さて、とエスメラルダはウラヌスを見た。

 「お偉い大司教殿は、この不遜な女をどうするんだい?王を騙し、よりにもよって旅芸人なんてい
  う下賤な男の子供を孕んだこの女を。」

  これはまやかしだ、と。
  そう言い切る事はハッシュにもウラヌスにも出来ない。
  今、エスメラルダが眼の前に引きずり出した二つの胎児は、トルヴァが纏った影よりもずっと明
 確で、臍の緒から流れる血の胎動さえ聞こえるほどだった。生々しいその光景が、まやかしや幻術
 などと言い放つには、それはあまりにも現実味を帯びた形をし過ぎていた。

 「如何に王妃と雖も、教会の定める罪に触れた以上、償うべきなんじゃないのかい?それとも、何
  の権力もない男に罪を擦り付けて終わりだってのかい?」

  エスメラルダは二つの絡み合う胎児を突き付け、大司教に王妃の罪を問う。
  エスメラルダの言うように、不貞を犯した女は裁かれなければならない。夫を裏切った妻に対す
 る罰は、溺死というのが教会の方針だ。
  だが、それが果たして王族に――ましてや背後にルクレチアを滅ぼす事が出来る父親がいる王妃
 に、適応されるのか。
  大臣以下の諸侯や、それに与する司祭達ならば、王妃に対してその権力故に無罪を言い放つだろ
 う。孕んだ子は王の子として育てるか、或いは生み捨てられるや直ぐに国から追い出すか。
  それについてルクレチア王が何を言うかは分からないが、しかし王妃の持つ権力が分からぬでは
 ないだろうから、最終的には大臣達の判断に頷くはずだ。旅芸人に妻を寝取られたという不名誉が
 国民に知れ渡るのを避ける為にも、やはり王妃を赦し、沈黙する事を選ぶだろう。
  だが、ウラヌスは。
  厳しい皺を刻み込んだウラヌスの表情からは、ひたすらに煩悶だけが窺えた。
  神に仕える身として、同時にルクレチアの国の司教として、如何なる判断を下すのが善き事であ
 るのか。
  それを今すぐに判断せよというのは非常に困難だろう。
  しかし、エスメラルダは漆黒の髪を巻き上げながら、ウラヌスの言葉を待っている。
  翳した手の上に紫紺と鈍色の胎児を浮遊させ、己の腹から抜け出たそれらを愕然と見やっている
 王妃を足元に転がして、如何なる罰を与えるのか、それとも赦しを与えるのかを口にせよと迫って
 いる。ウラヌスに決断を迫る彼女は、まるで断罪の女神のようだ。
  もしもウラヌスが、彼女の意に反する言葉を発したなら、この場でウラヌスの舌を切り落とし、
 王妃の首を刎ねるのではないかと思うほど。それほどまでに、エスメラルダの瞳は打ち付けられた
 稲妻のように燃え上っている。 
  愛する我が子の代わりを自らの手で殺さねばならなかった魔女は、その発端である王妃を赦さな
 いのだ。それ故に、その細い身体からは先程から、眼に見えぬがはっきりと肌に突き刺さる憤怒の
 気配が立ち昇っている。
  魔女は、王妃の断罪を望んでいる。それをウラヌスに確約させようとしているのだ。それはエス
 メラルダとしては最大の譲歩なのだろう。魔女自らの手で殺すのではなく、ルクレチアの法によっ
 て裁く事をウラヌスは赦されているのだ。
  ウラヌスが王妃にその罪に見合う罰を与えたならば、魔女はこのルクレチアを突く瘴気の槍を収
 め、ひっそりと去っていくはずだ。
  その事に、ウラヌスも気づいているのだろう。
  魔女の怒りを治めるには、王妃に相応しい罰則を与えるしかないと。
  もしも、ハッシュとウラヌスに、目の前にいる魔女を倒すだけの力があったなら、王妃への罰則
 など論外として魔女を切り伏せ屈服させただろう。
  しかし、とハッシュはエスメラルダを見る。
  瘴気を放つ山に立つ魔女は、どう贔屓目に見ても、ハッシュが首を刎ね、ウラヌスが雷で打ち砕
 くには、過ぎたる存在だった。この山を維持しつつ、王妃の腹から生きたまま胎児を取り出した時
 点で、エスメラルダがもはや人智を超えた力を持っている事は明らかだった。
  それを両断するだけの力が、如何に腕に優れていようとも、如何に天才と謳われようとも、所詮
 は田舎国家の騎士団長と大司教でしかないハッシュとウラヌスにあるはずがない。
  ただ、エスメラルダが魔女であるという事実――悪魔と取引をしていようとしていなかろうと―
 ―は、こうなってしまえばもはや明白だ。
  ならば、確かに王妃の断罪を求めるエスメラルダの言葉は理に適っているかもしれないが、エス
 メラルダが魔女であるという事実を天秤に掛けた時、ウラヌスは一体どちらに傾くか。
  むろん、ハッシュはエスメラルダがルクレチアに仇なせば、例え刃が届かなくとも切り掛かった
 だろう。
  しかしそれをするには、彼女の言い分はハッシュには良く理解できた。
  トルヴァにも非はあった。だが、その非はトルヴァだけのものではない。故に、王妃にも同じだ
 け責任を背負わせよと言うエスメラルダの言い分は分かる。
  騎士と司祭の逡巡を、果たして魔女は見抜いたのか。
  けれどもその逡巡に真っ先に気が付いたのは、エスメラルダの足元で、己の腹と臍の緒だけで繋
 がる胎児を呆然と見ていた王妃だった。
  王妃は、ハッシュとウラヌスの逡巡の果てが、あてにならないと判断したのだろうか。しかし、
 依然として自分の権力の揺るぎはないと信じていたのか。何をしても、不貞を犯したという証拠さ
 えなければ、何をしても許されると、それほどの権力が自分にはあるのだ、と。
  信じていたからこそ、彼女は腹の薄くなり身軽になった身体を素早く翻したのだ。
  その手に、護身用の銀色の短刀を手にして。
  ぎょっとするハッシュとウラヌスを置き去りにして、麗しい王妃は紫紺の髪を炎のように閃かせ
 て、エスメラルダに向けて短刀を身体ごと突き出した。
  正確に言えば、エスメラルダが掲げる二体の胎児。
  もっと言えば、鈍色の胎児目掛けて。
  だが、深窓の令嬢として生きてきた王妃の腕が、瘴気を放つ魔女に届こうか。王妃の銀の短刀は、
 魔女に鉄鎚を下す前に、魔女の眼前で叩き落された。
  王妃の身体ごと。
  火花が飛び散るような音を立てて銀の短刀を持ったまま地面に倒れ伏した王妃を、今度こそ魔女
 は怒りを隠しもせずに見下ろした。豊かな黒髪を蛇のようにうねらせて、エスメラルダは牙を剥い
 て吠える。

 「なんて、なんて女だろう!よりにもよって自分の子供に刃を向けるか!」

  唸るような声と共に、瘴気が音を立てて岩の間から一層激しく噴き上げた。
  エスメラルダの眼は爛々と輝き、肌はまるで身体を流れる血が炎に変貌したかのように赤く輝い
 ている。

 「不貞どろこか、子殺し。これでもお前達はこの女を擁護し、城の奥深くで護るのか!何も見ず、
  何も知らず、自分に火の粉が掛かるのを恐れて、黙るのか!」

  それが、ルクレチアの気質。
  権力者の不貞を黙り込み、黙り込んだ事さえ他の者の責任とする。
  トルヴァと王妃の不貞と、その結末も、皆が皆火の粉を恐れたが故に起きた出来事だ。誰かが一
 言王妃を諌めていれば、王妃の閨に旅芸人が忍び込む事を告げていれば。
  トルヴァの場違いな思い上がりなど、その場で潰えたのに。

 「ブライニクルの言った通りだ。夢を見ても、結局それに関わる人間が変わらねば、予言は変えら
  れない。夢見は、警告にすらならない。きっと、夢見がルクレチアの滅亡であったとしても、そ
  れを告げたとしてもこの国はそれを変えようと足掻きもしないだろう。」

  どんな言葉を紡いでも、火の粉を恐れるルクレチア国民は、誰一人として未来を変えようとしな
 いだろう。
  そんな意志が、ルクレチアには存在しない。

 「意志のない国家。そんな物にトルヴァは、この子は自分の未来をかけて、破滅したのか。」 

  魔女は悲嘆に暮れた表情で血濡れの吟遊詩人を見下ろし、そして憎悪を込めた眼で、王妃とハッ
 シュとウラヌス、三人のルクレチア国民を見比べる。
  そして、身の毛のよだつ様な声で、呟いた。 

 「そして、そんな国家が、この先ものうのうと生き続ける、と?世界で起こり得る事象に対して、
  自分達は何の責任もないのだと、責任の所在を隠し、殺してしまえば、それで良いのだ、と?そ
  んな事が、赦される、と?」

  人の生死に対して、恐ろしいほどまでに鈍感な国。
  トルヴァの死は、きっとルクレチアではすぐに揉み消され、国民は三日と経たぬ内に何事もなか
 ったかのように一日を生きるだろう。今此処で殺されかけた赤ん坊にしても同じ。全て隠してしま
 えば、彼らは何もなかった事として生きるのだ。
  王も、王妃も、大臣諸侯も、騎士も、兵士も、女官も、そして国民全て。
  閉鎖された国家で生きる彼らは、誰かに責任を擦り付け、そしてそれがいなくなってしまえば全
 てが終わると見做す事に非常に慣れている。
  トルヴァが死に、王妃の不貞があり、赤ん坊が死に、旅芸人が去っても、それらはトルヴァの死
 で清算され、片づけられ、自分には関係のない事としていつもの生活を繰り返すのだ。
  かつてウラヌスが大司教となった時、前任の大司教達を追放してそれっきりにした時のように。
  同じ事が繰り返されぬようにといった議論も、法の取り決めもしないままに、忘れて終わりにし
 てしまうのだ。

 「そのような国家に、一体、どれだけの意味があるのか。神が、教会が赦してくださる?は!この
  あたしが赦さないのに、誰の赦しも意味があるものか。」

  エスメラルダは小さく嗤うと、すっと繊細な手を伸ばし、ルクレチア国民を指差した。

 「呪われろ。この、意志の無き、無為に時間を潰すだけの国よ。」

  安穏と生き続けるだけで、何一つ前に進まない国家よ。

 「お前達は、自分達が守ろうとしたものによって滅び去る。必死になって隠し、機嫌を窺い、宝と
  祀り上げたものによって内側から食い潰される。これまで通りに生きる事によって、お前達は滅
  びるのだ。この腐敗の山は、その楔だ。お前達が足踏みすればするほど、腐敗はより強く、この
  国を蝕む。」

  呪われろ。
  呪われろ。
  子殺しも、不貞も、命潰える事にさえ見向きもしない人々よ。
  エスメラルダの言葉が紡ぐのは、ブライニクルの告げる夢見などではない。これから起こる事象
 の予言ではなく、これからそのように在れという願いであり呪いだった。そしてその呪いが、はっ
 きりとルクレチア全土に広がるのが、魔術など知らぬハッシュにもはっきりと感じられた。
  眼には見えぬが、茨で覆うように、破滅の呪いがルクレチアを覆い尽くしている。
  そして、エスメラルダは最後に絶望の杭を打つ。呪いから、逃れる術はないのだ、と。

 「この呪いは、この世にいる誰一人として、解く事は出来ない。」
 「……ただし、魔女の血を引く者だけは解く事が出来る。」

  エスメラルダの呪いが瘴気の中に木霊し、それらはみるみるうちにハッシュの中に、ウラヌスの
 中に、王妃の中に、そしてルクレチア国民全ての魂に刻み込まれる。
  いつか来る破綻を刻む時計のように。
  だが、その呪いに、まるで死を眠りに置き換えたもう一つの呪いのように、一つの声が上から覆
 い被さった。
  同時に、誰にも近づく事は出来ないと思われていたエスメラルダの腹腔から、黒光りする刃が大
 量の血を纏って出現した。