そう。
  あれは、遠きに見れば微かに揺れる水の月。
  触れようものなら抜身の刃。
  狙われたなら苛烈な炎。
  その、狂気の名前には、ゆめゆめ気を付けられますよう。




  双極子





  殺される事も、殺される事も出来ない関係について、話をしよう。

  その日、賞金首サンダウン・キッドは、一人の賞金稼ぎからまんまと逃げおおせたところだった。
 執拗に追い縋る指と、悔しそうに歪む視線から逃れ、サンダウンは薄暗い、人が住んでいるのかど
 うかも分からないような、うらぶれた町を歩く。
  此処までは追いかけては来ないだろう。
  いや、こんな町は、似合わないだろう。
  自分が逃げ切ったのだという事に頷きながら、サンダウンは寂れた灯りが、ぽつりぽつりとだけ
 落ちる地面を、淡々と歩く。
  もしかしたら、かつては大勢の人が賑わったかもしれない町は、いまは大多数の人間が去り、古
 びた老人達がひっそりと暮らしている。老人達と同じように枯れた道路は砂と埃に塗れ、どこから
 が荒野でどこからが町なのか、それをはっきりとは示さない。
  遠くから見れば、その小さな灯りは見えるのかもしれないが、見えると言うよりも、風と砂に掻
 き消されてしまうと言ったほうが正しいような気がする。
  いずれにせよ、荒野に紛れるサンダウンにとっては、都合が良い事に変わりはなかった。
  何故ならば、サンダウンは逃げ切ったのだ。
  そう思っているが、けれども実際はまるで逃げ切れてなどいないのだろうと思う。自分を追いか
 ける賞金稼ぎは、いつも喉笛ぎりぎりのところを掠め去っていく。だからこそ、毎回サンダウンに
 逃げられているにも拘わらず、諦めようとしないのだ。
  荒野に紛れるサンダウンを、その埋もれる砂から引きずり出そうと足掻いている。

  だが、とサンダウンは思う。
  サンダウンとて、あの男に首をくれてやるわけにはいかないのだ、と。
  死にたくない、だとか、そんな殊勝な事を考えているわけではない。自分の命など、どうでも良
 いと思うほどに、サンダウンは生きている。
  ただ、あの男にだけは、賞金稼ぎには、命を奪われたくないのだ。賞金稼ぎだけではない。自分
 と同じ賞金首、ならず者、犯罪者、そんな者達には、首を渡したくないと思う。
  それは、きっとサンダウンの本分が、未だに過去から離れ切っていないからだろう。保安官とし
 て生きた自分を、彼らの前で首を差し出すのは、嫌だった。
  確かに賞金稼ぎは、ならず者といった犯罪者連中とは違うだろう。
  しかし、実際のところはそれらと紙一重の存在だ。金の都合次第ではどちらにも靡く彼らは、決
 して正義の元に集ったわけではない。むしろ、あと一歩で犯罪者に転げ落ちるような連中だ。もし
 かしたら、既に犯罪を犯している者もいるのかもしれない。
  それに、賞金稼ぎは保安官のように賞金首を狩る事が出来るが、保安官と違い法に縛られないが
 故に、気に入らない者を勝手に賞金を懸けて撃ち取れるという事も、しようと思えば出来るのだ。
 そして、その振る舞いは犯罪の条件を満たさない限り、真摯に咎める事は出来ない。保安官ならば、
 すぐさま訓告が下される振る舞いをしても、賞金稼ぎは自分が気にしなければ、全くと言っていい
 ほど傷がつかないのだ。
  つまり、彼らは確かに賞金首を捕え、撃ち抜き、そうする事で荒野の保全を保っているように見
 えるが、だが実際は彼ら自身もまた、荒野を騒がせる要因の一つなのだ。
  彼らの根本は、金と刺激。
  間違っても、銀の星の下に集った戦士ではない。
  彼らは決して正義の御旗を振るわないのだ。
  そんな輩に、サンダウンは自分の首を渡す気にはなれなかった。
  例え相手がどんな姿形をしていても。どれほど賞金首を撃ち取り、一般人からは称えられている
 としても。
  あの、狂った火花のように荒野を駆け抜ける犬の姿が、正義の名からは掛け離れた場所にいる事
 は明白であり、サンダウンはその炎に焼かれるような罪を背負った覚えはなかった。
  もしかしたら、その狂った炎の胸に、一筋、銀の星が咲いていたなら、話はまた違ったかもしれ
 ないが。
  しかし、そう思う一方で、サンダウンは賞金稼ぎを殺せずにいる。
  どちらかと言えば賞金稼ぎなる者には嫌悪を抱いているのが、サンダウンだ。保安官であった頃、
 向こう見ずにサンダウンに襲い掛かってきた輩も連中の中には多くいる。そういう事もあって、ど
 う贔屓目に見ても、サンダウンは賞金稼ぎという種族を好意的に見る事は出来なかった。
  そんな連中に命を狙われる事になったのだ。いっその事、殺してしまっても問題はないだろう。
 既に賞金首であるのだし、罪を重ねるのは今更だ。
  しかしそれが出来ずにいるのは、間違いなく、賞金首となって人目を避けて荒野を彷徨うサンダ
 ウンよりも、如何なる間違いがあろうと確かに賞金首を撃ち取って一つ罪を消していく賞金稼ぎの
 ほうが、銀の星の場所に近いからだ。
  理由はどうあれ、賞金稼ぎは間違いなく、罪ある者を撃ち取り、それによって一つの罪を償わせ、
 無数の憎しみを昇華させている。今のサンダウンには、決して出来ない芸当だった。そしてその芸
 当が出来るという事は、世間一般から見ればそれは正義を為したという事になる。
  何もしないサンダウンと、見返りを求めたとしても望まれた事を成し遂げる賞金稼ぎと、どちら
 がより良く見えるのか。
  問いに対する答えは、明白すぎて口に出す気にもなれなかった。
  それでも、例えば賞金稼ぎが一般市民を巻き込んでいたなら。或いはサンダウンがかつて曝され
 たように、保安官に銃の腕だけが目的で襲い掛かるような真似をしていれば、もしくは無辜の犯罪
 者を撃ち取っていたならば。
  サンダウンの歯止めは、失われていたかもしれない。
  男を殺す事を止める謂れは何処にもないと悟って。
  しかしサンダウンがふとした折に見る、賞金稼ぎのサンダウン以外の者を見ている眼差しは、サ
 ンダウンが想像するものとはまるで違っている。
  賞金首相手に、淡々と銃を突き付けている男の姿は、遠くから見ればまるで別の世界にいるかの
 ようだ。明瞭に分かるが、しかしサンダウンと相対している時のような、狂った炎は見受けられな
 い。ゆらゆらと陽炎を立ち昇らせているようにも感じられるが、それはむしろ、水面で震える月に
 近いだろう。
  近いが遠い、別世界。
  しかし、恐らく目の前にいる賞金首には、やはり抜身の刃の如き気配が突き付けられているに違
 いない。
  サンダウンと相対している時も、遠目に見れば、そんなふうに見えているのだろうか。虚ろに見
 える月が、静けさを湛えて佇立しているように。
  そして、そんなふうに見えるから、賞金首は皆、勘違いするに違いない。あれは、物静かな夜に
 浮かぶ月だ、と。けぶる水の向こうで震える、ひっそりとした月白を湛えているのだ、と。ふらり
 ふらりと荒野を渡り歩く月精の一種だ、と。
  けれども、男は月でもなければ白くもないし、精霊でもない。血と肉で形作られた人間だ。間近
 で見ればはっきりと分かる。
  こんなに、おぞましいほどに気高いほどに人間らしい人間はいない。人と触れ合う時の熱と、痛
 みを、これほどまで体現した人間はいない。
  触れようとすれば切り裂くだろう。触れ合えば狂ったような熱が流れ込むだろう。
  それは、正義ではなく、けれども悪でもなく。
  むしろその両方を飲み込んでいる。 
  正義に傾いていたなら、サンダウンは黙って首を差し出しただろう。悪に傾いていたなら、逆に
 撃ち落していただろう。
  だが、その両方ではなく、またその両方であるが故に、サンダウンは指一つ動かす事が出来ない。
 殺す事も殺される事も。 
  未来永劫、サンダウンはその魂に向き合った時、逃げ出す以外の手立てを持てないだろう。
  或いは。
  サンダウンが殺されても良いと思うと同時に、殺したいと思わない限りは。