買ったトマトを仕舞いもせずに、マッドはぼってりとベッドに倒れ込む。
   誰の気配も感じられない、汚れ一つない白いシーツの上で、さっき町で見かけたばかりの光景
  を繰り返し思い出し、マッドは薄く笑みを浮かべる。    

  「随分と、美人を連れてたじゃねぇか。」

   柔らかな、日差しに透かせばブロンドと見紛う茶色の髪と、鳶色の優しそうな眼。派手さのな
  い姿形は、娼婦とは遠くかけ離れており、それが普通の町娘である事が窺い知れる。けれども、
  単にそのへんで出会っただけと言うには、そこに漂う空気がはっきりと親密さを示していた。
   何せ、偶々出会ったばかりの人間の腕に、その手を添えたりはしないだろう。

  「あんな美人がいるんなら、別に此処に来なくたって良いじゃねぇか。」

   人恋しくなったなら、そちらに行けば良いだけの話。
   それとも、マッドに出会った後――この塒に通うようになった後、あの女に出会ったのだろう
  か。だとすれば、いつかは此処に来るのを止めようと考えていたのだろうか。今回の別れ方は、
  もしかしたらサンダウンにとっては良い機会だったのかもしれない。後腐れなく立ち去る事が出
  来る、またとない好機だったのかもしれない。

   そんな遠回りな事をしなくても、とマッドは呟く。
   此処に来たくなくなったのなら、勝手に来るのを止めれば良いだけの話だ。別に、マッドはサ
  ンダウンとこの塒で逢う約束をした覚えもないし、そうせねばならない状況になっていたわけで
  もない。
   偶然なのか、それともサンダウンがマッドがいる時を狙ってやって来ていたのかは、今や知る
  術はないが、少なくともマッドはサンダウンがいる時を狙ってこの塒を訪れた記憶はない。サン
  ダウンが塒にいようがいまいが、それはマッドにとってはどうでも良い事だ。
   だから、サンダウンがこの塒に来る事を止める事について、マッドは何らかの口出しをするつ
  もりはない。
   サンダウンが来たくないと言うのなら、来なければ良い。マッドに気兼ねをする必要は、何処
  にもない。

   それとも、マッドがサンダウンと此処で会う事を望んでいたとでも思っているのか。
   だとしたら、自惚れも良いところだ。

   確かに強請られて食事を作った。何日も着込んでいたらしいシャツを洗濯してやった事もある。
  そして、身体を繋げた事も。
   だが、それはほとんどがサンダウンが求めたもので、そしてマッドがサンダウンに対して弱者
  である以上、差し出さねばならない事ではないか。もしも、マッドがサンダウンの意向に沿うべ
  きだと思っているのと同時に、マッドがサンダウンに対してそういった何らかの情を持っている
  のが当然だと考えているのなら、それは傲慢どころの話ではない。
   それは、いつも虐げている奴隷に、自分が愛されているのだ、と思っている世間知らずの馬鹿
  と同じ考えだ。

   そして、此処に来なくなる事を切り出すのを躊躇うのが優しさだと思っているのなら、その横
  っ面を張り飛ばしてやりたい。
   平手ではなく、拳で。

   けれど、とマッドはシーツに顔を埋める。
   塒にある二つの寝室のうち、今マッドがいる場所は、サンダウンがいる時はほとんど使われな
  い。サンダウンはもう一つの寝室を陣取って――それは一番最初にマッドがサンダウンを押し込
  めた場所だ――そこにはマッドも引きずり込まれる事になるからだ。
   サンダウンの気配の乏しいその部屋で、マッドは必死で呼吸を整える。そうでもしないと、今
  すぐにでも自分の思考回路を見失いそうだった。まして、サンダウンの気配が未だ根強いこの塒
  の他の場所では、どんな事を口走るか分かったものではない。
   ひやりとしたシーツに顔を埋め、マッドは賞金稼ぎとしての自分を手繰り寄せて、思う。

   けれど、分かっている、と。

   この先程からの一方的な罵倒は、マッドが勝手に思っているだけの事だ。サンダウンにはサン
  ダウンの言い分があるのだろうし、けれどもマッドはサンダウンではないので、そんな事は分か
  らない。
   それ故に、マッドは自分の意見だけを寄る辺として、現在の状況を判断するしかない。
   そしてそれが、如何に理不尽な裁定であるか、西部一の賞金稼ぎマッド・ドッグは知っている。
   賞金稼ぎの頂点に君臨するマッドは、この情報が乏しく錯綜しやすい荒野で、人の語りから何
  処まで事実に近付けるかが困難であるのかを知っている。
   一方的に語られる話が、如何に事実から離れているのか、それは人の恨み言を聞いて、それを
  貨幣に替える賞金稼ぎならば理解しておかねばならない事だ。そしてその話の中から、事実を繋
  ぐ事に誰よりも長けているからこそ、マッドは賞金稼ぎの王たり得ている。
   そんなマッドだから、自分の一方的な言葉が、事実から程遠いのであろう事も分かっている。
   だが、マッドには自分の感情しか、現状を判ずる情報がない。肝心の、サンダウンからの情報
  がほとんどないからだ。

   そもそもサンダウンは、何一つとして教えてくれないのだ。マッドはその微かな表情と、気配
  の転調から言いたい事を探り当てるしかない。そして、稀に放った言葉でさえ、何処までが真実
  であるのか分からない。
   夢と現と快と熱が支配する閨の中での言葉など、尚更だ。
   掠れた声で囁かれた言葉に言及して罵る事が出来れば、それはそれで楽なのだろうが、けれど
  も睦言を真であると断ずるには、マッドは冷静であり過ぎる。

   ぐだぐだとサンダウンに責任を押し付けているのが、冷静であろうとする為の手段にすぎない
  と理解できるほどに、マッドは冷静だった。

   サンダウンの気配が濃ければ濃いほど思考回路が堂々巡りしている時点で、いや、どうでも良
  いのだと思い続けて結局その事しか考えてない時点で、自分が何に対してどれほど動揺している
  のかが分かる。
   にも拘わらず、事の発端であるこの塒に戻ってきてしまうのは、マッドが何かを期待している
  からだ。
   誤魔化そうにも、賞金稼ぎとして優秀すぎるマッド自身が、誤魔化されてくれない。冷静すぎ
  るのも困りもんだ、とマッドは自嘲の笑みを零す。  

   いっそ、あの男が残した物を全て捨て去る事が出来たなら。
   けれど、それが出来ないほど、気配が染みついてしまっている。

   どうしようか、と小さく呟いて、マッドは自分の匂いだけがする毛布に包まって眼を閉じた。