唇の上なら愛情のキス
Sel'ge Liebe auf den Mund
腕の中にある熱は、世界の全てを凝集したようだ。
ありとあらゆる色の飲み込んだ髪は、闇の中に溶けてしまいそうな黒。
シーツに顔を半分埋めて呆然としている瞳は、同じように濃い黒を宿し、夜空を丸ごと飲み込んだかのようで、そこで瞬く光は
真逆の白を放つ。
普段見せる、くるくると良く変化する表情とは異なる、どこか強張ったような頬。
その頬に指を這わせると、中指が月の潤んだ光を受け止めている眼元に辿りつく。
親指は、薄く形の良い、唇に。
誘われるがまま、指先でふっくらとしたそれをなぞると、黒い瞳が大きく見開かれた。
吐息が触れ合うほどの距離。
それさえも、一気に飛び越えて見せる。
この上なく間近で見た瞳は、視線を振り切るように閉ざされた。
どうしてそんな真似をしたのだと問われれば、マッドが自分を拒否するような仕草をしたからだと言うしかない。
寒く悲しい世界が口を広げて大笑し、サンダウンを自分の住人にしようと飲み込もうとしている。
それを忘れてしまうほどの湧き立つような熱を帯びた世界でしか、あの世界を組み伏せることは不可能だ。
その世界の熱を伴う指は、いつも笑いながらサンダウンに向けられていた。
だから、凍える身体は望むままにその手を取り、抱き寄せた。
苛烈すぎる命を腕に閉じ込めた瞬間、悲しい世界がサンダウンを招き寄せようとする足音が遠ざかった。
何の代償もなく得られた熱に、ああ、と気付かされる。
自分で思っていた以上に、この男を欲しがっていたのだと。
この男が運ぶ、遥か昔に自分の手で捨て去った香りも温もりも、実は心の底から待ち望んでいた。
立て続けに逢うと呆れてしまうが、長く逢えないとどうしたのかと思ってしまう。
他の賞金稼ぎ達と一緒にいる事は仕方ないと思うが、自分の前には一人で現れてほしいと願う。
自分以外にも、そんなふうに熱を振りまいている様は、見たくもない。
けれど眼にしたのは若い青年から口付けを受ける姿。
熱を与えるのはもう嫌だと言ったくせに、お前はまた惜しみなく熱を零すのか。
寒いと訴えれば手に入った熱は、突然、身を捩って逃げた。
「いい加減にしてくれねぇ?」
額に口付け、皮膚の滑らかさを楽しんだ後に告げられた言葉。
「俺は医者じゃねぇんだし。」
寒いと訴えられてもどうする事も出来ないのだと言われ、サンダウンは言い返す言葉がなかった。
説明したところで、こんどは頭のおかしい人間と思われて終わりだ。
あの悲しい世界の事を話して、マッドが信じるとは思えない。
サンダウンとて、自分が経験したのでなければ信じはしないだろう。
神経の末端まで悴むような冷たさが陰を引いている。
ひたひたと波打つそれを消しさるのは医者などでは無理だ。
だが、それをどう説明すれば良いのか。
沈黙して、それでも腕から離れていく熱を引き止めようと言葉を探したが、結局出てきた言葉は『そうか』という何とも素っ気
ないものだった。
そのまま立ち去ってはみたものの、言われた言葉は想像以上の速さで悪寒を呼び込み、サンダウンの胸に巣食う魔王の牙を磨い
ていく。
尖っていく牙に耐えきれず、初めて―――そう、初めてマッドをこの荒野で探した。
零されていく熱を辿って、街中で見つけた姿は、年若い麗しい青年に見染められていた。
青年の金と青の装飾は自分も持っているものだが、サンダウンのそれよりも数十倍人目を惹きつける。
誰からも愛されるような容貌と雰囲気を漂わせる青年は、時に頬を紅潮させ、マッドの立ち振る舞いをうっとりとして見ている。
訛りや荒っぽい所作の多い西部の中で、口調こそ乱暴だがマッドの発音や立ち振る舞いは洗練された部類に入る。
初めて顔を合わせて銃を突き付けられた時、この世にこんなに綺麗な発音で話す人間がいるのかと思ったくらいだ。
そんなマッドが、西部の人間から憧れの眼で見られる事は当然で、また西部に来たばかりの裕福な旅行者に眼を掛けられる事もまた
当然の成り行きではある。
実際、後光のように淡い髪を震わせる青年の姿は、太陽に恋してしまったかのようだ。
そして一度受けた熱を、持ち得る全て――若さ、美貌、金――で自分の物にしようと夢見ている。
その指先が、裕福な者特有の傲慢さと洗練された優美さを以て、マッドの首筋に触れた。
蜜を垂らすように掻き口説く青年は、手にした矢を獲物に突き立てようとする。
けれど、マッドは頷かない。
その姿に安堵すると同時に、当然だと思う。
誰よりも自由な男が、青年の提示する即物的なものの為に、自由を噛み殺して誰かに飼い慣らされたりするはずがない。
マッドにしてみれば、熱を零すのは気紛れであり、それは誰にも惜しみなく与えるものなのだ。
別に、青年に与えた熱が特別なのではない。
―――サンダウンに与える熱も。
思い至り、サンダウンの中に苦いものが横切る。
マッドにとって、サンダウンが特別な位置に押し上げられている事は分かっている。
けれど与えられる熱まで特別だと思い切るには、マッドに対するサンダウンの願望が入り混じりすぎている。
明るい通りに面した宿の前で、青年の口説きを一身に受ける姿は、そこだけ突き抜けるように黒く、それでも服の皺、爪先の光
までもが分かってしまう。
その黒髪に青年の華奢な指が絡む。
そして許しを請うように、頬に口付けた。
その瞬間に、隠していた気配をかなぐり捨てた。
半分以上は無自覚のうち。
そして残りの幾分かの理性が、小狡く立ち回った結果だ。
サンダウンの腕から逃げても、サンダウンの気配に気づけば、マッドは何もかもを忘れてこちらにやってくる。
とうの昔のうちに定められた条件は、いとも容易くマッドを引き寄せた。
青年に与えられた空気を僅かに引き摺る身体を閉じ込め、他人が触れた部分を塗りつぶし、サンダウンの手でその肌を更新する。
世界を背負う背中をうらぶれた路地裏の冷たい壁に押し付けると、その身は猫が首輪を嫌がるように捩れ、サンダウンの腕から
逃げようとする。
「マッド…………。」
額に触れるぎりぎりのところで名を呼ぶが返事はなく、代わりに零れるのは拒絶のような言葉ばかりだ。
その言葉にサンダウンは眉を顰める。
何か彼は勘違いしているのだろうか。
賞金首と賞金稼ぎ。
マッドが吐き捨てるように言ったその言葉は、恐らくマッドが見てきた、その関係の中にある醜い部分を切り取ったものだろう。
更に先程の青年の行動が上乗せされていて、マッドの思考回路が、マッドにとって唾棄すべき方向へと拍車をかけているようだ。
姿形や仕草から、その身には相応しくない醜い視線で見られてきたのだろう。
本人もそれに気付き、いちいち突っかかるような事はしないが、それでも不快ではあったはずだ。
もしかしたら、サンダウンがマッドに触れる理由もそれと同じだと思っているのかもしれない。
そんな事、あるわけがないのに。
違うのだ、と。
そうではないのだ、と。
サンダウンはマッドの身体を閉じ込めてそれを言葉にしようとする。
断じて、他の賞金首や金持ちやその他諸々の連中のように、マッドの洗練された言葉や仕草や、しなやかな身体に惹かれている
のではない。
あらゆる賞金稼ぎが諦めて去っていく中、マッドだけが変わらない。
世間がサンダウンを遠巻きに眺める中、マッドだけが対等の場所にいる。
その、揺るがない態度が。
発音や振る舞いや身体などの、誰でもその気になれば取り繕う事のできるものや、生まれながらに持っているものではなくて、
マッドが自分で培ってきた行動が、サンダウンの琴線に触れるのだ。
決して、その身を組み敷いて楽しんで、屈服させて地に落としたいとは思わない。
西部では珍しい綺麗な発音も、しなやかな動作も、見ていたいとは思うが、それを飾って閉じ込めたいとは思わない。
マッドが再三言うように、女の代わりになど出来るはずもない。
「お前しか、いない。」
世界の破片をちりばめて、サンダウンに突き付ける人間は。
一瞬、大きく見開かれる、夜空色の瞳。
その頬に、他人の跡を消すように、自分の跡を付ける。
額に、手の甲に。
直後に、白と黒が同居する瞳は強く閉ざされた。
その眼を抉じ開けようと身を一層寄せると、眉間に皺が寄るほど更に強く瞼は閉められる。
自分を締めだしてしまった世界に途方に暮れ、サンダウンはただ強請るようにその頬に口付けた。
硬く閉じた眼を見て、その光が見たいと思う。
夜空のように何よりも透明な色が見たい。
腕の中からは逃げ出さないが、閉ざされた瞳は、サンダウンを拒絶する意を何よりも強く示している。
気付いたのかもしれない。
完全には理解せずとも、その天性の感覚でサンダウンの中にある深淵に気付いたのかもしれない。
そこから、本能的に眼を逸らそうとしているのだろう。
鋭く敏い存在ほど、生物の持つ気配に気付きやすい。
獣のように空気の変化に敏感な男が、サンダウンが見せた一抹の絶望を嗅ぎ取らないはずがない。
自衛の為に眼を瞑り、空を掻く腕。
だが、サンダウンは見逃してやるつもりはない。
顔を覆うように翳された腕を捕え、薄く浮いた肩甲骨に手を回す。
今にも羽ばたいて飛び立ちそうな身体を縛り、地面に縫い止める。
はっと、マッドが身じろぎした。
背後から近づく気配。
頼りなさげな空気は、マッドを掻き口説いていた蜜の甘さを伴っている。
都会で洗練された動きは、だが、この場所では恐ろしく不器用に動いている。
マッドを諦めきれずに追いかけてきたらしい青年に、マッドは瞬きを繰り返しどうするべきか考えているようだが、さしあたっ
てサンダウンから身を離す事を決めたらしい。
しかし、サンダウンはそれを許さない。
「っ、放せ!」
素に戻ったマッドが、人が振り返るほどの大きな声で叫ぼうとするのを防ぐため、サンダウンはその口を自分のそれで塞ぐ。
想像した以上に柔らかな感触に、マッドが息を呑むのにも構わず、更に深く口付け、言葉を奪う。
そして、魔王の気配を一層深く突き立てる。
「あ…………。」
不穏な気配に青年が身を翻すのと、マッドが酸欠と魔王の空気に呑まれて膝を折るのは同時だった。
去り行く足音が二度と戻ってこない事を確かめながら、サンダウンは力の抜けたマッドの身体を抱え直す。
大きく息を吐いている唇に、再び口付けた。
マッドを世界から切り取って、腕に閉じ込め、彼を欲しがる手の届かない場所へ連れていく。
本来ならば腕に閉じ込めて満足して終わりなのだが、この夜はそれだけで許してはやれない。
「キッド、てめぇ、止めろっ…………!」
流石と言うべきか、普通なら蹲って動けなくなるであろうサンダウンの気配に、マッドは覚束ない指先ではあるが復帰する。
「は、なせっ!俺は、女の代わりじゃねぇ!」
「女の代わりにした覚えはない。」
「余計、性質がわりぃ!俺は珍獣や見世物じゃねぇんだ!」
「当たり前だ。」
「だったら………!」
「お前しか、いない。」
眼元に指を這わせると、息を呑む音が聞こえた。
見開かれて震える瞳の中で、嘲るほど情けない顔をした自分と眼が合った。
マッドがそれでも逃げないのは、こんな顔をしている所為か。
つくづく、人の良さに付け込んでいると呆れながら、それでもサンダウンは更に付け入ろうと声を吐く。
「マッド、頼む………。」
「…………っ!」
びくりと震える身体は、それでも、もう抵抗しなかった。
マッドの細身の身体をシーツに沈める。
あの青年が泊っているような格式の高い宿ではない。
場末の安宿。
それでも、この男を一瞬だけでも世界から切り離すには十分だ。
「キッド、何を………!」
反射的に身を起こそうとするマッドをサンダウンは押しとどめ、耳朶を噛むように囁く。
「何もしない………。」
「いや、何かしてるだろうが………、っう…………!」
まだ何事か叫ぼうとする口に、自分のそれを押し当て、黙らせる。
口付けたまま、そろそろと圧し掛かる体制だった身体を、マッドの隣に横になるように移動させる。
マッドの背後に窓が見え、そこから大きな月が顔を覗かせていた。
唇を離し、頬に指先を滑らせて咄嗟に閉じていた眼を開くように促す。
のろのろと瞼を開いたマッドは、緩く首を振った。
「わけ、わかんねぇ………。どう考えても、女にする事だろ、これ………。」
困惑した中に、微かに傷ついたような色が見える。
それでも手を振りほどかないマッドに、サンダウンは僅かに不安になってくる。
もしかしたらこの男、哀願すれば、誰にでもこうして身を投げ出すのではないだろうか。
いやさっきの青年の腕は振り解いていたからそれはない、と嫌な考えを打ち払い、マッドと同じように片頬をシーツに押し当て、
苦しげな瞳をしているマッドに浅く口付ける。
月の光を受けて僅かに震えている頬を包み込み、サンダウンは同じ言葉を繰り返す。
「お前しかいない、と言ったはずだ。」
だが、マッドの困惑は一層深くなるばかりだ。
薄く開いて震える下唇に口付け、甘噛みすると力尽きたように瞼が閉ざされる。
それに促されるように、サンダウンは何度も啄ばむように角度を変えて口付ける。
女にするような、このまま情事に雪崩れ込むような甘ったるい口付けではない。
薄い皮膚を確かめるだけの、触れるだけのそれ。
だが、サンダウンはマッドの熱を存分に享受する。
乾いた地面が貪欲に水を吸い取るように、無償で与えられる熱を欲しがる心は際限がない。
その色が欲しい、跡が欲しい、線が欲しい、重みが欲しい、息が欲しい。
地獄に堕ちるサンダウンと共に業火に焼かれてくれるというだけでは、物足りない。
けれど、それ以上に。
彼の色よりも、跡よりも、線よりも、重みよりも、息よりも。
サンダウンがその実、マッドを何よりも信用しているのと同じくらい、未来永劫、マッドが誰よりもサンダウンを買っているの
だという絶対的な信用が欲しい。
共に地獄に堕ちるのも、世界を背負うのも、腕に閉じ込める事ができるのも、全てはその上に成り立っている。
そしてそれが失われる事は、即ちマッドがサンダウンの手から零れ落ちる事であり、それはサンダウンが胸の内の魔王に呑みこ
まれる事を意味する。
医者などでは、この青ざめた魔王を取り除く事などできはしない。
女に溺れても、忍び寄る凍えた熱は打ち破れない。
マッドが細く息を吐いた。
掠れたそれは、サンダウンの唇に降り積もる。
それが消える前に、もう一度口付ける。
夜は、まだ長い。
唇の上なら
愛情
のキス