今なら、どんな魂だって、握り潰せるだろう。
  くすんだ世界の中心となる山の頂にて、魔王はそう思い、口の端に笑みを浮かべた。
  時空さえ歪めて超えていける。それはこの内々に蟠った感情が、古今東西永久に存在し続け、繰
 り返されるものだからだろう。人間の中の最も根本とも言える感情を媒体として、オディオである
 青年は、如何なる世界にも干渉する事が出来る。
  そして、干渉する事で呼び寄せた七人の英雄――もとい、自分に最も近い、同じくオディオとな
 る可能性のある魔王候補達を遠くに見ながら、青年はその中でも特に自分に近く、且つ自分に近し
 かった者に近い存在を知る男の思考を遡っていた。思考を辿る事で、更に深く、異なる世界への干
 渉が可能だ。つまり、憎しみに支配されていない魂にだって、手を加える事が出来る。
  あの裏切り者に近い魂を、握り潰す事だって出来る。




 Subject To Change





  乾いた砂色と青色に包まれた魂は、小鳥の心臓のように震えていた。どうやら、魂の持主は眠っ
 ているようだ。だから、こんなにもいとも簡単にオルステッドが触れる事が出来たのだろう。ただ、
 眠っていても誰かに触れられた事に不安を感じているから、こんなふうに震えているのだろう。
  触れた手からは、魂が思っている事が直に伝わってくる。
  今日逢った出来事についての感情の漣がほとんどだが、その中に小さく恨み事のようなものが混
 じっている。恨み事の矛先は、オルステッドがこの世界から呼び寄せた英雄に向けられたもので、
 その感情の切れ端を見つけた事で、オルステッドはほくそ笑んだ。
  この魂の持主は、信じられないくらい、オルステッドが友人と信じていた者に似ているのだ。姿
 形が、ではない。性格も、英雄として呼び寄せた男の思考を辿ってみると、それほど似ていないよ
 うに思う。
  ただ、立ち位置がとても良く似ているのだ。
  オルステッドに一度として勝てなかった友人。オルステッドが背中を預ける事に一切の躊躇いも
 抱かなかった相手。すぐ傍にいて、オルステッドの足りない所をずっと補ってくれていた。
  この魂の持主と、あの男も、同じような関係だろう。
  この魂の持主も、友人と同じで、一度もあの男に勝つ事が出来ずにいる。それならば、まるで発
 狂するかのようにオルステッドを詰り、オルステッドを打ちのめし、騙し、裏切っていった彼のよ
 うに、いつ、それを芽吹かせるとも限らない。
  彼のように、心の奥深くにいつ憎悪に転じるか分からない嫉妬と劣等感を抱きかかえているとも
 知れないのだ。
  それを、今此処で、摘みとってやってはどうか。
  無防備に震える魂を手の中で転がしながら、オルステッドは笑う。
  魔王オディオが、憎しみの名を冠する自分が、憎しみの芽を摘み取ってやるだなんて滑稽だ。し
 かし、憎しみによって全てを失ったオルステッドだからこそ、実は憎しみというものに対して、最
 も深い憎悪と嫌悪を抱いている。それを滅する為の行動を起こすのに、オルステッドほど理由を持
 った存在はいないだろう。
  だが、転瞬、オルステッドは唇に酷薄な笑みを浮かべる。
  いいや、そんな綺麗事だけの為に、わざわざこんな乾いた世界に来たわけではない。オルステッ
 ドは、どれほど何をしても憎しみが消えたりしない事を知っている。だからこそ、憎しみを媒体と
 するオルステッドが、こうしてあらゆる世界に干渉できるのではないか。憎しみのない世界など、
 有りはしない。
  憎しみが終わる事は、誰よりも深く願っている。
  だが、そんな世界はどれだけ遠い未来になっても訪れないのだ。
  それならば、いっその事、憎しみに支配されている世界が憎しみによって滅んでしまえば良いの
 だ。一度、綺麗さっぱり何もかもがなくなってしまえば、憎しみというものが如何に忌むべき力を
 持っているのか分かるだろう。
  その為には、ルクレチアを壊滅させたオルステッドほどの憎しみを持つオディオが、もっと大勢
 いなければ。
  それを発芽させる方法が、憎しみの引き金を引く事だ。オルステッドの引き金が裏切りであった
 ように。ならばオルステッドに一番近い立場にいるあの男にとっての引き金は、やはりあの男の一
 番近くにいるこの魂だろう。
  この魂が、いつか、あの男を裏切るように干渉すれば。
  いや、そんな事よりも、きっとこの魂を握り潰してしまうだけで、あの男の精神の安定は崩れ去
 るだろう。この魂の持ち主が、あの男の事を諦めていると、それを伝えただけでも十分に、あの男
 は魔王と転じる。
  そうだとも。
  オルステッドだけが、親友に、信じていた者に裏切られて、魔王となるなんて有り得ない。オル
 ステッドと同じような道を辿るあの英雄も、同じく魔王となって世界を握り潰してしまえば良い。
  震えている魂を乗せている手に、もう一方の手を被せる。
  このまま押し潰せば、いとも簡単に潰す事が出来るだろう。潰れる瞬間に、柘榴が赤い液を飛ば
 すように、この魂の持つ感情が飛び散るだろう。そこにあるのは、嫉妬か、劣等感か、嫌悪か、憎
 しみか。
  だが、例えそれ以外の感情が飛び散っても、オルステッドは薄く笑うだけだろう。今のオルステ
 ッドには、人の感情など大層なものではなく、それが己の想像と異なっていたからといって衝撃な
 ど受けはしない。そもそも感情などいつ変化してもおかしくないのだ。自分を裏切った者達の感情
 の変化を考えれば、感情ほど当てにならないものはない。
  だから、親友と同じ位置にいるこの魂を潰す事に躊躇いなどなかった。
  土色の手に力を込め、震えている小鳥の心臓を押し潰す。その背後に、鈍色の髪の翻りを見つめ
 ながら――。

 「………気持ち悪ぃ手で、俺に触るんじゃねぇ。」

  獣の唸り声のような低い声がするのと、震えるだけだった魂が峻烈な光と熱を宿すのは同時だっ
 た。反撃など想定していなかったオルステッドは、唐突に光と熱を膨らませた魂を思わず取り落と
 した。
  両の手を焼かれたオルステッドは、くっきりと黒い焦げ目の付いた自分の手と、先程までの様相
 とは打って変わってまるで燃え盛る炎のような色を見せた魂を見比べた。
  持ち主が夢から覚めたのか。いや、夢の中でオルステッドを認識したのか。この世界には有り得
 ざる存在として、違和感を感じたのか。
  一端意識を取り戻した魂は、小さな光ではなく、自分が最も自分であると認識できる姿――即ち
 持ち主の身体へと変貌する。黒い髪と、黒い眼を持った青年の姿に。
  ぎろりと黒い眼でオルステッドを見据える姿に、オルステッドはもっと早く握り潰してしまえば
 良かったと後悔する。こうなってしまえば、握り潰すのは難しいだろう。いっその事、この世界ご
 と破壊できれば良いのだが、媒体となるべきオディオをルクレチアに呼び込んでいる今ではそれは
 難しい。

 「なんなんだ、さっきから俺にべたべたと触りやがって気持ち悪ぃ奴だな。」

  軽薄な声だが、眼が鋭い。
  そう簡単に、叩き潰せる相手でもない事にオルステッドはすぐに気付いた。けれども、少しでも
 この魂に傷を付ける事が出来たなら、事は進めやすくなるだろう。
  この男を陥落させれば、絶望は止まらない。
  唇を湿らせながら、オルステッドは酷薄な笑みを浮かべて、青年を見据えた。

 「……何、お前に一言、言っておいてやろうと思ってな。お前が捜している男は、私の元にいると。」

  オルステッドの手元にいる英雄の引き金がこの青年であるように、この青年の引き金もまたあの
 英雄だ。消えたあの男の事をこの青年が思い、消えた事に何らかの恨み事を呟いているというのな
 ら、オルステッドの手元にいる事はこの青年にとっては屈辱ではないだろうか。自分の元ではなく、
 オルステッドの元にいるという事は。
  しかし、青年は特に表情を変えなかった。

 「そうか。」

  発した言葉もそれだけだった。
  そして、オルステッドに対して、オルステッド以上に冷酷な笑みを向ける。

 「なんだ?俺が、あいつがてめぇの所にいると知って、ショックでも受けるとでも思ったのか?残
  念だったな。俺はあいつがどっかのアホに殺られたんじゃないって事が分かって、ほっとしてる
  ぜ。あいつを撃ち取るのはこの俺だからな。」

  生きてりゃ、そのうち戻ってくるだろ。
  呑気に、しかし異常なほどの自信を持って、青年はそう告げた。

 「戻ってくる、だと?」
 「ああ、戻ってくるさ。今まで高飛びも自殺もしてこなかったんだ。今更、てめぇの所に逃げ込ん
  だままって事はねぇだろうよ。」
 「は!私があの男を消滅させても、そんな事が言えるか?」
 「その手で?」

  青年は嘲るように、黒く焼け焦げたオルステッドの手を見た。先程、青年の魂に触れていた時に
 出来た火傷だ。それはくっきりとオルステッドの手に刻み込まれてしまい、癒える気配はない。

 「その手じゃ無理だろ。大体、俺を殺せねぇようじゃ、あいつには勝てねぇぜ?」

  あいつは俺よりも強いんだから。
  歌うように告げた青年に、その言葉を捕えてオルステッドは同じように冷酷な笑みを浮かべなが
 ら、見つけた傷口を広げようとする。

 「そうだな。あの男はお前よりも強い。あの男が戻ってきたら、お前はまた負け犬として過ごす事
  になる。」
 「そうならねぇように、撃ち取るまで地の果てまで追い掛けてやってんじゃねぇか。それか、あい
  つが俺を撃ち殺す気になるまで。」

  どうも、てめぇと俺の中で負け犬って言葉の意味が違うみてぇだな。
  青年は、そう呟いてゆっくりとオルステッドに近付く。青年が動くたびに空気が熱を孕んで、オ
 ルステッドの土色の皮膚を焼くようだ。それは、魚が人の手で触れられると火傷するのと同じ。

 「負け犬ってのは、諦めた時の称号なんだよ。」

  そして、オルステッドが何を言っても、青年は諦めたりしないと言う。

 「お前、まさか自分だけが誰かの魂を読み取ってるとでも思ってんのか?お前が俺に触れた時、俺
  もお前に触れてるんだぜ?てめぇの魂胆を読み取れねぇとでも思ってんのか。」

  オルステッドが何を思い近付いたのかも、何を背景に見ていたのかも、承知している。そしてそ
 んなものに支配されたりしない、と。

 「俺は、そんなに、お前の友達とやらに似てんのか。お前はそんなに、あいつに似てるとでも思っ
  てんのか。」

  一緒にするなよ。
  低い唸り声。噴き上がる魂の気配が、いっそう強く焼けついていく。この、感情の膨れ上がり方。
 まるで、激情をぶつけてきたストレイボウと同じ。なのに、どうしてこんなにも激情の方向性が違
 っているのか。

 「裏切りだの憎しみだの、くだらねぇ。そんなのてめぇらの腹の底でだけでやってろ。俺とあいつ
  を重ねて寸劇をやろうだなんて思うんじゃねぇ。」

  うねる波のような炎。ストレイボウはオルステッドにそれを向けた。この青年もまた、オルステ
 ッドにそれを向ける。この世界のオディオとなるべく英雄ではなく。

   「裏切ったり裏切られたり、俺とあいつは、そういう事を仕出かすような関係じゃねぇんだよ。」
 
  同じだと思った事が間違いだ。
  てめぇらのようにはならねぇ。
  気炎と一緒に吐かれた言葉は、そのままオルステッドを乾いた世界から弾き飛ばした。