きっかけは本当に些細だった。

  その日、マッドは塒の掃除をしていた。
  マッドがお気に入りのその塒は、小さな家だったが、それでも台所から風呂場まで揃っている優
 れ物で、寝室も二つあるという、本当に荒野にぽつんと建っているとは思えない物だった。どうし
 てこの小屋を持ち主が手放す気になったのか、不思議に思う。
  まあ、利便性を考えれば、もっと町に近い場所が良いとかそんな理由は幾らでもつけられるのだ
 が、基本的に根なし草のマッドにしてみれば、町から遠い近いというのはそれほど問題にはならな
 い。むしろ、町に辿り着くほどの気力もない時に、こうしてぽつんと突っ立っている家のほうが、
 塒としては有り難い。まして、設備もばっちり備わっているとなれば尚更だ。
  だから、今後も末永く使っていけるようにと、マッドは気合を入れて掃除をしていた。
  風呂掃除・台所掃除は当然の事、棚の上から後ろに溜まった埃を掃き出し、、洗面台の汚れを拭
 き取り、床に付いた足跡を消し去っていく。天気の良い日だったから、ついでにカーペットも洗い、
 物干しに干していた。

  鼻歌交じりでタンスの中を整理して、いる物といらない物を分けていく。古くなった物はゴミ袋
 へ、そしてまだいる物はきちんと畳んでもとに戻していく。
  そんな一連の作業をしている時に、それは見つかった。

 「なんだ、これ?」

  ついでに洗濯物も畳んでいる途中に、その中から見つかった襤褸切れに、マッドは首を傾げる。
 もともとは白い布――いや青い縁取りがしてあるのを見るにハンカチか――だったらしいそれは、
 薄汚れている上に皺が幾重にも付いている。アイロンを掛けても、この皺は取れないだろう。
  どう見ても靴磨きくらいにしか使えそうにないそれに、マッドは眉根を寄せて何処から湧いてき
 たのかを考える。しかし、どれだけ首を捻っても、こんな物を塒に持ち込んだ記憶はない。
  やがて、考えるのを諦めて、マッドはどう見ても襤褸雑巾にしか見えないそれを、ぽいっとゴミ
 袋に投げ捨てた。そしてそれ以降、その布切れの事など頭の隅から追い出して、まだまだ残ってい
 る片付けに手を伸ばした。

  服を全て畳み終え、乾いたカーペットを元通りに床に敷いて、家具をその上に配置し、やっとマ
 ッドは人心地ついた。ぼすん、とソファに座り、ぴかぴかと磨かれた部屋の中を見回して、一人満
 足する。
  これで、当分は大掛かりな掃除をしなくても良いだろう。マッドが此処に来なくても良いはずだ。
  そう思って、服が汚れないようにと着けていたエプロンを外し、それを洗濯物籠に放り込む。
  今日のメインの仕事をやり終えて、マッドは日が既に傾きかけている事に気付く。そう言えば、
 昼食も食べずに作業に没頭していた。その事に気付いて苦笑いし、夕食と昼食を兼ねた食事を作ろ
 うかと腰を上げた。

  その時になって、ようやく、今まで一度も開かれた事がなかった――昨日の内にマッドが掃除を
 終わらせていた、もう一つの寝室の――扉が、軋んだ音を立てて開いた。
  きぃ、と短い音の隙間から覗いたのは、多分、この家で今、一番大きなゴミだろう。むさ苦しい
 砂色の髭を見て、マッドはそのままゴミ袋に詰めてやりたい衝動に駆られた。先程までの清々しい
 気分も、何処かにすっ飛ぶ。
  大体、確かに邪魔だと言ってその部屋に押し込んだのはマッドだが、だからって本当に出てこな
 いとは何事か。手伝おうかの一言も言えんのか、この男は。
  マッドがじっとりと見ていると、その役立たずで今にもゴミになり得そうなおっさん――サンダ
 ウンは、のそのそと部屋から出てきた。そして、誰の許可を得てか、マッドに擦り寄ってくる。

 「………終わったのか?」
 「見りゃ分かるだろうが。」
 「だったら食事を。」

  今朝から何も食べていないと呟くサンダウンに、そう言えばこの男には朝ご飯も与えてなかった
 なとマッドは思い出す。ぐりぐりと胸に顔を押し付けてくるおっさんに、完全に掃除の後の清々し
 さを奪い去られ、何となくげんなりしてマッドは、分かったよ、と答える。

 「なんか作ってやるから、大人しく待ってやがれ。」

  すると、現金なものでサンダウンはマッドから身を離し、先程までマッドが座っていたソファに
 転がる。今日、天日干しをしたばかりのクッションに顔を埋めるサンダウンに、マッドはなんとな
 く、掃除をした意味がなくなったような気分になった。せっかく綺麗にしても、サンダウンがまた
 自分の匂いを擦りつけているのを見て、どっと疲労感が押し寄せる。
  しかもあのおっさん、ソファの下から酒瓶を引き摺り出していやがる。
  全部片付けたと思ったのに、まだ仕込んであったのか。
  この調子だと、片付けたと思っていても、まだ何処かにサンダウンが脱ぎ散らかした服だとかが
 放り出されていてもおかしくない。

  暗澹たる気分になりながら、マッドがまな板と包丁を取り出していると、サンダウンが首を傾げ
 ているのが視界の端に映った。

  なんだ、他の酒瓶を片付けた事を不審に思っているんじゃないだろうな、大体酒の管理は俺がす
 るって事になってたはず。

  何かを探しているふうのサンダウンをちらりと見やり、マッドはすぐにまな板の上のトマトに視
 線を戻す。
  トマトの尖った部分に包丁を合わせ、そこをすっと切り込む。そうすれば、とろりとした種を包
 んだ袋が零れ出す。
  しかし、それらの一連の光景は、マッドの想像に終わった。何故なら、マッドがトマトに視線を
 合わすと同時に、サンダウンが問い掛けたからだ。

 「マッド、この辺りに置いていた、布を知らないか?」
 「知らねぇ。」
 「少し汚れてはいるが………白い、青い縁取りのある布なんだが。」
 「ああ、あれか。」

  サンダウンの少しばかり具体的になった説明に、マッドはようやく思い当たる節のある物があり、
 面倒臭そうに頷いた。
  そして、それの末路を事も無げに伝える。

 「あれなら捨てたぜ。」

  汚かったし、とマッドが続けようとした言葉は、それが形作られる前に塞がれた。先程までソフ
 ァでゴロゴロしていたはずのサンダウンが、包丁を構えていたマッドの手を掴んだのだ。急に掴ま
 れた腕は思わず標的であるトマトから逸れ、トマトを添えていたマッドの指を狙おうとする。持ち
 前の反射神経で、それをどうにかやり過ごし、マッドは自分の指を切り落とさなかった事に安堵す
 る。
  が、安堵し終わった後に訪れたのは、突然意味不明な動きをした男への怒りだ。

 「っぶねぇな!何しやがるんだ、てめぇは!」

  怒鳴ってサンダウンを睨み上げれば、ぶつかったのは微かな驚愕を浮かべたサンダウンの双眸だ
 った。

 「捨てた、だと…………?」
 「ああ、あんなボロっちい布、捨てたぜ。」

  あっても邪魔になるだけだ、と言い掛けてマッドは口を閉ざす。頭の中で、本能が警鐘を鳴らし
 たのだ。それに従って手の中から包丁を取り落としたその一拍後、マッドの身体は宙を薄く飛んで、
 ソファの上に落とされた。
  マッドの身体がソファの上で軽く跳ねたのと、包丁が床に落ちる音が響いたのは同時だった。

 「何すんだ!」

  叫んで身を起こそうとすると、男の身体がぬっと伸びて天井のように圧し掛かってきた。その影
 の中で、青い双眸だけが雄弁に爛々と輝いている。マッドの腕を掴んで、引き摺り上げ、男は地を
 這うような声で言う。

 「お前は、あれを、何だと思って………。」
 「ああ?!知るかよ!そのへんに放り出してたあんたが悪いんだろうが!そんなに大切なもんなら
  ちゃんと片付けとけよ!」

  言い返すと、腕を掴んでいるサンダウンの手に力が籠る。ぎり、と音がしそうなほど握り締めら
 れて、マッドは思わず仰け反った。それでも負けじとマッドは声を上げる。

 「あれかよ、昔の女か、それか家族にでも貰ったってか?だから捨てて欲しくなかったってのかよ。
  でも、だったら尚更自分で管理しとけよ!」

  すると、サンダウンの眼の色が、鮮やかに深くなる。いつもは荒野と同じ空色の瞳が、眩しいほ
 どの群青に変貌する。
  情事の時に見せる、欲を孕んだ紺色とは違うその眼差しは、マッドでもほとんど見た事がないサ
 ンダウンの怒りを示している。

 「お前、は…………!」

  落ち着いた声が、漣のように昂ぶる瞬間。その様に息を飲みながら、しかしマッドはそれに呑み
 込まれてしまわないようにと叫ぶ。

 「俺のやり方に文句があるんなら、自分でどうにかしろよ!それが嫌なら、出ていけ!」

  そもそも、これまでは自分の物も全てマッドに任せていたではないか。脱ぎっぱなしの服も、昔
 から使っているのだろうなと思われるホルスターも、果ては銃の管理まで、全てマッドに許してい
 たくせに。それなのに、たかが布切れ一枚捨てただけで、何故こんなに責められねばならないのか。
  マッドに触れられるのが嫌ならば、それほど大事ならば、マッドの眼の届くところではなく、自
 分の手の届く範囲で管理すれば良いだけの話だ。それをせずに大切な物を失くしたとしても、それ
 はマッドの咎ではなく、サンダウンの咎だ。

  きりきりとサンダウンを睨むと、マッドの黒い眼で睨まれたサンダウンはしばらくマッドを見下
 ろしていたが、不意に軽い舌打ちをするや、マッドを拘束していた手を解き身体を退く。
  支えを失ったマッドがソファに沈み込んでいる間に、その影はマッドから離れ、硬質な足音を立
 てて遠ざかっていく。マッドが慌てて身を起こし、ソファの背凭れ越しにその姿を追い掛けた時に
 は既に、ポンチョの切れ端だけを翻して扉の向こうへと消えていくところだった。
  唐突に置き去りにされ、マッドはしばらくの間、呆然とする。
  彼が我に帰ったのは、離れていく馬蹄の足音を耳で捕えた時だった。
  走り去るサンダウンの気配を追いながら、サンダウンの突然の変貌ぶりを思い出し、マッドは呟
 く。

 「なんだってんだよ、一体。」
 
 
 
 
  
 
 
   
  
  
 
  
   
  
  









各章のTitleはTMRの『魔弾』から引用