村を目指したのは昼過ぎだった。
  しかし、村を取り囲む山と森は、思ったよりも深く、そこを抜けるのにかなりの時間を要してし
 まい、結局深い木立を潜り抜けて、田畑がぽつぽつと点在する小さな村に辿り着いたのは、夜も明
 けた頃だった。
  町から町へと移動する事が人生のほとんどである旅芸人にとって、夜通し歩く事は決して少ない
 事ではない。
  しかし、だからと言って疲れないわけではないのだ。
  茶色の馬に跨った旅芸人の長である男は、フードの中で黒髪が額に張り付く感触をうとわしく思
 いながら、自分の背後に着き従う仲間達を振り返り、睥睨する。
  馬車を引く馬達にも疲れが見えているし、馬車に乗っているだけの女子供達も、窮屈そうに同じ
 姿勢を取り続けていた所為だろう、少し顔色が悪い。徒歩で歩く者達は、尚更だ。幾ら交替で馬や
 馬車に乗っているとはいえ、あまりにも気忙しい。疲れが溜まるのは当然の事だった。
  疲労の色の濃い一座を見渡しながら、ふと徒歩の間に混じっている灰銀の髪に気付いた。
  男達の中で、一際ふらふらと歩いている青年は、見た目あまりにも線が細く、ましてこの疲労の
 中突けば倒れてしまいそうに見えた。それなのに、その腕の中には片時も離すまいと言うように、
 何枚もの紙を紐で閉じた冊子とリュートを抱えている。
  その様子を見て、男はやれやれと首を振った。
  つい最近拾ったばかりの青年は、絶世と言っても過言ではない詩人であり、歌い手だった。その
 詩は行く先々の街で絶大な人気を集め、青年がリュートを一度つま弾けば、人だかりが出来るほど。
 何処かの貴族からもお呼びが掛かるほどに。
  それに、お呼びの声に拍車をかけるように、青年の顔立ちは正に美貌と表現しても言いすぎる事
 はない。灰銀の髪に囲われた顔は、もしもこのまま貴族の麗しい衣服を着せたなら、その姿はその
 まま社交界の中に溶け込むだろう。
  旅芸人の中には美しい者は少なくない。長である彼の妹も年を食っているとはいえ、少々きつめ
 だが整った顔立ちをしているし、彼自身、壮年であるという事を差し引けば、十分に一目を引く容
 貌をしている。
  しかし、青年のそれはいけない。何処か儚げなその容貌は、一瞬で貴族の女達を虜にするであろ
 う事は目に見えている。所謂、母性本能とやらを擽るのだ。きっと、そのままずるずると深みに嵌
 る事は『夢見』でなくとも分かろうというものだ。
  そもそも、本来旅芸人とは貴族の中には入って行かぬ存在であるし、それをした事で痛い眼を見
 るのは良く分かっている。だから、男は旅芸人の長として、青年を拾うまでもそういった貴族の誘
 いは無視してきたのだ。青年を引く手が数多であったからと言って、それを覆すわけにはいかない。
  貴族共の争いに入り込んだり、ましてその火種となる選択肢など、長である自分が選びとるわけ
 にはいかないのだ。
  むろん、もしも青年が、一人貴族の元に行きたいと言うのなら止めはしなかったが。青年が一人
 で火の粉を浴びるのは、全く問題なかった。
  だが。
  この青年一人だけを拾ったわけではないのだ。
  年老いた、青年の母親も一緒に、薄汚く打ち捨てられており、それを拾ったのだ。 そしてその
 母親は、まるでいつか自分が貴族に弄ばれて捨てられたのだと言わんばかりの勢いで、青年が貴族
 に関わる事を良しとしなかった。
  青年に一言でも貴族が話しかけようものなら、例え演奏の最中であっても群衆に割り込んで青年
 の手を取って引き摺って行くような有様だったのだ。
  おかげで、青年は貴族の元に行くと言う選択肢がないまま、こうして旅芸人として当てのない道
 を歩いているのだ。
  しかし、その母親は数日前、ふとした拍子に馬車から転げ落ちて、打ち所が悪かったのかそのま
 ま死んでしまった。
  もはや青年の首に鎖を掛ける者はいないのだ。
  近々、何処かに引き抜かれるかもしれない。
  それが長である男の考えだった。
  それが悪いとは思わない。要は、自分達に迷惑が掛からなければそれで良いのだ。むしろ、今の
 段階で十分に迷惑を齎しているのだから、何処かに置き去りにしたほうが良いのかもしれない。
  思って彼は、灰銀の髪の青年から眼を逸らし、そこから少し離れた場所を歩く、自分の妹に眼を
 向ける。
  自分と五つ違いの妹は妙齢だ。いや、妙齢という歳をそろそろ通り越そうとしている。
  その妹が、あの灰銀の青年に熱を上げてしまうなど、誰が思ったか。
  確かに青年の顔立ちは整っている。女なら誰しも、かまいたいと思うだろうが、妹は既に海千山
 千を超えている。甘い顔立ちになど簡単には引っ掛からない。だから、最初は、その歳の差故に母
 性本能でも擽られているのかと思ったのだが。
  もはや、母性本能の域を超えている。青年の周りに、誰一人として女を寄せ付けようとしないの
 だ。
  ただ、それを口荒く止めないのは、それが青年だけではなく、その他の少年少女への母性本能で
 もある事が分かっているからだ。
  青年の甘く儚げな顔は、まだ幼い少女達にとっては、語り物に出てくる王子か何かのように見え
 るだろう。その顔の向こう側に、夢を見たとしても不思議ではない。
  だが、それは破滅への序曲だ。
  青年は王子でもなければ、少女を遠い国に連れ去る事の出来る魔法使いでもないのだ。精々、歌
 を歌い、人々を誑かすほどの声を放つだけだ。
  それが分かっているからこそ、妹は青年に女を近づけさせない。何も分からない女が、青年の声
 に引っ掛からぬように。もしも引っ掛かってしまえば、それは青年にとっても、女にとっても破滅  
 以外の何物でもないのだ。
  特に、夢見であるカサンドラへに対しては徹底して青年の傍には近づけさせない。。
 『夢見』という能力が、詩人の詩への感性に対して働きかけるから尚更用心深くなっているのだろ
 う。現に、青年はカサンドラの能力に興味を持っているようだ。
  カサンドラは、本当に歩き始めたばかりの頃に、この一座にやってきた。その面倒を見てきたの
 は妹だ。だからこそ、余計に青年のような詩人と関わり合いになる事に対して慎重になっているの
 だ。詩人など、カサンドラには似合わないと言って。
  そして逆に、青年には『夢見』などには関わるな、と言って。
  言いたい事が分かるが故に、しかも妹の懸念は現実になればやはり破滅しかないと分かっている
 が故に、長たる男は何も言えないのだ。
  やれやれと首をもう一度振り、彼は妹や青年の事を振り落とし、それよりも疲労に満ちている全
 員に寝床を提供してやるほうが先決だと頭を働かせた。
  しかし、この小さな村の何処に宿を求めれば良いか。見たところ、所謂外部の人間向けの宿舎な
 どの施設はないようだ。かといって、誰か一個人の家に宿を頼むというのが上手く良くとは思えな
 い。では、何処かで野営の準備をするべきだろう。その場合、誰の許可を求めるべきか。
  この村の村長か、自警団か、それとも。
  ゆっくりと首を動かし、朝靄の中にその存在をちらつかせている白亜の塔を見上げる。
  この国の、王に頼むべきなのか。
  そういった交渉事が不得手なわけではないが、この朝靄の中、寝床を探すのは些か骨が折れる事
 は承知していた。しかし、それをするしかないという事も。
  茶色の馬から、疲れを見せない軽やかな動きで降りると、腰に帯びている二対の剣を帯び直し、
 まだ眠りの中にいるらしい町並みを見渡す。そして背後を振り返ると、手近の馬車を御していた男
 に告げた。

 「今から宿の交渉に行く。お前達は此処で待ってろ。」

  長からの言葉を受け取った男は顰め面で頷き、先程まで長が乗っていた馬の手綱を受け取ると仰
 々しく手入れを始めた。
  それを背後に、静まり返った村の道を歩いていく。
  朝靄がフードに張り付いたのを、鬱陶しげに払い落したところで、露わになった耳に密やかな馬
 蹄が届いた。
  何かと黒い眼を細めれば、白い靄がゆるゆると漂い、その中から白い馬脚がぬっと現れた。その、
 偉丈夫を絵に描いたような、鉄の鞍を付けた白馬の上には、その馬に相応しい鎧を付けた騎士が乗
 っている。
  騎士が紛れもなくこちらに向かっているのを見て、彼は歩みを止めた。
  そのまま通り過ぎるのだろうかと見ていると、次第に白馬の歩がゆっくりと遅くなりつつある。
 やがて遂には自分の前で立ち止まった馬から、騎士が見下ろした。

 「このような時間にそのような大人数で我が国にやって来るとは何者か。」

  朗々と響きわたる声には、首元に刃先を突き付けているような響きがある。
  だが、それに物怖じするようでは、旅芸人の長など務まらない。

 「俺は旅芸人一座の長でブライニクルという。この度、旅の疲れを癒す為にこの村を訪れた次第だ。
  村の入り口では一座の者達が疲労を癒し、安らかな寝床で休める時を待っている。どうか、しば
  しの滞在を許して貰えまいか。」

  乱暴な口調を押さえこみ、礼を取りながら請うと騎士の表情が微かに緩んだような気がした。

 「旅芸人だと……?このような辺境の国に?」
 「我々に場所は関係ない。気が向けば何処へでも訪れる。それが旅芸人と言うものだ。それに我々
  は通行証を与えられている。違法に侵入したわけではない。」

  此処にいる事になんら問題はないのだと言うと、騎士は黙った。
  しばらくの間睨み合っていたが、やがて騎士が眼を逸らす。
  そして、ついて来るように、と呟いた。