ
  させようと、マッドは枕とシーツを引き剥がして取り換えて、ベッドの下まで掃き掃除をして、
  部屋の空気を入れ替える。
   ようやく普通の空気が戻ってきたところで、マッドは思い出したように、ベッドのサイドテー
  ブルに手を伸ばした。

   引き出しの鍵を抉じ開けた跡のあるサイドテーブルは、かつてマッドの過去の全てを詰め込ま
  れていた場所だ。捨てるに捨てられなくなった、荒野に来る前のマッドの面影が閉じ込められて
  いた。
   そしてそこを開けば、今はもう、何一つ残されていない。空っぽのそこは、サンダウンによっ
  て齎されたものだ。
   マッドが誰にも触れられないようにと厳重に鍵を掛けたその場所は、いつの間にかサンダウン
  に嗅ぎつけられていた。そして、マッドが気が付いた時には、鍵は抉じ開けられ中身は空っぽに
  なっていた。
   サンダウンが何を思ってそれらを捨てたのかは、結局分からずじまいだった。鍵を抉じ開けて
  まで、何故それらを捨て去ったのか。それはただの気紛れであったのかもしれないし、或いはそ
  の時は何は情に準ずる感情が働いていたのかもしれない。
   何れにせよ、もう確かめる術はないが。
   そして今、この小屋からはマッドの気配全てが消し去られようとしている。
   マッドは引き出しをもとに戻し、誰の気配もしなくなった寝室を後にする。これで、もうマッ
  ドの痕跡はこの小屋からは綺麗さっぱりなくなった。最後にマッドはエプロンを外し、それをゴ
  ミ袋に入れる。そのゴミ袋さえ馬車に入れてしまえば、この小屋にあるのはサンダウンの気配だ
  けだ。

   マッドは、最後にもう一度だけ、ゆっくりと心持広くなった小屋の中を見渡す。
   いつか、また此処に来る事があるかもしれない。そしてその時、自分達は完全に一番最初にあ
  った場所に戻るのだろう。そしてそれが一番正しいのだ。
   賞金首と賞金稼ぎの、正しい関係に戻るだけの話。

   彼は薄く微笑んで、最後に自分の影を小屋の中から消し去った。