投げ渡された白銀の剣は、ハッシュを拒むように煌めいた。
  それはブライニクルの手の中にあった時とはまるで違う、まるで瘴気に充てられて煤けでもした
 のかと思うほど、ねっとりと曇り穢れた煌めきだった。この剣を以て、瘴気の溜まる山を断ち切る
 のは、途方もなく困難な事に思えた。
  しかし、誰かが受け取らねば、ルクレチアという国家が滅びる事は、ブライニクルの夢見が決し 
 て外れなかった事を鑑みれば明白だった。誰かが何かを変えなくては、先々の事は決して変わらな
 いのだ。それが、もしかしたらこの剣一つによって変える事が出来るかもしれない。
  ささやかな願いを込めて、ハッシュは白銀の剣を受け取った。
  その瞬間に、ブライニクルの皮肉めいた笑みが深まったのは、気の所為だったか。

 「子を失った女の呪いは深い。おそらく、何人もがこの山の瘴気にあてられて破滅に向かうだろう。
  そしてこの山で生ける者は、皆、堕落する。この地は、これより異形の住処となる。」

  失われた子供にしか、この地を開放する術はない。しかしブライニクルは、この地の事について
 は口を噤むと言う。渡り歩く旅芸人が、ルクレチアについては一言も語らず、地を渡るという事は、
 即ちルクレチアの情報が何処にも伝わらないという事だ。
  それは、妹を殺さざるを得なかったブライニクルの、せめてもの復讐であるのかもしれない。
  そして彼は、残る黒光りする剣を、この大地に突き立てた。途端に突き立てられた剣に向かって
 土が盛り上がり、黒い刀身を覆い隠し、それでも尚も土塊が次々と覆い被さる。最後に奇妙な人の
 形をした彫像を作り上げ、それは止まった。

 「最後に一つ、慈悲を呉れてやろう。俺の、ではなく、この剣の本当の持ち主の、だが。」

  神の獅子の名を冠する剣は土塊に覆い隠されてもはや見る事は叶わない。ただ、その剣を軸にし
 た奇妙な彫像から、じわりと只ならぬ気配が立ち昇った。まるで、彫像が生きているかのような。

 「エスメラルダの呪い。いつかはルクレチア全土を蝕むこの瘴気が、この山から出ていかぬように。
  神の獅子によって繋ぎ止めてやろう。お前達の破滅が、少しでも先延ばし出来るように。」

  人の悪意を啜りとっているこの山が、いつかは憤怒と憎悪を噴火させるまでの、その時期を先延
 ばし出来るように。
  しかしそれは、恐らく火山に蓋をしてしまうようなものだろう。
  悪意は止めどなく流れるものだ。どんな些細な事であっても。 
  それでも、それを断ち切る時間を引き延ばすというのは、この国にまだ信じるところがあるとい
 う事だろうか。 
  ブライニクルの中に、ではなく、逢った事も聴いた事もない遠くの地の貴族の中に。
  しかしハッシュにはそれを測る術はない。

 「精々足掻くが良い。俺はどうもしない。俺がこの地を訪れる事は二度とない。もしも訪れる事が
  あったとしたら、その時は、この国が滅びた時だ。その時、俺は神の獅子を引き抜こう。」

  ひらり、と旅芸人は黒いローブを翻した。
  細かく編み込まれていた金糸が、もはや届かない所にある月のように瞬いて、空気を孕んだロー
 ブは萎む。その翻る中をブライニクルの手が潜り抜けて、未だに浮遊し続けている胎児をずるりと
 王妃の腹に戻そうとした。

 「待ってください!」

  旅芸人の呪いの言葉を聞いて、真っ先に我に返ったのは何の力も持たない少女だった。
 
 「その子――紫紺の髪の子は王妃の子として認められましょう。ですが、鈍い銀の髪の子は。」

  何処の馬の骨とも知れぬ男の血を引いている事は明白だ。捨て置かれるか、最悪殺されるか。

 「長、どうか慈悲を。」
 「俺の中にはこの国に与える慈悲はない。」
 「では、私に。」

  少女は青ざめた顔をしていたが、見開かれた眼はきっぱりとブライニクルを見据えていた。

 「私に、慈悲をください。生きる術のなかった私を拾ってくれた時のように。」
 「………。」

  これから殺されるかもしれない鈍色の髪の子供が、幼い自分と重なったのかもしれない。子供の
 死を回避しようとする少女には、ブライニクルも長年『夢見』の枷を背負わせていたという引け目
 があったのか、しばらく無言でいたが、眼を上げて問うた。

 「どうして欲しいんだ。この子供はまだ生まれる時期ではない。女の腹から引き離せばどのみち死
  んでしまう。」
 「では、私の腹に。」

  蒼褪めた少女の震える唇が紡いだ言葉に、ハッシュもウラヌスもぎょっとする。
  だが、少女は頼りなく揺れながらも、きっぱりと言い切った。

 「言っておくが、お前がこれを孕めば、お前はもう俺達と共にはいけない。これは、トルヴァの子
  供。仲間を陥れようとした者の子供だからな。俺達の中に入れる事は叶わない。」
 「分かっています。」
 「それに、トルヴァの子供を孕んだお前を、この国の連中はこれ幸いと言わんばかりに追いかける
  かもしれない。自分の責任を逸らすためになら、それくらいやりかねない連中だ。」
 「承知の上です。」
 「そうか。」

  何故、とブライニクルは問わなかった。彼は既に、少女がそう告げる事を『夢見』ていたのかも
 しれない。今思えば、ハッシュの行動に対してまるで全てわかっていたかのように振る舞っていた
 ブライニクルは、それら全てを夢で見て、知っていたのだろう。
  カサンドラの言葉に一切の疑念も抱かず、ブライニクルは少女の腹に、鈍色の髪の胎児を押し当
 てた。するりと音もなく飲み込まれた子供は、そのままカサンドラの腹を膨らませる。
  そしてもう一人の子供は、昏倒している王妃の腹に。
  こうして、夢見を侍らせる事を望んだトルヴァは、侍らせる事は叶わなかったが、己の子供を孕
 ませる事は出来たのだ。

 「お前もエスメラルダと同じだったというわけだ……。」

  それとも、と黒い眼で覗き込むようにカサンドラを見る。

 「………エスメラルダの一部が、お前に入り込んだか?」

  ぞっとするような声で囁き、しかしすぐに興味を失ったように眼を逸らす。言っても詮方ない事
 でしかないと言わんばかりに。
  それを証明する術などないのだ。
  そう、ブライニクルは恐らくウラヌスに向けて言った。 
  それは、もしかしたら異端者としてカサンドラを処刑する教会に釘を刺したつもりなのかもしれ
 ない。
  何より、

 「変に血を流せば、この地の破滅が近づくだけだからな。」

  脅しとしか思えない台詞に、ウラヌスは何か反論しようとしたようだったが、結局それは出来ず
 に終わった。夢見の言葉は、既に何処から何処までが本当であるのか、もはや分かりようがなかっ
 た。

 「長。」

  少女はか細い声で、これからそう呼ぶ事は出来なくなる男に、最後の慈悲を請うた。

 「私はこの地で、エスメラルダの呪いを慰めて生きてゆきます。それはおそらく、この山を砕く事
  と同義。長はこの地に慈悲は与えられないとおっしゃいましたが、どうか、エスメラルダの呪い
  を慰める私の為に、慈悲を与えてください。」
 「慈悲が慈悲になるとは限らない。神の獅子も、もしかしたら噛み砕かれて終わりかもしれない。
  俺の慈悲が逆に破滅を加速させる事もあり得る。それでも欲しいのか。」
 「どうか。」

  この子に。
 
 「せめて、この子が破滅の礎とならないように、慈悲を、呪いを。」
 「………。」

  旅芸人は沈黙した。
  だが、最後に頷いた。

 「良いだろう。お前が一人で産む子供に、呪いを掛けてやろう。その放つ矢が、誰も傷つけぬよう
  に。常に折れ曲がり、何事にも当たらぬように。」

  カサンドラの目の前で、額に手を置き、そしてすぐに千引くように顎に手をやる。

 「ありがとうございます、長。」
 「礼には及ばない。それによって、夢見が変わるとも思えない。」

  ひやりとした声でブライニクルはそう告げると、黒のローブを翻して今度こそ背を向けた。
  妹の死体にも吟遊詩人の死体にも目もくれない。

 「さあ、お前達は好きにこの顛末を騙るが良い。王妃の好みに仕立て上げ、大臣諸侯共の耳に入り
  やすいように、面白おかしく語ればいい。それらはこの国にのみ蔓延し、決してこの国から出て
  いく事はない。」

  我々は、この国を忘却する。
  言い放つや、ブライニクルの身体は舞い上がり、黒い残影だけを置き去りにした。
  立ち込める山には、三つの生者と、二つの屍があるだけだった。





  それから、ルクレチアは何一つとして変わらなかった。
  王妃を連れて帰ったハッシュとウラヌスは、ひとまず王侯貴族から歓待を受けた。攫われた王妃
 の身体を慮って、すぐに言祝がれたわけではなかったが、王妃の体調が戻った数日後、王は二人に
 褒賞を与えると言った。
  血濡れで帰ってきた王妃は、誰の眼から見ても凄惨だったのだろう。まして、あの瘴気に満ちた
 山に落ちたのだ。生きている事すら、疑わしい。それ故、王妃がまるで無傷であった事は奇跡に見
 えたのだ。
  だが、王妃を無事に連れ戻したと喜んだ王の言葉に、ハッシュとウラヌスはそれを固辞した。王
 妃は別に悪魔に攫われたわけでもなかったし、その命を救ったのも自分達ではなかったからだ。
  しかしそれ以上に、まるで自分は被害者であると言わんばかりの何食わぬ顔で、大きな腹を抱え
 て王の隣に座る王妃が、何か途方もなく自分達から遠い所にいるように思えたのだ。
  これ以上、王妃に関わる事象――それが例え褒賞授与であっても――を一つでも受け入れてしま
 えば、自分達も同様に遠く離れた場所に身体だけ連れ去られそうだった。 
  薄ら寒い気持ちで王と並ぶ王妃を見ながら、その顔に吟遊詩人の事も魔女の事も、そして自分の
 子供の事も何一つ浮かんでいないのを見てとり、更に凍えるような気分になった。
  もしかしたら、覚えていないのでは。
  そう思うほどに。
  だとしたら救われるのだが、しかしそう思うには王妃の豪胆さをハッシュは間近で見てしまって
 いる。この先、きっと王妃に傅く度に、王妃の腹の中にいるはずの紫紺の髪を思い出し、そこから
 離れた場所にいる鈍色の髪を思い出すだろう。
  しかし、王妃は思い出しもしないのだ。
  いつか出産を迎え、一人だけの子供が生まれても、顔色一つ変えまい。むしろ、今回の事件の結
 末は、王妃にとっては僥倖だったのかもしれない。自分が、不貞を働いたという証拠が消えうせた
 という結末だけを見て。
  一人だけの赤子を腕に抱く王妃を見て、ハッシュは自分が正気でいられるとは思えなかった。
  それはウラヌスも同じだったのだろうか。
  王妃の生存に歓喜する大臣達は、瘴気に満ちた山で何が起きたのか知らない。例え知ったとして
 も、きっと見ぬ振りをするだろう。それは教会とて同じ事。
  目撃した事を語る相手もおらず、網膜に焼き付けただけで黙々と王妃に奉仕する事は、耐え難か
 った。ハッシュもウラヌスも、王妃ほど豪胆な精神を持っているわけではなかった。
  ルクレチアという何も知らないままぬ突き進む国家に、知ってしまった二人が耐えられるわけが
 ない。
  故に、彼らは城を、そして街を去る。
  ハッシュ達よりも先に、森に入り姿を消したカサンドラは、自分の血の繋がりのない腹の胎児を
 抱え、けれども何の泣き言も言わなかった。

 「これでおさらばです。」

  少女にしては痛々しいくらい膨らんだ腹を突き出して、カサンドラは最後にそう言った。

 「私は二度と人里に下りる事はないでしょう。私は瘴気の山で、この場で散った二人の墓標となり
  ます。」

  ただ、と腹を撫でて呟く。

 「この子はいつか、街へと向かうでしょう。その時、もしも貴方がたの前に現れたのなら、力にな
  ってやってください。」

  鈍色の髪の子供。
  何の寄る辺もなく、もしその姿を王妃が見たなら、即座に殺害を命じるであろう彼を。
  ハッシュがそれに黙って頷くと、少女は安堵したかのように一礼し、丘を下り、森の中へと分け
 入って行った。
  細い身体は忽ちの内に、森の中に消えてしまう。その痩せた脚で、再びあの山に行くのだろうか。
  朝靄の中、瘴気を纏う岩肌は、薄らと白みを帯びている。
  聳え立ち、消える事のない瘴気の山が見える丘の上で、ハッシュは白銀の剣を二人が葬り去られ
 た大地へと突き立てた。