己は夢見ではないのだと告白した少女を連れ、ハッシュとウラヌスは屠殺の毒槍と呼ばれる瘴気
 に満ちた魔法の山を登る。ルクレチアの森を突き上げ、絡ませて出来上がったその山には、元々森
 にあった木々は短時間の内に瘴気の所為で奇妙に捩じれ上がり、住まう動物達も異質な形を見せ始
 めていた。

 「もしかしたら、人間にも影響があるやもしれんぞ。」

  ウラヌスの懸念に、ハッシュも同じ事を思い頷いた。
  この山の何処かに、トルヴァと身重の王妃がいるのだ。トルヴァはともかく、王妃と、その腹の
 中の子供に何らかの影響が出たらどうなる事か。それを聞きつけた王妃の父が、いつルクレチアに
 攻め込むとも分からぬのだ。
  しかしその一方で、この山にはエスメラルダとブライニクルもいるのだという事が、すぐには人
 間に影響は現れないだろうという思いを生み出させていた。
  だが、そんな考えをウラヌスは浅はかだと言う。

 「奴らが魔女、或いはそれに類する輩である事は間違いがない。悪魔と契約を交わしたであろう連
  中が、この悪魔の巣のような場所にいて何らかの苦痛を感じるとは思えん。」

  その言葉に反論したのは、もはや只人である少女カサンドラだった。

 「ブライニクルもエスメラルダも、悪魔なんかと契約したりしてません。あの二人は、昔からずっ
  と、こんな力を持っていたんです。」

  巨大な国の、或いは有力な貴族の裏側にいる魔術師達のように。決して神の意図に逆らう為に、
 その力を身に着けたわけではないのだ、と。むしろ、有名な魔術師達のように、誰かの庇護さえ必
 要とせず、権力に関わろうとしない。

 「トルヴァだって、呪歌を持っているけれど、別に権力が欲しくて悪魔に魂を売り渡したわけじゃ
  ない。生まれた時から、あんな力を持っていて、それで少し道を逸れてしまっただけ。」
 「……そして破滅するのか。」

  ブライニクルの見た夢。
  ブライニクルは、トルヴァがその力故に破滅するのだと夢見たのか。そして、一体どのように破
 滅すると夢見たのか。王妃をかどわかした罪で、裁かれると見たのか。

 「……お前はエスメラルダにはトルヴァは止められないと言ったが、それはブライニクルが言った
  のか?」
 「ブライニクルは、トルヴァの破滅の内容までは言いませんでした。ただ、長として始末を着けね
  ばならない、と。」

  では、もしやブライニクルがトルヴァを破滅させるのか。
  自らが手を下す夢を見たのだろうか。自らの未来さえも、動かせぬ事実として見るというのはど
 ういう気分なのか。

 「ハッシュ!」

  ぼんやりと思いながら山を登るハッシュを、ウラヌスの叱咤するような声が打つ。はっとして顔
 を上げれば、行く先にたなびく黒いヴェールが見えた。まるで枯れ木に布が引っ掛かっているよう
 に見えるそれは、よくよく見れば立っている人間だ。
  ブライニクルか、と咄嗟に思ったが、黒いヴェールに重なるように靡いているのは、ウェーブが
 かった髪だった。
  エスメラルダ。
  腐敗の山にすっと立ち上がった魔女。
  表情は窺い知れないが、そこから立ち上る雰囲気は微かに上気しているように見える。それは以
 前トルヴァと言い合いをしていた時の気配と同じで、鈍感なハッシュにはそこから魔力の放出だと
 か、常人から逸している何かを見て取る事は出来なかった。

 「王妃殿下!」

  そのエスメラルダと対峙するように立っているのは、紫紺の髪を靡かせた王妃カミーユだ。
  大きくなった腹を抱える白いレースのドレスに身を包んだ王妃は、細く黒の衣装を身に纏うエス
 メラルダとは全く正反対の出で立ちをしている。
  どちらも美しい。
  しかし、何かが大きく異なっているのだ。
  ハッシュとウラヌスの到着に気が付いた王妃は、はっとしたような表情でそちらを振り返ると、
 すぐさまいつもの尊大な顔つきを作り上げた。

 「騎士団長。この女を捕えなさい!」

  凛とした声は、正に王妃という肩書に相応しい。
  だが、その声の紡ぐ内容にハッシュがたたらを踏んでいると、更に王妃は言い募る。

 「この女は、吟遊詩人を名乗る下賤な男をわたくしに近づけ、そしてわたくしをかどわかそうとし
  たのです。わたくしを人質に取り、父に金銭を要求しようとした不届き者なのです。」

  きっぱりと言い放つ王妃の言葉は、旅芸人達に甘やかな笑みを浮かべていた時のものとはまるで
 別人だ。
  しかし、一体何が王妃を豹変させたのか。
  そもそもトルヴァは。
  王妃の元へと足を速めるハッシュは、しかし二人の女が立つ岩場に足を踏み入れた瞬間に息を呑
 んだ。それはウラヌスも同じだったようで、一番最初に声を上げたのは、カサンドラだった。

 「トルヴァ!」

  魔女と王妃を隔てる距離の間は、血の海だった。
  その中には、かつては見事な銀であったが今は血で汚れて鈍色と化した髪を散らせ、一人の男が
 倒れ伏している。かっと剃刀色の両眼を見開いた男は、間違いなくたった今破滅を迎えたばかりの
 様相を表していた。
  ブライニクルの夢見通り、死によって全ての夢を絶たれて破滅したトルヴァを前にして、しかし
 ハッシュは何が起こったのか分からない。
  一体、何がトルヴァを破滅させたのか。

 「この女は。」

  ハッシュの疑問に答えるように、王妃は澱みない口調で糾弾した。

 「わたくしを人質にし、父と交渉する事で受け取るはずだった金銭の取り分の事で、この男と仲違
  いし、挙句の果てに殺してしまったのです。まるで悪魔――正に魔女。教会から下される懲罰の
  中で、火刑が最も相応しい女です。」
 「なら、あんたは溺死が一番相応しいね。」

  王妃の言葉に、魔女は嘲笑う色を含んだ声で答えた。
  ひらりひらりと舞う黒のヴェールを羽のように閃かせ、エスメラルダはカサンドラに一瞬憐憫の
 眼を向けた。

 「ああ、カサンドラ。あんたはこんな所に来るべきじゃなかったのに。せめて、このまま旅芸人達
  と一緒に国境を越えてしまえば良かったんだ。こんなくだらない、貴族や王族なんか、あんたに
  は似合いやしない。」
 「エスメラルダ……。」

  只人であるカサンドラは何を言うべきか迷うように、唇を動かしている。
  その姿にエスメラルダは、酷く悲しげな黒い眼を向けるや、すぐさまその色を挑発的なものに変
 貌させてハッシュとウラヌスを見た。

 「その通りさ。あたしが、トルヴァを殺したのさ。この吟遊詩人にして、あたし達の仲間、そして
  あたしの可愛い子供達の一人をね。」

  挑むような眼差しのまま、彼女は嗤う。

 「でも、この女も大したタマだね。よくもまあそんな嘘がつらつらと言えるもんだ。トルヴァがあ
  んたをかどわかそうとした?違うね。世間一般じゃ、それは駆け落ちって言うのさ。トルヴァに
  何を吹き込まれたのか知らないけど、でもそれ以前にトルヴァに手を出して摘み食いしたのはあ
  んただろうに。」

  王妃に不貞があったのだ、と。
  エスメラルダは不遜にもそう言い放った。
  明らかに不敬罪に当たるその発言に、王妃よりもまずウラヌスが反応した。

 「そのような王妃を愚弄する発言は許されん!それなりの覚悟は出来ておるのだろうな!」
 「覚悟?馬鹿をお言いでないよ、偉そうな司教殿。」

  エスメラルダはゆらりゆらりと、その細い身体を陽炎のように揺らしながらウラヌスの言葉を翻
 弄する。

 「あたしの言っている事は事実さ。事実を言ったら処刑かい?相変わらず、王侯貴族ってのは腐っ
  てるねぇ。」
 「証拠もないだろう!」

  ウラヌスの怒鳴り声に、王妃は優雅に頷く。

 「その通りです、大司教ウラヌス。この女は妄言を弄して、わたくし達を貶めている……そのよう
  な行為、許されません。」
 「はっ、許されないのはそっちのほうさ。」

  エスメラルダの指が、さっと閃いた。
  瘴気に満ちた空気の中を、黒いヴェールが横切る。

 「証拠?証拠なら見せてあげようじゃないか。あんたが不貞をしていたっていう証拠を。」

  言うなり、エスメラルダは服の裾がトルヴァの血で汚れるのも厭わず、さっと王妃に踊り寄った。
 木の葉のように王妃との距離を詰めたエスメラルダの動きに、ハッシュもウラヌスも咄嗟に動く事
 が出来なかった。
  何よりも、次の瞬間のエスメラルダの手の動きに。
  エスメラルダの細い腕は、すっと小さく振り被られたかと思うなり、王妃の腹に突き当てられた
 のだ。そしてそのまま、音もなく王妃の腹の中に飲み込まれていく。
  ずぶりと王妃の腹を貫いたエスメラルダの腕に、ハッシュはようやく叫ぶ事が出来た。

 「王妃殿下!」

  腰に帯びた剣を抜き放ち、王妃の腹に埋もれているエスメラルダの腕を切り落とそうと振り翳す。
 が、その瞬間にはエスメラルダは飛び退り、王妃の腹を貫いていた腕は一滴の血も残さないままに
 引き抜かれている。むろん、王妃の腹にも怪我は見当たらない。
  ただ、膨れていたはずのその腹は、今や小さく萎んでいた。
  それもそのはず、王妃の腹の中にいたはずのものはそこから抜け出て、エスメラルダの手の上で
 小さく浮遊しているのだ。臍の緒だけで、繋がったまま。

 「ああ、良かったねぇ、騎士団長殿。臍の緒を切らなくて。例え不貞の果てに出来た子供でも、一
  応は貴族の血を引いてるんだから。殺したら何を言われるか分からない。」

  エスメラルダの手の上で浮遊しているのは、王妃の腹と臍の緒で繋がっている、胎児だった。生
 きているらしく、時折ひくひくと動いている。
  その光景だけでも衝撃的であるのだが、それ以上に。

 「……双子?」

  そう。
  腹から引きずり出された子供は、二人いた。胎児であるので、そこまでくっきりとは分かる姿を
 していない。
  だが、その頭部に薄く生えた髪の毛の色が。
  一人は王妃と同じ紫紺。
  そしてもう一人は、ルクレチアの王族にはない、鈍い銀の色をしていた。

 「ご覧よ。畜生腹の上に、明らかにあの王様の髪とは違う色をしてるじゃないか。」

  もはや、何一つとして擁護する場所がない。
  不貞を犯した女は水に沈めて罰せられる。だからエスメラルダは王妃には溺死が相応しいと言っ
 たのだ。

 「勿論、あんたはお父様が守ってくれるかもしれない。けど、あんたのお父様はトルヴァまでは守
  ってくれないだろう。それどころか、トルヴァに全ての罪を押し付けて処刑するかもしれない。
  それはこの国にいても同じ事。でも、トルヴァにはそんな事分からなかったのさ。権力思考は強
  くても、所詮は何も知らない旅芸人だからね。例え、分かっていて、それで自分の歌で何とか出
  来ると思っていたんだとしても、この子の歌程度じゃ、無理さ。」

  トルヴァには、もはや破滅しか残されていなかったのだ。
  血に濡れたトルヴァの傍に跪き、エスメラルダは固く引き攣ったトルヴァの頬を優しく撫でる。
 その仕草は、まるで母親のよう。

 「だから、あたしが殺したのさ。あたしの可愛い子供の代わりに。仲間を危険に曝し、それどころ   か罪を擦り付けようとまでした。だから、あたしは母親のかわりに、この子の始末をしたのさ。」

  ブライニクルは、そう夢見たのだ。
  自分の妹が、子供のように可愛がって心を砕いてその行く末を案じていた若者が、自らの手で殺
 してしまう。
  それを、はっきりと知っていたのだ。