ほう、と王妃が吐息をつく。
  王の隣にある玉座に座り、重臣達の報告を聞いている最中であるというのに、彼女の視線は心こ
 こに非ずといった風情で、何処か遠くを向いている。
  肘掛けに肘をついて、全く内政に興味を示さぬ王妃に、しかし誰一人として諫言できる者はいな
 い。皆が皆、彼女の背後にいる彼女の父君に恐々としているのだ。
  彼女の夫であるルクレチア国王ですら、口を出さぬという顛末だ。尤も、思いもかけず美貌の妻
 を手に入れた彼としては、王妃はただ隣に侍っているだけでも十分に価値があるのかもしれないが。
  王妃を置き去りにして、粛々と進んでいく臣下の報告は、けれどもやはり、興味を示していなか
 った王妃の一言で中断した。

 「旅芸人達を呼んで頂戴。」

  ぱちん、と扇を声高に鳴らし、王妃はだるそうな口調で命じた。
  その台詞に、脇に侍っていた大臣が慌てたような声を上げた。

 「恐れながら王妃様。今は我々の報告の最中でして……。」
 「それが、なぁに?」

  王妃の紫紺の眼に睨まれて、大臣は、ひぃと喉の奥で声を上げるとそのまま押し黙った。所詮は、
 王妃に口出しできるほど大きな男ではない。すぐに掌を返したように、すぐ傍にいたハッシュに口
 から泡を吹きそうな勢いで命令する。

 「急いで、あの旅芸人どもを連れてこい。早くするのだ!」

  飽きれるほどの転身ぶりに感心する。
  しかしそれよりも、王妃の命令にハッシュとしてはおいそれと頷くわけにはいかなかった。ハッ
 シュは大臣を通り越して、玉座の上で紫紺の髪を弄っている王妃に上奏する。

 「恐れながら、あの者達も突然御前に召されても、碌に芸など出来ぬのでは?それにあの者達が御
  前で芸を行ったのは一昨日。すぐに新たな芸など出来はしないでしょう。」
 「それでも良いのよ。それに新たな芸はなくとも、これまでに培ってきたものはあるはずよ。何も、
  全員呼べと言っているのではないわ。ブライニクルか、それかトルヴァを連れてきて頂戴。あの
  二人のどちらかなら、私の扱いも心得ているでしょう。」

  そう告げると王妃は裳裾を翻して立ち上がり、さっさと檀上から降りてしまう。その後を慌てて
 追いかける侍女や近衛兵にも、全くの頓着を見せない。
  代わりにハッシュに対して、連れて来たら私の部屋に通しなさい、とだけ声をかけて行ってしま
 う。都会育ちで派手好きの王妃にとって、唯一の娯楽を齎す旅芸人達は、相当のお気に入りとなっ
 たらしい。特に、彼女が名を上げた二人は、見た目も麗しい。どちらかと言えば、凡庸な顔立ちの
 多いルクレチアにおいて、彼らの容貌は王妃にとっては故郷に近いものがあるのかもしれない。 
  しかし、だからと言って、召すのが早すぎる。彼らが一週間の猶予をもって芸を行ったのが一昨
 日だ。にも拘らず、王妃はまた彼らに逢いたいと言っているのだ。全員ではなくとも良いとは言っ
 ているが。  
  呆気にとられているハッシュに、大臣が再び、しかもやたらに偉そうに命じてくる。

 「騎士団長殿。急ぎあの者どもを連れてくるのだ。」

  急かす大臣は、しかし決して旅芸人達を好ましくは思っていない。いや、この場にいるほとんど
 の重臣が、そう思っているに違いない。特に、神職に通じているものは。
  何せ、彼らは一昨日の御前で、途方もない予言をしていったのだ。もしもこれが市場での言葉で
 あったなら、罪のない占いで済んだのであろうが、よりにもよって王侯貴族の前で、しかも今後の
 世継ぎに関する予言をしてしまったのだ。
  近い将来、王妃は身籠る、と。
  気の弱そうな『夢見』の少女の言葉を口にしたブライニクルは、何の躊躇いも浮かべず、むしろ
 堂々としてその言葉を発したのだ。しかしその言葉は、神に近い者にとっては、些か受け入れられ
 ぬものだ。
  そもそも、占いでも顔を顰めるのだから、王と王妃の御前で行われたその予言といっても差し支
 えない占いの結果に、紛糾したとしてもおかしくはない。
  神職に近い者は、神の言葉を聞くなど恐れ多いと、いや、それを聞く事が出来るのは自分達だけ
 だと根拠のない自負を持っているのだ。それに、やたらと権力にしがみつく者も、この占いの結果
 を疎ましく思っているだろう。
  その最たる者である大臣などは、御子の発言をしたブライニクルを、その場で罵ったのだ。

 「おのれ、旅芸人の分際で、我が高潔なるルクレチアの御子の事について口にするか!」

  と。
  しかし罵られたブライニクルは涼しげな表情だった。
  彼にしてみれば占いを望んだのは王妃なのだから、そのように悪し様に罵倒される謂れなどはな
 い。
  だが、それ以上にブライニクルの中には、確固たる自信があるようだ。
  気弱な少女が見たという、夢の内容が、現実となる事に。

 「申し訳ございませんが、我らの『夢見』、今日に至るまで現実との差があった事はございませぬ。
  御子が男であるか女であるか、誕生になるのがいつになるかの正確な日は分かりませぬが、間違
  いなく、春の芽吹きと共に、王妃殿下は御子を身籠られ、御子は曇った夜明け間際にお生まれに
  なります。」

  決然とした色すら湛えてそう告げたブライニクルに、大臣以下その他の臣下も一瞬声に詰まった。
  それでも貴族としての矜持を練り上げて、偉丈高に言う。

 「ほう、それほどまでに言うとは。では、もしもその予言、間違っていた場合はなんとする。」
 「我が首で。」

  躊躇なく顔を上げ、ブライニクルは言い放った。

 「我が首で、責任を果たしましょう。」

  決してそのような事はなりはしますまいが。
  笑い声が含まれていたような気がしたのは、気の所為だったか。
  だが、それによって大臣はそれ以上の追随を許されず、彼らの遣り取りに興が覚めた王妃が退出
 し、その場は終わったのだ。
  もしかしたら、今回の王妃の我儘は、興を冷めさせた大臣に対する意趣返しであるのかもしれな
 い。だとすれば、なんと子供じみた事か、と思うのだが、しかし大臣も大概なのでハッシュには何
 とも言えない。
  ただ、それに巻き込まれてブライニクル達のいるテントに向かわねばならぬ自分がいるだけであ
 る。そのような事は部下に任せれば良いのかもしれないが、仮にも一国の王妃から下された命令で
 ある。他人に投げ渡す事はハッシュには出来なかった。
  城から出て、小さな城下町――というか村であるファミリオに出て、ハッシュは旅芸人達がテン
 トを張る町外れに足を 向ける。
  村人が旅芸人を物珍しそうに眺めていたのは一時的なもので、今は皆が穏やかに過ごしている。
 子供達はあしげく通っているようであったが。
  しかし昼間のこの時間帯は子供も学舎か手伝いに駆り出されているのか見当たらず、テントの周
 りには誰もいなかった。
  それは、子供達だけではない。
  いつもならテントの周りにいる旅芸人達もいないのだ。
  どこかに出かけたのか。
  だが、このルクレチアに出かけるところなどない。
  何か異様なものを感じたハッシュは、ふと、一つの大きなテント――それはブライニクルが構え
 ているテントだ――から、微かな声と、人の気配のようなものを感じた。
  周囲の空気の事もあり、いつもなら大雑把に歩いていくところを、息を殺して近づく。そしてそ
 っと分厚いテントの幌の隙間から中の様子を探った。
  小さな隙間から見えたのは、座っている人々の足と、履物。そして床に敷かれている敷物。そし
 てその中に、ちらりと光る黒金。
  鋭い刃先が地面に流れるように斜めに揺れている事にぎょっとしていると、次に気づくのは刃先
 にあるのが麗しい青年トルヴァである事だ。
  黒金の刃の持ち主は、むろん、ブライニクルを置いて他ならない。
  ブライニクルがトルヴァの首筋に刃先を突き付けている状態というのが理解できず、ハッシュは
 軽く混乱した。
  だが、その混乱は長くは続かない。

 「あら、覗き見かい?それとも立ち聞き?いずれにしても立派な騎士様にしては褒められた話じゃ
  ないねぇ。」

  気配なく背後で聞こえた女のねっとりとした声に、ハッシュは文字通り飛び上がった。