村への逗留を願い出た男は、自分達は旅芸人の一座だと言い、そして自分はその長であると言っ
 た。まだ若そうに見えたが、しかしフードを上げたその顔に幾つかの皺が刻まれているのを見て、
 もしかしたら自分よりも年上かもしれないとハッシュは思った。
  むしろ、彼のほうが、ハッシュの事を若いと思っているのかもしれないのだ。
  ハッシュが自分がこの国の騎士団長であると告げた時、男は表情一つ変えなかったが、しかしハ
 ッシュの若さを驚いていてもおかしくない。
  それを告げられれば、人手が足りないから、という困窮した事実を告げれば良いだけの話なのだ
 が。
  しかし、男は自分よりも年下であろうハッシュに対して、特に無礼な態度を――蔑みなどを見せ
 る事はなかった。
  多少の言葉の荒さはあったが、しかし我慢できぬほどではない。
  それどころか、所々に挟まれる言葉は、下手をすれば下位の貴族よりも達者なものであった。
  ハッシュが、男を所謂応接室ではなく、厩番が寝泊まりする部屋に通して此処で待つように告げ
 ても、特に何も言わなかった。それは単純に、男が旅芸人という己の立場を良く理解しているから
 かもしれなかったが、いずれにせよ男はその出自のわりには紳士的で、ハッシュの手を煩わせる必
 要もなかったのだ。

 「別に騎士団長殿の手を煩わせるつもりはなかったんだがな。」

  男を厩番の部屋に通して待っているように告げた時、男は小さく呟いた。
  その言葉を聞き咎めたわけではないが、ハッシュは言い訳のように言った。

 「この国は小さい。騎士団長と言っても、他の国に行けばせいぜいが門番長程度のものだ。部下の
  手を煩わせるまでもない事に、わざわざ部下を起こして駆り出すのも憐れだ。」

  そう言えば、男は白い顔にちらりと笑みを浮かべた。
  そして、旅芸人というには些か地味過ぎる――それはただ長旅用の服装かもしれないが――焦げ
 茶色の服の裾を翻し、ゆっくりと古びた椅子に座った。
  此処で待っていよう、と告げる男に頷いて、ハッシュは王宮に戻った。




  王宮は目覚めたばかりで、慌ただしかった。
  侍女達は王族の朝のお召し替えで忙しく、厨房もやはり王族の食事の支度に忙しかった。恐らく、
 もう少ししたらルクレチア王が支度を整え、臣下への挨拶を行うはずだ。勿論その場所にはハッシュ
 もいなくてはならない。
  そしてそれが終わってから朝議に入るのだ。
  旅芸人達の事を告げるのは、その後になるかもしれない。そう思うと、彼らは食事はどうするのだ
 ろうかと、ふと思った。
  きっと、彼らの事を告げるのは昼頃になるだろう。そうなると、彼らが腰を落ちつけて食事を取る
 のは昼過ぎだ。しかし、彼らは昨夜から歩きずめだったと聞いている。そんな彼らに、その仕打ちは
 どうなのか。
  きっと、あの旅芸人の長である黒髪の男は、そうなったとしても何事もなかったような表情をする
 だろうが、けれども彼とて仲間を早く休めたいから、こうしてやってきたのではないのか。
  考えると、早くなんとかしてやらねば、と思う。
  彼らはこの国の人間ではないが、けれども無下に扱うというのはハッシュには気が引ける。
  それに彼らが村の端とはいえ、そこにいる事に村人は不安を覚えるかもしれない。
  また旅芸人達もこういった扱いを受けた事を、次の街で語り継いでいくかもしれないのだ。
  旅芸人達が、迫害されても強かに生き抜いてきた理由は、単に彼らが町から町へと渡り歩くだけで
 なく、その土地土地の情報を流布していくからだ。彼らの情報が、一つの街を滅ぼす事だって起こり
 得る。
  ルクレチアは滅ぼしたところで何の旨みもない土地だが、しかしこの国の噂が王妃の父の耳に入れ
 ば、やはりただでは済まされないだろう。
  今のところは、それが一番恐ろしい。
  一番可愛がっていた娘を囲う国の、良からぬ噂を聞いたなら、損得に関わらずに攻め入ってくるに
 違いないのだ。
  なるべく早く王に知らせねば。
  そう思うのだが、しかし朝議を割ってまで話す程の事でもないのは確かだ。
  ハッシュがどうするべきかと悩みながら廊下を渡っていると、白亜の壁からぬっと白い手が生えた。
 しなやかに動くそれは、まるで小さく笑っているようだ。指に色とりどりの宝石をはめ込み、ちらち
 らと光を躍らせている。
  その手を見て、ハッシュははっとして一瞬立ち竦み、すぐさま臣下の礼を取る。
  けれど、ハッシュのその動作など全く意に介せず、白い手は壁から零れ落ち、白いレースと金に翻
 る大きく広がったドレス、そして優美に結い上げられた紫紺の髪を生み出す。その下で瞬く菫色の眼
 は、うっとりとした動作でハッシュを見やった。
  その眼は、やはりハッシュの臣下の礼などどうでも良さそうな、夢見るような朧な光を湛えている。

 「騎士団長、ハッシュ。」

  朝から決して見かける事のない王妃カミーユの姿に凍りついたハッシュは、普段ならば昼頃まで眠
 っている王妃の声に、ますます身を固くする。
  ルクレチアに来てからその退屈さに飽きて、怠惰な生活をしている王妃は、しかしその暮らしぶり
 など垣間見せぬほど、以前、ハッシュが彼女がこの国に嫁ぐ時に見た時のままの美しい姿をしている。
 些かの弛みもない顔と身体は、まだ少女らしい初々しさも秘めている。

 「どうしたのかしら、こんな朝からそのように溜め息ばかり吐いて。」

  よもや王妃がこの時間にこんな所に姿を見せるとは思っていなかったハッシュは、自分でも思って
 いた以上に無防備であったようだ。知らぬ間に、幾つもの溜め息を吐いていたようだ。

 「わたくしも退屈で溜め息ばかり吐いているわ。どうかしら、騎士団長殿?わたくしをこのお城から
  連れ出して、近くの国境まで連れて行って下さらない?」
 「王妃様。申し訳ございませんが、わたくしは一介の兵に過ぎませぬ。そのような命を王の許しなく
  受ける事は出来かねます。それに、わたくしの溜め息の原因は、城下に来ている旅芸人の事。その
  者達の処遇をどうにかいたすまでは、この城を離れるわけにはいきませぬ。」

  ハッシュが額に汗を浮かべながら告げると、しかしそれを無礼なと王妃は咎めるでもなく、むしろ
 眼を輝かせて手にしていた扇子をパチンと鳴らす。

 「旅芸人ですって?まあ、この国にもそのような者達が?」

  少女のように声を弾ませて、王妃はハッシュを見る。

 「ああ、懐かしいわ。お父様のいらっしゃる街には、そういった者達も大勢集まって、賑やかな催し
  物をしていたのだけれど。この国に来てからはそのようなものを見る機会も減りました。あの煌び
  やかな踊りや行列をもう一度見てみたいと思っていたわ。」

  懐かしみ、嬉しそうな声を上げる王妃に、ハッシュは言葉もない。
  そして、爛漫な彼女が何を求めるかが、ゆっくりと脳裏に浮かび上がって来た。

 「騎士団長ハッシュ。」

  ハッシュが王妃の言葉を止めるよりも先に、王妃は扇子をハッシュのほうに向け、偉丈高な声音で
 命じた。

 「その者達を此処に連れてきてらっしゃい。そしてわたくしの前で芸を見せるように。そのように取
  り計らいなさい。」
 「お待ちを、王妃様。この件に関しては王に取り計らわねばなりませぬ。その者達は他国の者。簡単
  に王妃様の前に連れて来るわけには。」
 「王にはわたくしから話しておきます。貴方はその者達を此処へ連れてくるのです。」
 「お待ちください。その者達とて今すぐに芸を見せるわけにもいきますまい。何せ彼らは長旅をして
  きたのです。休みがなければ、それは過酷というもの。王妃様の前でお見せできる芸もできますま
  い。」

  ハッシュの嘆願に、王妃は少しばかり考える素振りを見せた。
  そこに、畳みこむようにハッシュは言い募る。

 「今、城にはその者達の長を連れてきております。その者に逗留の許可を出し、休ませてからでも遅
  くはありませぬ。必ず、王妃様の前で芸をする事を、長に誓わせれば良いのです。」

  必死の言葉に、王妃はようやく頷いた。

 「宜しいでしょう。では、ハッシュ、その者達の長とやらをわたくしの前に連れてらっしゃい。今す
  ぐに。王にも同席してくださるよう、わたくしから話しておきます。」

  傲慢な口調でそう言い放つと、王妃は白いレースの裾を翻し、王のもとへとゆったりと歩いていっ
 た。おそらく、王に朝議を欠席させるつもりだろう。それが良い事であるとは、ハッシュには思えな
 い。
  しかしおかげで、彼らへの采配はすぐに下されるであろう。
  ハッシュはもう一度知らず知らずのうちに溜め息を吐いて、男の待つ厩番の部屋へと、来たばかり
 の廊下を後戻りした。