二十年ぶりに口にしたストレイボウの作ったシチューの味は、オルステッドが思い出せる限りのも
のと何ら変わらなかった。少し塩気の多い味付けは、悪魔を祓う為のものだと聞いたのは、一体いつ
だったか。年末の生誕祭の時に聞いたような気もするし、二人で魔物を倒しに行った時の野営で聞い
た気もする。
 ふらふらと揺れ動く暖炉の灯を眺めながら、そこに投げかけられた影の中に一際小さな影があるの
を見て取って、けれども変わらぬものなどないのだ、と思う。
 二十年という月日は、少し偏屈なところのある友人に、一つの命を授けるには十分な時間であった
ようだ。
 ストレイボウとよく似た鈍色の髪の下で、真剣な表情でシチューを掬う少女を、オルステッドは不
思議な面持ちで見やる。女になど興味がないと言ったふうであったストレイボウが、妻を娶って子供
をもうけたという事実は、オルステッドの中に言い表せない感嘆を生み出していた。
 くっきりと二十年分の移ろいが分からぬ分、オルステッドにはストレイボウの心境の変化が分から
ない。オルステッドがルクレチアから出て行ってから、この地で行われた変化が何物なのか、オルス
テッドには知る由もないのだ。

「君が父親になるなんて。」

 ストレイボウの子供が寝入った後、オルステッドはとうとうその疑問を口にした。言った後で、不
躾な言葉だったな、と思ったがストレイボウの顔色にはそれを気にする態はなかった。ただ、首を竦
めて、

「妻に逢ったからな。」

 既に亡いという彼女について、オルステッドは微塵も想像できなかった。彼女の何がストレイボウ
の琴線に触れたのかも。
 だが、死者について根掘り葉掘り聞くのは躊躇われた。代わりに、今生きている彼の娘について問
う。

「あの子も、君と同じで魔法使いなのかい?」
「さて。素質はあるような気もするが、まだ子供だしな。」
「君はあれくらいの頃から、魔法をかじっていなかったか?」
「それが幸せだというわけでもあるまい。」

 神童とさえ言われた男は、オルステッドの言葉をやんわりと否定した。あの頃の己が幸せに見えた
のか、と。

「魔法の素養がないならないでかまわん。俺も、長い事、薬種を煮詰める以外の魔法は使っていない。
それでも生きていけるし、俺はそれなりに幸せだ。」

 ルクレチアの外に出たい、と羨むようにオルステッドに告げていた頃からは想像もできない穏やか
さでストレイボウは、花の蜜の香りのする酒をコップに注いだ。蜜色の匂いがするそれは、今年の春
に浸けた花から作ったのだという。

「それよりも、お前こそなんだってこの国に戻ってきた。もっと外の世界を見たいと駄々を捏ねて飛
び出した癖に。まさかたかが二十年程度で世界の全てを見て来れるわけがないだろうから、今更郷愁
にでも駆られたか。」

 微かな笑い声の中に、少しだけ自分を責める音が聞こえたような気が、オルステッドにはした。あ
れだけ大騒ぎをして国から出て行っておいて、今更何をしに帰ってきたのか、と。それともそれは、
オルステッドの聞き間違いだろうか。
 国を出て二十年、各地を転々としてきたが、オルステッドはルクレチアでの自分の賛美以上の賛美
を、終ぞ聞く事がなかった。世界ではオルステッドは所詮田舎から出てきた剣士でしかなく、働く為
に剣を振るう傭兵でしかなかった。そして傭兵は決して褒められた職業ではない。金さえ貰えれば、
今まで友としてきた者も平気で裏切る、そういう職業だった。ルクレチアから出てきたばかりの頃は、
そんな事も分からず、とにかく生きるために色んな仕事を引き受けてきた。傭兵が碌でもない連中だ
というのが分かったのは、とある戦場で、これまで一緒に戦ってきた兵士が敵として現れた瞬間だっ
た。その時、オルステッドの中に一つの傷が刻まれたのだ。
 私は、英雄にはなれなかったのだ。
 ルクレチアの中では天才と誉めそやされたが、いざ世界に飛び立つや否や、羽はもがれてしまった。
そうストレイボウに言おうとした矢先に、

「それとも、今更、魔王のことを聞いてやってきたのか?」
「何?」

 なんなく告げられたストレイボウの言葉に、思わず眉根が寄せられた。
 魔王。
 ルクレチアでは昔から聞くお伽噺の一つだ。山に魔王が住み着いていて、王女を攫って行くと。オ
ルステッドとストレイボウが子供だった頃、勇者と賢者が山に登って王女を救い出したのだという英
雄譚を聞かされた。
 実際、件の山は魔物が住み着いているから、おそらくそれに近いことは起こっていたのだろう。そ
れが英雄譚として語り継がれてきたのだと、年を経たオルステッドは認識していた。
 だが、ストレイボウの言い様では、まるで今もまだ魔王がこの地に留まり続けているかのようだ。
そしてストレイボウは、オルステッドの反応に、むしろ驚いているようだった。

「なんだ、お前は本当に知らなかったのか。」
「何が。」
「お前が出ていった後、山から魔王を名乗る魔物が現れて、王女を攫って行ったんだ。」
「なに。」

 初めて聞いた。
 ルクレチアを出ていって間もなく、王女が魔王に攫われただなんて。
 
「当時はすごい騒ぎだった。王女が他国から婿を迎え入れようとしたその夜に、魔王に攫われたんだ
からな。国王は御触れを出して、王女を救うことができる者を集ったが、誰も集まらなかった。当然
だ。俺達は戦うことなんか知らない。」

 オルステッドが居れば、という言葉を何度も聞いた、とストレイボウは皮肉げに笑う。
 魔王に襲われた婿殿はすっかり肝を潰し、婚姻を破棄して自分の国に逃げ帰った。その男から噂が
広まったのか、何人かの僧侶が魔を封じようと山に登っていったが、誰一人として帰ってこなかった。
 それらは全て、二十年前、オルステッドがルクレチアから出ていった時に起きた出来事。
 生まれて初めての他国で喘ぐオルステッドには、祖国の危機など耳には入ってこなかった。自分が
今生きていくことに精いっぱいだった。ルクレチアが小国とはいえ、ルクレチアの王女が攫われた事
は少なからずとも耳にしたはずだ。しかし記憶がないということは、オルステッドの中でルクレチア
よりも自分が大切な状況であったということだ。
 ああ、私は、生まれながらの傭兵だ。祖国のことを忘れてしまうだなんて。

「王女はどうなったんだ?」
「さあ?今も行方不明だ。ルクレチアの跡取りは王女一人だけだったから、王はすぐに新しい妻を迎
え入れて、世継ぎを作った。」
「随分とあっさりした話だ。自分の娘が攫われたのに。」
「王族の考えることは俺には分からん。だが、世継ぎのことを考えれば、生きているかどうかも分か
らない、生きていても王女としての聖性に欠けているかもしれない娘のことなど、長々考えても無駄
だと思ったんだろうよ。」

 魔王に食われたか、凌辱されたか。例えそのどちらでもなかったとしても、噂には背びれ尾ひれが
付き纏う。
 俺には理解出来ん考えだがな、とストレイボウの顔をした父親は、皮肉げに呟いている。
  
「魔王はそれ以降姿を現していない。人間の頭というのは単純なもんだ。眼に見えていなければ、徐
々にいないと同じになってくるらしい。新しい世継ぎも生まれた。みんな、もう魔王のことを忘れ始
めている。忘れていないのは、危うく魔王討伐なんてものに行かされそうになった俺だけだ。」

 魔法使いであるストレイボウを、魔王のもとに向かわせようという動きが一時あったらしい。どう
せ神の家からははみ出した厄介者だから、と。ストレイボウは魔法使いの顔を抑え、敬虔な信者の顔
をしていても、人間とは自分以外の誰かを平気で生贄とするようだ。
 ストレイボウの場合は、魔法使いであると同時に、オルステッドと共に小物の魔物を倒してきたと
いう所為もあるだろうが。

「でも君は、行かなかった。」
「ああ、俺の作った薬を有り難く思っている娘がいてな。そいつが匿ってくれた。」

 それが妻だ。
 退屈で消極的なルクレチアの中に、こんな娘がいたのかと、その時思った。
 ストレイボウの声は静かだった。

「それから娘ができて、妻は死んで。俺は前にも増して、魔王とやらに怯えるようになった。魔王は
王家の血に拘っているようだから、きっと娘には手を出さないだろうと思うが、矛先がいつ変わると
もしれん。それに魔王が再び現れた時、以前の妻のように俺を匿う者が村にいるだろうか。あの時、
ルクレチアという国の中で妻がいたということは、俺にとっては千載一遇の僥倖だった。妻のような
人間が、たびたびルクレチアに現れるとは思えん。」

 ストレイボウの中では、まだ魔王はいなくなってはいない。
 じり、と燻る火種のように、息を潜めている。
 皺一つなかったストレイボウの几帳面な顔には、今は幾つもの皺が走り、かつてはなかった静けさ
が影のように横たわっている。

  「魔王は生きているのか?」
「まだ、誰も倒していない。この国には勇者はいなかった。」
「では、まだ、生きている?」
「分からない。誰も確かめられなかった。」

 では、とオルステッドは友の顔を見つめた。

「確かめに行くかい?」

 卓に降ろされた蝋燭の炎が、ふるりと翻った。