深淵を映し出す地獄の篝火のように揺らめく蝋燭の炎を挟み込み、オルステッドとストレイボウは
二十年ぶりに見つめ合った。炎の向こう側に見えるストレイボウの眼差しは、剃刀色の鋭い光を湛え
ており、彼が魔法使いとしての牙を未だ尖らせていることを知らしめている。
 もしかしたら、今此処で。
 オルステッドは思う。もしかしたらこのまま二人で魔王山を登り、二十年前に王女アリシアを連れ
去ったという魔王を倒す事ができるのではないか、と。魔王の首級を上げ、城下に凱旋する。それは
オルステッドが幼い頃に夢見ていた、英雄としての己の姿と一致した。
 己の夢が、夢見た他国ではなく、捨て去ったはずの祖国で叶えられるかもしれないというのは、な
んともいえず皮肉であったが。
 ストレイボウが、瞬いた。蝋燭の炎に照らされた顔色は、かつてと同じくらい血色がない。そこに
落とされた睫の影も、何も変わっていないようだった。
 しかし、オルステッドはストレイボウの眼よりも下を見ない。確かに、ストレイボウの眼の強さは
変わらない。オルステッドと共に心身を磨き上げ、ルクレチアという国に窮屈さを感じていた子供の
頃となんら変化しない意志がそこにはあった。
 だが、口元に刷く笑みは、昔とは違う。昔は時に皮肉めいて、時に誇り高く、時に全てを見透かす
ように笑みを刻んでいた。しかし今ストレイボウが浮かべている笑みは、疲れたような、どうしよう
もないほど愛おしいものを見るかのようなものだった。

「オルステッド。」

 信じられないくらい、穏やかな声でストレイボウが口を開いた。口の形は、緩やかな弧を描くばか
りで引き攣ったところは何処にもない。
 オルステッドの知らない顔をした男が、そこにはいた。

「俺はいかない。」

 知らない顔をした男は、きっぱりとオルステッドの誘いを断った。
 オルステッドが信じられないと言わんばかりに目を丸くする様子を、仕方なさそうに見やると、男
は溜め息を吐いた。呆れたような疲れたような、けれどもやはり、愛おしさの溢れた吐息だった。

「そんな顔をするな。まるで、この俺が知らない人間だと言わんばかりの眼じゃないか。単に、お前
の誘いを二十年前と同じように断っただけだろう。」

 その通りだ。二十年前、ストレイボウはルクレチアの外界と繋がる唯一の小道で、オルステッドに
向けて言い放ったのだ。
 俺はいかない、と。
 その時と同じくらい、はっきりとした否定と拒絶の色を孕んで、ストレイボウは二十年後再びオル
ステッドを拒絶した。

「この国の消極的さに毒されたんじゃないかと思われるかもしれんが、まあ、多分似たようなもんだ
ろうな。俺はもう、自ら危地に乗り込むことはできない。守る者ができた。だから、今はまだ眠って
いるであろう魔王を呼び起こすために山に入る事はしない。」

 オルステッドはようやく、ストレイボウの眼差しが自分に向けて強い光を放っているのではない事
に気が付いた。ストレイボウの眼は、オルステッドを通り越して、既に部屋に戻って眠っている自分
の子供の向けられている。
 二十年という月日は深く、残酷だ。もはやオルステッドがストレイボウの眼差しに入り込む余地は
ない。ストレイボウには、オルステッドだけしかいないわけではないのだ。

「いつか魔王が目覚めてこの地を覆うかもしれないのに?この地を蹂躙されるかもしれないのに、放
っておくと言うのか?」
「その時は、俺が奴を屠りに行く。娘の為に。」

 剃刀色の眼が一際鋭く煌めいた。二十年前と同じ、いや、それ以上の鋭さでオルステッドと、いつ
か目覚めるかもしれない魔王を射抜く。

「魔王が王女を攫った二十年前は、俺は妻に匿われて魔王討伐に駆り出される事無く生き延びること
ができたた。おかげで妻は村から白い眼で見られることになったが、それでも彼女は俺に責任を擦り
付けることはせず、それどころか妻として供に歩んでくれた。身体が弱く、共に歩めた道のりは短か
ったが、しかしそれが無駄だったとは思わない。彼女は娘を残していってくれたからな。そうとも、
俺は彼女の手で、守られた。魔王からも、残酷な世間の好奇心からも。」

 だから、と告げた言葉は、オルステッドに言ったものではなかった。遠く、離れていった彼の妻に
向けて放たれている。

「もしも再び魔王が目覚めた時は、今度は俺が娘を守ってみせる。」

 刺し違える覚悟で、奴を屠る。
 オルステッドには到底持つ事のできない光を宿したストレイボウの眼から、オルステッドは顔を背
けた。揺れる影を代わりに見つめながら、呟く。

「私が此処にいる間に、魔王を倒そうとは考えないのか?」
「我々だけで魔王が倒せるとも限らない。それに倒せずに、魔王を目覚めさせるだけの結果となった
場合、どうする?お前は逃げ出せば良いだろうが、俺と娘は?祖国を追われた挙句、悪魔の使いとし
て教会に追われろ、と?おっと、お前、自分が守るだなんてことを言うなよ。傭兵で、根なし草のお
前に教会と張り合えるだけの力がないことはんて、子供でもわかるさ。」

 ストレイボウは、肩を竦めて笑う。消極的な、けれども確かに守るべき者を得た者の笑みだった。
 オルステッドはこの二十年間、傭兵として奪うだけのことに力を注いできた。勿論、伴侶はいない
し、子供もいない。いや、子供は探せば一人くらいはいるかもしれないが、オルステッドにはそれが
誰なのかも分からないだろう。そういう人生を送ってきた。
 何も持たないオルステッドに、ストレイボウの考えは理解できないし、そしてストレイボウはオル
ステッドが己を理解できないであろうことを理解している。

「オルステッド、しばらくこの国にいても良い。だが、近いうちにこの国からは出ていったほうがい
い。もう、お前の考えがこの国にはなじまない。勿論、この俺ともだ。」

 口調は穏やかだが、きっぱとしてこの国にはオルステッドの居場所はないのだと、魔法使いは宣言
した。既に進むべき道は分かたれたのだと。遠い遠い昔に。

「魔王山に登る事も許さない。お前の迂闊な行動で、平穏を打ち破ることは許されない。ああ、笑わ
ば笑え。そんなに消極的で良いのか、と。だが、その平穏を愛おしいと感じている者がいることを、
忘れるな。」

 そしてその平穏を、蹂躙するならば、この俺が相手だ。
 魔法使いの鈍色の髪が、蝋燭の炎を受けて後光のように煌めき、湧き立つ。対峙する傭兵と魔法使
いの間に、張りつめた糸の震えるような視線が交錯する。
 解けた蝋が落ち、その上で、じじっと炎が燃え尽きた。

「………わかった。」

 ふっとオルステッドは吐息のような声を出した。わかっていた、と。この国には既に自分の居場所
がないであろうこと、誰も自分の帰りを歓迎しないであろうことは、わかっていた。わかっていなか
ったとしても、心の何処かで予感はしていた。 
 おそらく、こうして家の中に上げてくれたのはストレイボウの友人としての情だ。他の者だったな
ら、むしろオルステッドのことさえ忘れてしまっていたかもしれない。

「明日の朝、立つよ。」
「そこまで急げ、とは言っていないが。」

 さすがにストレイボウも驚いたような顔をした。だが、オルステッドはそれを笑って制する。

「いや、近々大きな戦がありそうなんだ。今のうちに何処かの部隊に入れてもらわないといけない。
今回戻ってきたのは、偶々近くに寄ったからだ。」
「そうか。」

 到底納得してはいない表情で、けれどもストレイボウはそれ以上の追及はしなかった。ならば、と
オルステッドのコップに酒を注いだ。オルステッドは黙ってそれを受け取った。




 翌日、オルステッドは宣言通りに少ない荷物を抱えてルクレチアに背を向けた。二十年前に、祖国
を見限ったあの小道で。
 朝靄の消えぬ早朝で、ストレイボウも静かに見送りについてきた。
 これを、と友人は小さな褐色の小瓶を手渡した。訝しんでいると、傷薬だという返答がきた。どう
せ怪我なら腐るほどするだろうから、と。
 有り難く懐に抱き、オルステッドは友人にも背を向ける。言うべき事は山ほどあったが、何を言っ
ても、横たわる月日の深さは飛び越えられない。時間とは、かくも残酷であったか。
 友人に背を向けたまま手を翻せば、背後で同じように手を翻す衣擦れの音がした。




 数か月後、取り立て要所でもないはずのルクレチア王国が、ただ領地を広げるためだけの戦に巻き
込まれ、傭兵集団によって瓦解するのは、また別の話。