眼の前に広がるのは鬱蒼とした森だ。遠くからけたたましい鳥の鳴き声が、訪れる者を脅しつける
ように、幾つも幾つも折り重なって聞こえる。不気味に反響する鳥の囀りの下には、ひょろりと一本、
碌に整備もされていない小道が伸びている。
 他には道らしい道はなく、馬車が辛うじて通れるほどの幅しかない道は、木漏れ日さえ不気味に見
える森の中では酷く頼りない。むしろこの道こそが黄泉への下り坂ではないかとさえ感じられるほど
であった。
 だが、それを目前にした男は、懐かしそうな微苦笑を浮かべて、一つの気負いも見せずに細い道に
足を踏み出した。
 ざりざりと、小石の出っ張る道を踏み締める脚は固く重そうなブーツで追われており、胴は分厚い
革を何重にも巻きつけた鎧で覆い隠している。そして腰には大人の腕程の長さもある剣。ただし、ど
れもこれもあちこちに傷があったり欠けたりしており、何度も修繕して使い古した態が窺えた。
 どう御世辞に見ても騎士ではない。 
 だとすれば傭兵である。
 しかし、傭兵がこの道を歩く事など、この道ができてから終ぞ起きた事がない。
 何せ、低い山々に囲まれた鬱蒼とした森の中を通るこの道は、森の中にひっそりと佇むルクレチア
王国に繋がるのだ。ルクレチア王国は、知る者よりも知らない者のほうが多いと揶揄されるほど小さ
な国である。
 小さくともそれなりに重要な拠点であったりすれば誰もが頷くのであろうが、ルクレチアに限って
言えば何一つとして特筆すべきことがない。鬱蒼とした森はどれだけ削り取っても農作物が十分に獲
れるほど肥沃な地ではなく、内陸であるが故に魚なども望めない。放牧をしようにもそもそも良い牛
や馬、羊がいるわけでもない。では交通の要所として役割を持っているかと言えば、あまりにも辺鄙
な所にある故に、誰も立ち寄らぬというのが現状である。
 こうした何一つとして要点がないというところが、ルクレチア王国を国として独立させているとい
うところもある。もしも何か飛び抜けたところがあったなら、小指の爪ほどしかない国など忽ちに強
国に攻め込まれ、支配されてしまっていただろう。
 何もないからこそ、独立と平穏を得られている。
 消極的な立ち位置だが、ルクレチア国民は消極的な考え方が身に染みついてしまっているので、文
句を言うはずもない。
 ただし、将来というものに夢しか抱いていない若者にとってはルクレチアという国は退屈極まりな
いものだった。
 だから、二十年前、オルステッドはルクレチアから旅立った。
 そして今、再びこの地を踏み締めている。

 


 Long Long Time Ago






 ストレイボウは、町外れにある自分の家の前に佇んでいる男を見て、ぎょっとした。
 森に薬草を取りに行った帰りに、自分の家の前までやって来て、背の高い影が玄関先を覆い隠して
いることに気が付いたのだ。しっかりと鍵はかけてきたから、中に入る事はできないであろうが、し
かし男が佇んでいるという事実は決して気持ちが良いものではない。
 魔法使いであるストレイボウの家を訪れる者は、ほとんどが病持ちの者であってそれ以外の真っ当
な人間は教会に配慮して近づこうともしない。
 だが、この夕暮れ時にぬっと佇んでいる男は、背後から窺い見たところ、どう見ても病持ちとは思
えなかった。それにこの村では滅多に見かけぬ分厚い革の鎧を身に着けている。なめし皮の鎧ならば
一応、平穏なこの村にもあるが、ここまでごつい鎧はお目にかかった事がない。
 つまり、この男は村の外からやって来たのだ。そして鎧を着ているところを見る限り、行商人など
という実用的な存在ではない。行商人に護衛として金で雇われた傭兵という選択肢も視野には入れて
みたが、行商人がやって来たという話は聞いていない。
 傭兵が、魔法使いの家に何の用なのか。
 想像したところであまり愉快な結論には至らなかった。どこぞの誰かを呪ってくれだとか、小国の
村に埋没しているストレイボウには到底できぬ、無理難題を吹っ掛けられるかもしれない。
 ストレイボウはこっそりと杖を握り直し、逆光で肩から上の輪郭が分からぬ男に、意を決して話か
けた。

「申し訳ありませんが、私の家に何かご用でしょうか。」

 出来る限り丁寧に、しかし普段よりもずっと低い声で話しかけた。
 すると、弾かれたように傭兵は振り返る。想像していた以上に勢いよく、子供っぽいとさえ思える
仕草に、ストレイボウは面食らった。そして傭兵が振り返りざまに、その髪を西日でちかちかと煌め
かせたのに思わず眼を細める。
 顔を顰めたストレイボウに、傭兵は渋みの混ざった、けれどもやはり妙に子供じみた声音を投げか
けた。

「ストレイボウ?」

 声を聞いて、再びストレイボウは面食らった。渋みが混ざっており久しく聞いていない声とはいえ、
一時期嫌になるくらい聞いた声だったからだ。
 そう認識した瞬間に、西日で分からなかった顔が、ベールでも脱ぎ去ったかのようにはっきりと見
て取れた。 
 鬱金色の髪と、その下にある青い眼。顔には見慣れぬ皺と傷が幾つも刻まれている。しかしそれで
も間違えようがない面影が残っている。

「オルステッドか?」

 問いかけに問いかけで返せば、逆光の中で笑う表情が見えた。
 
 

 


 オルステッドがルクレチアから出ていったのは二十年前。
 オルステッドもストレイボウも、成人して間もない、今にして思えばまだまだ幼い時分の頃であっ
た。
 当時、オルステッドは剣の腕は天才と誉めそやされており、ストレイボウも魔法使いとして頼られ
ていた。だが、それは所詮ルクレチア国内のことである。ルクレチアは小さく、争いもなく、平穏な
日々が繰り返されていた。
 重要でないが故の平穏。人々はそれを甘んじていたが、才気溢れる二人の若者にとってはただの退
屈でしかなかった。剣と魔法を極めても、ルクレチアにいては宝の持ち腐れでしかない。かつてルク
レチアにも魔王というものがいたらしいが、二人の時代には生憎と魔王は存在しかなかった。せいぜ
い、人に悪さをする小物の魔物がいた程度である。
 農作物をちょろまかしていく魔物を二人が倒すたびに、村人達は二人がいればこの村は安泰だと笑
った。その笑みに、何がどう安泰なのか、と二人は思っていた。小競り合いもほとんど起こらぬこの
国は、安泰の意味さえ失ってしまったのではないだろうか、と。
 この国にいたら、何もできない。
 そう結論付けたのはいつだったか。
 かなり早い時期から、二人はそれを認識していたような気がする。だが、ルクレチアを飛び出した
のはオルステッドだけで、ストレイボウは出ていかなかった。
 ストレイボウは分かっていたのだ。魔法使いは余程の力を持っていなくては、教会に握り潰される
だけだと。ルクレチアから出て行っても、庇護を持たぬストレイボウは教会に捕えられて終わりだろ
う。
 それに。
 もう一度言う。ルクレチアは小国だ。ルクレチア国内で誉めそやされていても、外の世界でも誉め
そやされるかどうかなんて、分からない。
 ストレイボウは二十年前、出ていくオルステッドにそう告げて、背中を見送った。

「ああ、本当に君の言う通りだったよ。」

 オルステッドは二十年前の紅顔の消えた、代わりにくたびれた中年の顔をして笑った。
 ストレイボウの家の中に入った彼は、暖炉の前にある椅子にちょこんと座っている少女を見て、眼
を丸くした。

「ストレイボウ、君、結婚したのかい?」
「お前、自分の年齢を忘れたのか。普通なら結婚してもおかしくない年齢だろうに。」

 魔法使いであるストレイボウにとっては、添い遂げてくれる誰かがいるということ自体が、まず難
しい事なのだが。しかしルクレチアには幸いにして、珍しい誰かがいたのだ。
 ストレイボウに良く似た鈍色の髪を持つ少女を見つめながら、オルステッドは丸くした眼を戻さず
に問う。

「奥さんは?」
「死んだ。もともと身体が弱かったからな。」

 身体が弱かったという縁で知り合ったようなものだ。妻はストレイボウの薬を受け取りにくる病人
の一人だった。
 ストレイボウは娘に、夕飯ができるまで部屋に行っていなさいと命じると、ちらりとオルステッド
を見た。

「お前も邪魔になるから部屋の隅で縮まっていろ。」
「ああ、その言い方変わらないなあ。」
「お前の間抜け面もな。」

 どうせ不器用なのが治ったわけじゃないだろうと、素っ気なく言い置いて、ストレイボウは鍋のあ
るほうに向きなおった。