浅い眠りの中で、ひしひしと近付いてくるそれに気が付いて、サンダウンは薄っすらと瞼を開い
 た。
  ルクレチアという富を示す名を付けられたこの国は、その名に反してその土地全てに薄暗い暈が
 掛かっており、異形の者達が人間の代わりに跋扈している。もしや此処に暮らしていた人間が、何
 らかの力によって歪められ異形と成り果てたのかもしれないと思いもしたが、だからといってどう
 にかなるわけでもない。サンダウンも含め、この国に呼び寄せられた人間は七人いるが、そのいず
 れもが、確かに常人と比べると優れたところがあるのかもしれないが、異形から人間を取り出すな
 んていう事が出来るわけがない。
  だから、例え襲い掛かる異形が人間であったとしても、誰にもそれを助ける事は出来ず、結局は
 捻じり伏せるしかないのだ。
  そういった異形の一端が、闇に乗じて近付いてきたのかと思ったのだ。
  だが、薄っすらと開いた眼に映し出されたのは、不気味に蠢く形ではなかった。ただ、そこから
 漂う気配は、異形さえも凌ぐおぞましさに溢れている。もしかしたら押さえているつもりなのかも
 しれないが、人間の最も醜い部分を掻き集めたような気配は、押し殺そうと思っても押さえられる
 ものではない。
  けれども、襲いかかる気配のない、若い青年の姿をしたその物体を、サンダウンは眼を見開いて
 見据えた。




  Undercrass Hero





 「何をしに来た。」

  地面から半身だけを湧き上がらせたような青年の姿に、サンダウンは夜の闇を撃ち破らぬような
 低い声で問うた。
  この青年の事は、多少は知っている。
  亡者達の怨嗟から、引き千切れた家々の中に残っていた古い肖像画から、そして自分達をこの世
 界に呼び寄せたその声こそ、この青年のものだ。
  勇者と魔王という相反するものを同時に演じている青年。
  オルステッド。
  オディオ。
  その二つの名前が、亡者の中から響き渡っている。
  勇者から魔王に転落したというこの青年の中に、サンダウンがかつての自分の姿を重ねなかった
 と言えば嘘になる。かつて英雄と呼ばれたものの、結果として血を呼び込んで賞金首として逃げ回
 らねばならない自分と、勇者と呼ばれたにも拘わらず一つの裏切りで魔王と呼ばれるようになった
 青年。確かに、似ていると言えば、似ているのだ。 
  けれども、そこにある絶望の色まで似ているのかと言われれば、サンダウンは頷く事は出来ない。
  何せ、サンダウンは自分を追い出した町の人間を、根絶やしにしたりしなかったのだ。その為、
 サンダウンの世界はまだ続いている。しかしルクレチアを壊滅させた青年には、それ故に続きはな
 いのだ。
  しかし、この青年もサンダウンに同じ色を感じているのか、こうしてサンダウンの前にはじっと
 りとした影を現わす事がある。そして、ねっとりと自分のいる場所が如何に甘美であるかを囁くの
 だ。
  魔王となった自分の存在が、甘美であるなどと、微塵も信じていない癖に、だ。
  それをサンダウンに見抜かれて以降、最近は薄らいだ影でさえ見せなかったのだが、再び黒い影
 を落とし始めたのは、何が意味があっての事か。
  魔王の鬱金色の髪を見つめながら、サンダウンは魔王の意志を図ろうとする。
  そんなサンダウンの眼差しに、相変わらず酷薄な笑みを浮かべた魔王は、吐く息が白くなるよう
 な声で囁いた。

 「あの男に、逢ったたぞ。」

  反響するような、けれども何処にも響いていない声は、獣一匹――正確には異形一匹呼び起こさ
 ない。或いは、異形でさえ忌避するべき存在なのか。
  そんな、考えても栓ない事よりも、サンダウンは魔王の口にした言葉に眉根を顰めた。サンダウ
 ンの様子を窺うようにして、魔王は更に具体的に呟く。

 「あの、黒い、男に、逢ったと言っているんだ。」

  わざとだろう。丁寧に区切りを付けて、ねっとりと告げる魔王の台詞に、サンダウンは思わず腰
 を浮かべそうになった。
  黒という色が一番形容として相応しい男など、一人しかいない。サンダウンが知っている人間で
 ならば、尚更だ。
  サンダウンが、口にこそ出しては言えないが、乾いた不毛の大地で最も大切に思っている魂。奪
 いたくないし、奪われたくもないという相反する感情を生み出させた唯一の人間。そして、サンダ
 ウンの心臓を撃ち抜ける最後の一人。
  この世界に呼び出されてから何日経ったとも分からないが、その間、思い出さない日などなかっ
 た。今、何処でどうしているのか、考えるだけでも置き去りにしている感情が這い上がってくる。
  そんな彼に、この魔王は逢ったと言う。
  どんな方法を使って、などとは考える必要もない。また、知ろうとも思わない。肝心なのは、あ
 の峻烈な魂に、このおぞましい魔王が触れたのではないかという事だけだ。
  サンダウンの睨みを受けて、魔王は口元の笑みを深くした。途端に、その顔が一層醜悪なものに
 変貌する。人の不幸を喜ぶ人間の顔だ。

 「逢ったとも、逢って、その魂を握り潰してやった。」

  この手で。
  そう言って、真っ黒な手を魔王は見せつける。
  聞いた瞬間、サンダウンは自分の胸がら黒い煙が湧き上がるのではないかと思った。咄嗟に、地
 面から上半身だけを出している魔王の眉間を撃ち抜いてやろうかとも思った。むろん、そこにある
 のは魔王の影なので、撃ち抜いたとしても陽炎のように消えるだけだろうが。
  だが、その薄汚れた手で、あの魂に触れたのか。異形を殺しても罪と思わない、にも拘わらず自
 分が貶められた時だけ悲鳴を上げる、偽善じみたその手で。

 「そう。握り潰してやった。」
 「……出来んだろう、お前には。」

  怒りで沸騰しそうな頭を抑え込んで、サンダウンは殊更素っ気なく、愉悦に満ちた魔王の言葉を
 切り落とす。

 「お前には、あれに触れる事は出来ても、握り潰すなんて事は出来まい。」

  そんな、炎の石を素手で触るような事、出来るはずがない。
  その証拠に。

 「お前のその黒い手は、焦げ跡か。」

  今にも哄笑し出しそうだった魔王の顔が、引き攣れた。口元に刻まれた笑みも、歪な形で固まっ
 ている。
  まさか、サンダウンに気付かれるとは思っていなかったのか。だとしたら、見縊りすぎだ。サン
 ダウンの事も。あの、乾いた大地に包み込まれている賞金稼ぎの事も。

 「あれが、お前如きに握り潰されるとは思えん。」
 「ふん。大した信頼だな。だが、あの男の魂は、お前への不信と、嫉妬と、劣等感で張り裂けそう
  だったぞ。」
 「生憎だが、私はそんなマッドを知らない。」

  もしかしたら、マッドが見せていないだけかもしれないが。
  マッドが、そんな姿はサンダウンにだけは見せたくないと思い、見せてないだけかもしれないが。
 しかしマッドがそうと決めたのなら、マッドは墓場までその感情を持っていくだろう。サンダウン
 が言及したところで、恐らく口になど決してしない。マッドは己の矜持に忠実だ。不信や嫉妬や劣
 等感で、張り裂ける事などないだろう。そしてその感情に流される事も。
  マッドは、思った事はすぐに口に出す。
  それをしないという事は、永久に口にすべきではない事柄だからだ。
  サンダウンは、マッドが実は永久凍土のように冷静な人間である事を、誰よりもよく知っている。
 その自負がある。

 「その大層な自信がいつまで持つかな。人間の感情など所詮は風見鶏。いつ裏返るとも分からんぞ。」
 「お前が、あれに触れられないうちは、裏返っていないという事だろう。」

  炭化した魔王の掌を見据えて、サンダウンはきっぱりと告げる。
  マッドは瞬く稲妻だ。荒れ狂う気炎だ。誰よりも人生を謳歌し、その命を削って壮烈に生きてい
 くだろう。
  サンダウンと、この魔王は、似ているかもしれない。だが、その中にマッドの命を当て嵌めよう
 というのは、間違いも甚だしい。マッドは、このルクレチアの誰にも似ていないだろう。少なくと
 も、サンダウンが見てきた亡霊の中で、マッドに似ているものはいなかった。
  マッドの魂は、この世界では支えきれないほどに強靭なのだ。
  ルクレチアの人間の誰かのようには、振舞えない。

 「だから、お前はあれを呼び寄せられなかったんだろう。呼び寄せたら、この世界が失われてしま
  うから。」

  この世界そのものが消えるのか、はたまた魔王がいる事の出来ない世界に作りかえられるのかは
 分からない。だが、魔王はマッドに手出しできない。その、魂の激しさ故に。きっと、マッドは自
 分が魔王を斃した事にさえ気付かない。
  あれは、気付かれざる勇者だ。

 「あれは、お前や私や、此処にいる誰のようにもならない。」

     化け物にも、魔王にも、亡者にさえならないだろう。マッドは人間として生きて、死んだら塵一
 つ残さずに消えていく。そんな蟠り、一つも残さないだろう。
  ぐるるる、と、魔王の影から唸り声のようなものが聞こえた。動揺しているのか。それとも。サ
 ンダウンは黒い魔王の手を見る。弱っているのか。マッドに触れた事で、少なからずとも。
  今まで、魔王はサンダウン達を足踏みさせてきた。策を弄し、異形達を向かわせて、呼び出した
 人間達を遠回りさせてきた。それは、魔王の力がこの世界では圧倒的なものだったからだ。
  しかし、それが今、弱まっている。
  マッドという、魔王には到底なれない、魔王が一度も触れた事のない人間の魂が、楔のように皮
 膚を焦がして刻みついて、それによって魔王は弱っている。
  湯気のように立ち消えていく魔王の影が、それを物語っていた。
  今なら。
  今なら、あの魔王を撃ち落とせるだろう。
  そうしたら、サンダウンは乾いた不毛の、けれども壮絶な命を孕んだあの地に帰れるのだ。
  腰に帯びたピースメーカーが、それに応えるように、歪な月の光を受け止めて、ちかりと瞬いた。