エスメラルダの腹は、背中からの一突きで大きく裂けていた。
  ただ、エスメラルダの纏う衣服も、貫いた剣も黒々としてた為、ぽたりぽたりと零れ落ちる以外
 は血の流れは見えなかった。
  黒い眼を瞬かせたエスメラルダは、踊るような動きは鳴りを潜め、ぎこちなく首を動かして背後
 を探ろうとしている。その赤い唇から、つ、と一筋の血が白い顎を伝い落ちた。
  しかし、彼女が振り返り何かを語ろうとする事を、黒光りする剣の持ち主は断じて許さなかった。
 エスメラルダの視線が完全に背後を捉えるよりも先に、襲撃者は彼女の腹腔を貫いた刃を一気に引
 き抜いたのだ。
  途端に、これまで身を潜めていた血の滾りが、引き抜かれた刃を追いかけるようにして、或いは
 出口を求めるようにして、エスメラルダの腹と背の両方から止めどなく噴き上げた。
  その奔流に溺れるかのようにエスメラルダの細い身体は、無言でトルヴァと彼女自身が流した血
 の中に埋もれていった。
  ルクレチアに対して、深い深い呪いをかけた魔女は、静かに事切れたのだ。
  一方で、生温かいエスメラルダの血を浴びた王妃は、沈黙した魔女の身体を突き飛ばし、その穢
 れを振り払おうと悲鳴を上げる。喚く王妃の腹からは未だに臍の緒が続いており、その先にある二
 つの胎児はエスメラルダが事切れた今、共に崩れてしまうかと思われたのだが、反して傷一つなく
 浮遊している。それを支えているのは、黒光りする剣を下げたブライニクルだった。

 「長!」

  斃れた妹の手から胎児を取り上げ、血濡れた剣を露払いするように振っているブライニクルを見
 て、カサンドラがようやく声を上げた。しかし、エスメラルダを突き殺したのがブライニクルであ
 るという事実から眼を背ける事は出来ず、再び言葉に詰まる。

 「長、何故……?」

  妹を刃で貫いたブライニクルに、カサンドラが呆然とした言葉を辛うじて零している間にも、ブ
 ライニクルは血糊を払い落とした剣を淡々を鞘に納めている。
  声もなく崩れたエスメラルダを小さく一瞥すると、妹の血を顎から滴らせたままの状態で、苦い
 笑みを浮かべた。

 「エスメラルダを、生かしたまま連れ歩けば、一座全員に害が及ぶだろう?」

  辺境の地とは言え、一応は王国だ。しかもエスメラルダはその国の王妃に、不敬罪にも問われか
 ねない言葉を吐いている。仮にエスメラルダの言い分が通ったとしても、巨大な権力を握る王妃の
 父親にその事が知れたらどうなるか。
  もともと被差別の傾向にある旅芸人に対する風当たりが強くなるどころか、下手をすればそのま
 ま捕えられてしまう。

 「俺は、この一座の長だ。エスメラルダ一人の為に、あいつら全員を危険に曝すわけにはいかない。」

  そう言って、ますます彼の笑みは苦くなった。

 「そう。結局俺も『夢見』を変える事なんか出来やしなかったのさ。この国に辿り着く事、トルヴァ
  が王妃と不貞を働く事、エスメラルダがトルヴァを殺す事、そして俺がエスメラルダを殺す事。
  俺達の内、誰か一人でも自分の持っている覚悟を、或いは願いを捨てていればこんな事にはなら
  なかった。」

  トルヴァが大望を抱かずに大人しく生きていたなら。
  エスメラルダが失った我が子の代わりを若者に求めなければ。
  そしてブライニクルが旅芸人の長としての責務を果たそうとしなければ。
  『夢見』とは、決して外れる事はないのだ。人が自分を捻じ曲げようとしない限り。そして自分
 を捻じ曲げる事ほど困難な事はない。故に、『夢見』は必ず当たる。

 「いや、一人だけいたな、夢見を捻じ曲げた人間が。だが、そいつはこの地にはいないし、これか
  ら来る事もないだろう。」

  だから、とブライニクルは笑みをすぅっと消して、ハッシュを見た。

 「この国は滅びる。俺が今夜この国に対して見る夢は、それだ。」

  腰に帯びた剣の柄に手を当て、ブライニクルは彼の足元に斃れた彼の妹と良く似た、けれども対
 照的に酷く静かな眼をしていた。声も激高するのではなく、只管に平坦だった。もしかしたら、見
 る事のなかったブライニクルの『夢見』を最初に告げる声は、こんな声で成されるのかもしれない。
  ただただ事実を告げるだけの。

 「エスメラルダが呪いをかけた。この国の子を孕む者達に、限りない憤怒と憎悪を以て成された呪
  いは、誰にも解く事は出来ない。憤怒と憎悪によって成されたものであるが故に、この国に一つ
  一つとそれが積み重なるほどに、呪いが深まり、それ故、この呪いはいつか必ず、この地を食い
  潰す。何者にも解く事は出来ない。」
 「だが、お前はエスメラルダの血を引く者には解けると、呪いを掛け直した!」

  ブライニクルの宣託に逆らうように、ウラヌスが声を張り上げた。
  流れる血を止められない大司教は、それでもこの国だけは守ろうと、予言者から言質を取ろうと
 している。

 「兄であるお前ならば、呪いを解ける!違うか!」
 「だが、俺はそれをしない。」

  しかし、予言者は大司教の叫びを一蹴した。
  小さく首を竦め、白く無表情だった顔に、一度薄く笑みを取り戻す。

 「俺も、二人も仲間を失ったんだ。こいつらが死ぬ事は分かっていた。でも、その原因を作ったこ
  の国の為に、そこまでしてやるつもりはない。だから、俺はこのまま何もせずにこの地を去る。」

  それに、と彼は呟いた。

 「俺は確かにエスメラルダと『血は繋がっている』が『血を引いている』わけじゃない。」

  並び立っているが、その下流に属するわけではないのだ、と。
  だからこそ、果たしてエスメラルダの呪いを解けるかどうか。

 「……失った子供、か。」

  ハッシュはブライニクルが解呪者として選んだ人間に思い至り、呟く。
  するとブライニクルは小さく頷いた。

 「そう……エスメラルダが若い連中を見る度に母性を出していた理由。あいつの、たった一人の子
  供さ。」

  この剣、とブライニクルの手から二振りの剣が短く光る。
  何処かの貴族――エスメラルダが恋に落ちたという貴族に連なる者から与えられたという剣。そ
 の剣を顔の前に翳し、刀身を見つめながらブライニクルは、刀身越しにハッシュも一緒に見つめな
 がら、言う。

 「エスメラルダはある貴族の子供を孕んだ。その貴族は嫡男ではなかったが、しかし旅芸人を妻と
  するにはあまりにも古く格調高い家柄の男だった。一族の反対に合い、結果二人は入水した。俺
  の夢見では、そのまま男は死に、エスメラルダも孕んだ子供を流すはずだった。」

  だが、と剣が夢見を引き裂くように鋭い閃きを見せる。
  闇夜でも光を捜す白銀の剣。
  闇夜に溶け込む黒光りする剣。

 「嫡男――男の兄に当たる貴族は堕胎しかけたエスメラルダを救い上げた。そして流された子供を
  エスメラルダの腹に戻し、そのまま臨月まで長らえさせた。生まれた子供は嫡男の手元にある。
  二度とエスメラルダがその地に近づかない事を条件に、嫡男は子供の命を救った。」

  エスメラルダと子供は救われたが、エスメラルダを孕ませた貴族は死んでしまった。一族はそれ
 を許さなかったが故に、嫡男はエスメラルダを追放せざるを得なかった。
  ブライニクルが知る、唯一の、『夢見』を引き裂いた男。

 「魔術の大家だ。この国など、指先一つで滅ぼせるだろう。」

  その男は二振り剣を与えた。
  子と離れる母を憐れんで与えた剣。エリアルと呼ばれる具を鋳する家系でもある貴族は、エスメ
 ラルダもそれに連なる中の一人であるという事を込めて黒光する剣を与えた。
  しかし同時に、エスメラルダが約束を違えた際に、エスメラルダを切り裂くための剣も与えた。
 それが、白銀に輝くブライオン。
  その二つを再び鞘に納めたブライニクルは、今度は鞘ごとそれらを腰から外した。

 「騎士殿。」

  一言言い置いて、細い腕がひらりと舞った。繊細な手からするりと抜け出たのは白銀の剣だ。

 「もしもエスメラルダの呪いに抗うつもりだと言うのなら、俺はこの剣を置いていこう。この剣は
  エスメラルダに抗う為に作られた。呪いも切り裂けるかもしれない。尤も、それを使いこなせる
  ならば、の話だが。」

  ブライニクルの表情に、微かに皮肉めいたものが浮かび上がった。

 「俺はこの国の事は決して語らない。トルヴァの事もエスメラルダの事も、むろん、王妃の事も、
  呪いの事も。決して語らず、故にこの呪いを唯一解けるであろう者の耳にはこの国の事は決して
  入らない。それでも、お前達が抗えると言うのなら、この剣でこの瘴気の山を切り落としてみる
  がいい。」

  子を失った女の、憎悪と憤怒と悲嘆のこの山を。