19世紀アメリカ西部の荒野の生態系頂点にいるのは、成金貴族でも金鉱夫でも、まして保安官な
 どでもなく、所謂ならず者と呼ばれる人間達だった。南北戦争に敗れた兵士や斜陽貴族、或いは東
 部から追われた犯罪者や行くあてのない娼婦達。
  こういった面々から成り立つならず者集団の中にも、更にヒエラルキーが存在する。その最下層
 にいるのが、縛り首にされる事を望まれる賞金首であり、逆に最上層にいるのが、その賞金首達を
 狩りとって飯の種にする賞金稼ぎである。
  そしてその賞金稼ぎの頂点に君臨しているのが、賞金稼ぎのマッド・ドッグだった。  
  黒い髪と黒い眼という、地中海沿岸域に多い色合いをしている彼の出自は誰も知らないし、当然
 の如く彼の本名も誰も知らない。
  尤も、出自や名前が不明な事など、混沌としたアメリカ西部では少なくない事だ。
  皆が一様に、どこか後ろ暗いところのある彼らは、時に名を変え、生まれを隠して生きていく。
 それは賞金稼ぎの王であろうと、変わらない。
  秀麗で端正な声を持つマッドの出自を探る不届き者も多かれ少なかれいたが、大半の者達は気に
 しつつも首を突っ込まない。謎めいて、時に蟲惑的な笑みを湛えるマッドは、しかしその逆鱗に触
 れた瞬間に相手を消炭に変える苛烈さを持っている。もしも、マッドが口にしない謎の部分が、実
 はマッドの一番柔らかい部分であり、且つ逆鱗であったなら、一瞬にして撃ち殺されるだろう。
  だから、誰も何も言わないのだ。

  特に、どう見ても髭の剃り跡なんかないマッドが、何故か髭の剃り方を知っている事とか。




  Seven Wonder






  賞金稼ぎマッド・ドッグは、白皙という言葉がこれでもかというくらい良く似合う肌をしている。
 もともと肌が白い上に、黒髪黒眼だから余計にそう見えるのかもしれない。
  しかし、黒眼黒髪の白人は、往々にしてその頬やら顎に、青々とした髭の剃り跡を残しているも
 のである。黒髪黒眼が白い肌に映えるように、黒髭もやっぱり肌に映えるのだ。従って、二次性徴
 を終えた青年達は、好む好まざるに拘わらず、未だ幼さの抜けきらない頬にそぐわない髭の剃り跡
 を残すのだ。
  基本、そういうものである。
  が、西部一の賞金稼ぎは、これには含まれない。
  誰よりも黒髪黒眼白皙であるはずの賞金稼ぎマッド・ドッグには、不思議な事に、その白い頬や
 ら形の良い顎やらに、一切の髭の剃り跡を残していないのである。よもや賞金稼ぎの王ともなれば、
 髭を剃った後に何か特別な事――例えば白粉を塗したりして――髭の剃り跡を目立たなくするよう
 な事をするのだろうか。
  それについては、否である。
  残念ながら、マッドは髭の剃り跡対策など、全くしていない。それどころか、髭を剃る事さえ、
 しない。
  要するに、髭が生えにくい――というか、もうほとんど生えない――体質なのだ。
  この、誰が得するのかも分からない体質を、マッドが非常に気にしている事は、賞金稼ぎ達全員
 が知っている事である。そしてそれについて何らかの言葉――馬鹿にするであるだとか、下手な慰
 めであるだとか――を吐く事をしてはならない事は、賞金稼ぎ達の共通認識である。

  髭を男の象徴であるとする文化は多い。強い男が望まれるアメリカ西部も、そうだった。むろん、
 髭がなければ同性愛者や異教徒である、という乱暴な括り方まではされないが、しかし髭があった
 ほうが男らしいと思われる可能性は高い。
  そんなわけで、髭に憧れる青少年は多い。
  賞金稼ぎマッド・ドッグも、その青少年の一人であったのだ。
  が、生憎とマッドはどういうわけだが髭が生えない。一週間――いや、一ヶ月間伸ばしてみても、
 全く生えなかった事を、古参の賞金稼ぎ達は知っている。その時のマッドの嘆きようも。ついでに
 荒れようも。
  当時を振り返る賞金稼ぎ達は、あの時マッドが荒れたから、賞金稼ぎ達の中から犯罪者と紙一重
 の連中が一掃されたのだと語る。犯罪者と紙一重の連中は、基本的におつむもそんなに良くない上
 に、相手を挑発する下品な言葉だけは人一倍良く知っている。だから、髭が生えていないマッドに
 対して、

 「おやぁ?ママのミルクが恋しい坊やが一人混じってるみてぇだなぁ。それとも、男に尻を貸して
  んのかぁ?」

     とかなんとか似たような台詞を皆が皆口にしたわけだ。よりにもよって、髭を伸ばす事に失敗し
 て傷心中のマッドに対して。それはマッドの心を踏み躙る言葉だったわけだが、ならず者連中にと
 っても悲劇の幕開けとなる言葉だった。
  髭が生えない事で傷心中、もとい大荒れだったマッドは、ならず者達の心ない言葉で、完全に沸
 騰してしまったのだ。
  結果、もはや八つ当たり気味の勢いで、マッドは自分に対してそんな口を叩いたならず者共を―
 ―犯罪者まがいだった賞金稼ぎ達諸共――壊滅させた。止める暇はなかったし、例えあったとして
 も誰も止めなかっただろう――皆、自分の命は惜しい。
  そして、一通り八つ当たりを終えた――八つ当たりされたならず者達は、髭はおろか髪まで丸刈
 りされていた――マッドは気が済んだのか、その後、髭を伸ばそうとはしなくなったし、髭につい
 て何かを言う事はなくなった。だから、賞金稼ぎ達はマッドが髭を諦めたのだろうと思っていた。
  とは言っても、不用意な発言は慎むべきだ。そう思った彼らは、できる限りマッドの前では髭の
 話題は避けてきたのである。

  マッドのほうから、髭について口にするまでは。





 「あのなぁ。伸ばしてる最中であっても、手入れってのは必要なんだぜ。分かってんのか。」

  椅子に座っているまだ半人前の若い賞金稼ぎの前で、彼らの王であるマッドが仁王立ちして見下
 ろしている。茶色の髪をした若い賞金稼ぎの顎には、最近ようやくになって生え始めた髭が、茶色
 く茂っている。それを見下ろすマッドの眼には、特に羨望や嫉妬の眼差しはない。むしろ、どこか
 呆れたような口調だ。

 「そんなもさもさな髭見たって、誰も嬉しくねぇだろうが。ちゃんと切れよ。」
 「そんな、やっとここまで生えたのに、勿体ない!」
 「アホか。誰も剃れなんて言ってねぇだろうが。見苦しくねぇように、揃えろって言ってんだ。良
  いか、もぞもぞした髭なんかな、何の役にも立たねぇんだからな。」

  そう言って、マッドは若者の顔に蒸しタオルをもふもふと押し付ける。湯気がほかほかと立つタ
 オルを問答無用で押し付けられた若者は、じたばたしている。しかし、マッドはそんな若者の抵抗
 などなきもののように、平然と話しながら右手で鋏を慣らす。

 「良いか、髭はちゃんと蒸しタオルであっためてから手入れしねぇと駄目なんだぞ。あいつら、意
  外と硬いからな。」

  どこからどう見ても、髭の文字の見当たらない男がそう言っても、説得力に欠ける。言っている
 事は、紛れもなく正しいのだが。そして手際良く髭を狩り取っていく様は、どこぞの床屋並のスキ
 ルレベルなのだが。
  というか、髭が生えていないのに、何故髭の事に詳しくて、髭を整える事が上手いのか。
  その場にいた賞金稼ぎ全員の思いは、王であるマッドには幸か不幸か届いていない。聞き届ける
 事もないまま、マッドはぶつぶつと呟く。

 「大体、伸ばしっぱなしの髭なんか、髭の中に何がいるか分かったもんじゃねぇだろ。ノミとかダ
  ニとかがいたらどうすんだ。それに、その髭のままで頬ずりとかされてみろ。してるほうはとも
  かく、されてるほうは堪ったもんじゃねぇぞ。」

  おそらく本人は独り言のつもりで言っているのだろうが、賞金稼ぎが屯する酒場で独り言を口に
 しても、独り言にはならない。そもそもさっきまで一緒に仲間と飲み合っていたのだから、周りに
 彼らがいる事くらい、承知しているはずである。いや、仮に彼らがいなくとも、髭を剃られている
 若者がいるのだから、マッドの独り言は確実に誰かの耳にばっちりと入ってしまっている。
  だが、マッドはそんな事知っているのか知らないのか、或いはどうでも良いのか、呟きを止めよ
 うとはしない。  

 「髭って、意外と硬いから痛ぇんだよな、頬ずりとかされると。最初はむっちゃふかふかしてそう
  だと思ったのによ。実際触ってみたら硬くてさ。がっかりだぜ。しかも放っておいて伸ばしっぱ
  なしにしてると何か小汚いしな。」

     全然、良いとこねぇよな。
  呟くマッドの言葉は、マッドが髭に憧れて挫折した経緯を知っていれば、ただのやっかみに聞こ
 えたかもしれない。が、滔々と語る様は何ら含むところを持っておらず、まるで何か実体験のよう
 だ。
  しかし、マッドに髭はないし、髭が生えた事もない。
  いや、待て。手入れが面倒だとかそのあたりはともかく、頬ずりは髭のある人間の実体験では有
 り得ない。いや、有り得たとしても、髭に頬ずりされる事自体、普通は、ない。

  何だか恐ろしい事に気付いてしまったような気がして、賞金稼ぎ達は思わず顔を合わせた。が、
 やはり彼らの王は、そんな彼らの心中には気付かない。

 「せめてもっと手触りが良けりゃ良いのに。あんな髭、小汚いだけで何の役にも立たねぇ。だった
  ら、ちゃんと手入れしろってんだ!」

  何だか、急に怒りだした。
  しかも、明らかに相手がいる怒り方だ。
  そしてその相手は、髭があって、髭がある以上男であって、そしてマッドに頬ずりした事がある
 わけだ。

  ―――誰。

  心の中で賞金稼ぎ達は、一様に問い掛けた。
  むろん、マッドからの答えは返って来ない。
  しかし、答えはなくとも、答えは明白であるような気がしたし、その場にいる賞金稼ぎ達全員が
 思い描いた『誰』も、全員同じ解答であるような気もした。





 「だから、朝起きたら一番に顔洗ってその髭をどうにかしろよ、てめぇ!」
 「…………。」

  眼が覚めるなり、賞金首サンダウン・キッドに頬ずりをされて、その髭の硬さと痛さにマッドは
 怒鳴った。手入れらしい手入れをしていない――それどころか風呂も碌に入っていないサンダウン
 の髭は、はっきり言って、小汚い。その上、今は寝癖が付いて、あっち向きこっち向きしている。
  サンダウンの体毛は金である為、髭も当然金である。その所為か、黒や茶色の髭よりも幾分か柔
 らかそうに見えるのが、また性質が悪い。残念ながら、色が違っても髭の硬さは同じである。
  そして無精なサンダウンは、朝起きても顔を洗おうとしない。
  例え、荒野のど真ん中でなく、安宿の中であろうとも。
  それに頬ずりされるマッドは堪ったものではなかった。マッドは綺麗好きなのだ。小汚い髭にな
 ど頬ずりして欲しくない。

  大体、賞金首に頬ずりされる賞金稼ぎの心境が、眼が覚めた夫に朝一番で頬ずりされる妻の心境
 と一致するなど、誰も考えた事のない事実である。

  しかしそれ以上に、賞金首と賞金稼ぎが、同じ部屋のしかも同じベッドで寝ている時点で既に世
 間一般の感覚からかけ離れている事であって誰も思いもよらない事実であるなど、サンダウンを洗
 面所に追いたてるマッドの頭の中からは既に抜け去っているのであった。