まだ空が白み、西の果てには夜の深い藍色の裳裾が残る頃、ハッシュはルクレチア城の屋上に上
 がり、朝靄に沈む城下を眺めていた。
  ルクレチア城のすぐ足元にあるのは秋になれば木の葉を落とす木々の群れで、その林を抜けたと
 ころに、城下町がある。
  いや、城下町というほど、大きなものではない。せいぜい、村と言ったところだ。
  そしてその村こそが、ルクレチアという国家にとっては一番大きな人の営みがある場なのだ。だ
 から、富の名を冠する国を初めて見た者は、あまりにも名前負けしている事に失笑するしかない。
 何せ、人口が多いわけでもない上に、これと言った名産もないのだ。
  小さな領地にあるものと言えば、深い森と、鬱蒼とした山々ばかりだ。田畑を耕せなくはないが、
 しかし森と山がその拡大を阻む。では牧畜はと言えば、牧草となる植物が肥えて生えているような
 森や山ではない。山から金や銀、宝石、もしくは鉄などが採れないかと言われれば、首を横に振る
 しかない。海には面しておらず、湖があるわけでもないから、魚介類も望めない。これで、交通の
 要所であったならば、交易により栄えるのかもしれないが、ものの見事にそう言った拠点からは離
 れている。 更には偉大なる聖人や偉人を輩出したわけでもない。
  まるで何もない、放っておけば木々に呑み込まれてしまいそうな国であったが、しかしそういっ
 た事も幸いしてか、周辺諸国にきな臭い噂が飛び交う中でも、ルクレチアは至って平穏に時が流れ
 ている。
  春になれば種を撒き、夏になれば田畑に水を引き、秋になれば収穫し、冬はひっそりと家で祈り
 を捧げる。
  諸外国を見渡せば、無数の死者を出した大飢饉や疫病の蔓延を皮切りに、不安を訴える市民や農
 民の暴動が多発し始めた。
  本来、農民たちのよりどころとなるべき教会は、教会内部での勢力争いに呑み込まれており、果
 てはローマ教皇が二人立つという事態にまで陥っおり、とても人々の不安を取り除く役割を果たし
 ていなかった。
  そして、領民を纏めるべき国王、領主達は領地や名誉を掛けた戦いに明け暮れる日々であり、そ
 して南方からやってくる異教徒の噂もまた無気味であった。
  しかし、その地に如何なる富みもない故に、こうした争いや諍いから切り離されたルクレチアに
 は、国政に携わる者の耳には波乱の噂は聞こえるものの、国民の耳にはまるで届いていなかった。
 ルクレチア国民は皆、他国からの侵入など想像の中でしか起こり得ない事だと考えており、教会も
 存在しており大いなる力を持っていると信じてはいるが、それが慈悲以外の何かに向けられるとは
 思っていない。それ故、自分達が暴動を起こすなど考えた事もない。
  彼らのほとんどは、その短い人生の中で剣を持って戦場に行く事などないと考えているのだ。
  事実、ルクレチア国民の中で、真剣を携えているのは王宮兵士くらいだった。村にも自警団くら
 いはいるが、けれどもそのほとんどが、鍬などを武器にしており、真剣を持つ者はごく少数だ。
  これを、奇跡と言うべきなのか。
  ごく僅かな領地を見渡して、ハッシュは首を捻る。
  何も生み出さないが故に、時代の激流に飲み込まれない事が良い事なのか、ハッシュには分から
 なかった。何せ、自分も含め、王宮の兵士達でさえ、他国の人々と話をする機会などないのだ。流
 石に王族ともなればそれはあるが。
  思って、ハッシュは城下に広がる白い靄の中に、溜め息を吐く。
  昨年の初めに、ルクレチアという辺境の国に、他国の者が永住する為にやってきた。
  それは、一介の村人などが国境を越えてやって来て定住したなどという簡単な話ではない。
  彼女は、ルクレチアの近隣の領地より、ルクレチアの王妃となるべくやって来たのだ。
  ハッシュも、彼女がやって来た時の事は良く覚えている。なにせ、ハッシュは騎士団長として彼
 女の護衛を務め、彼女を彼女の領地からルクレチアまで連れて来たのだから。
  その時、ルクレチアは国中が新しい王妃を一目見ようと、彼女を包み込む馬車の行く先々に長い
 人の列が出来ていた。王妃となるその女性は、何処からともなく流れてきた風の噂で、大層美しい
 と評判だったからだ。
  そして、事実、その顔を見たハッシュもその噂が正しいと頷くしかなかった。
  紫紺の髪と紫の眼は、まるで彼女が高貴の出である事を示すかのように厳かに光り、白い顔は大
 理石と見紛うほど滑らかだった。その顔立ちは、王宮の子供部屋でひっそりと遊び相手を待ってい
 る、宝石の散りばめられた人形のように整えられ、扇子を広げる指先は白百合のように繊細だった。
  彼女には上に二人の姉がいたが、その姉を差し置いて、求婚の数は数多であり、領地内でも最も
 美しいお姫様と呼ばれていたほどである。
  それ故、父である領主から溺愛されていたらしい。
  彼女を政略の道具として見做さないほどに。
  末の娘を溺愛する領主が治める地は、ルクレチアと同じく農作物などでの益が見出せぬ土地であ
 ったが、交易の要所として発展していた。彼の領主としての才覚を遺憾なく発揮し、彼自身の野心
 の為にも、彼は領地を発展させる為に道路を作り、水路を整備したのである。
  そして野心家である領主は、上の二人の姉を、とある国の中枢に近い貴族の元へと嫁がせていた。
 それを足がかりとして、今後、それらの国を飲みこむほどに発展しようと考えていたのだ。
  だが、そういった考えが、末の娘に対しては微塵も働かなかった。
  末の娘の美貌は、誰もが認めるものだ。彼女ほどの美貌であるならば、それこそ広大な地を治め
 る国王や果ては皇帝に嫁ぐ事も不可能ではなかっただろう。
  しかし、そういった国が決して安寧の地ではない事を、賢明なる領主は知っていたのである。
  それでも、政治的駆け引きの為に子供を使うのは良くある事。
  だが、娘を溺愛する父親は、そのような危険な場所に、娘をやるつもりなどなかった。娘の命の
 安全を第一に考えた父親が、娘の嫁ぎ先として白羽の矢を立てたのが、持たざるが故に争いのない
 ルクレチアだったのだ。
  ルクレチアとしては、そのような美貌の王妃を迎え入れる事が出来るなど思っておらず、それこ
 そてんやわんやで王妃を迎え入れる準備をしたのだが。
  しかし、とハッシュは思う。
  迎え入れた彼の王妃カミーユは、ルクレチアよりもずっと賑やかで活気のある土地にいた。その
 彼女が、ルクレチアの王宮生活を楽しんでいるとは思えないのだ。
  ルクレチアの貴族に、舞踏会やサロンでのお喋りに長けている者などいない。本当に片田舎の領
 主のように、領民とひっそりと暮らしているだけだと考えれば良い。
  だが、カミーユは都会の領主の娘で、しかもその美貌だ。舞踏会など毎夜のように誘われただろ
 うし、サロンでは花形だっただろう。
  それらが一切ないこの国にいて、満足しているかどうか。
  せめて、他国から届いた珍しい物でもあれば、気が紛れるかもしれないが、この地にはなかなか
 商人でさえ来ない。
  王妃の不機嫌が、何かの火種にならねば良いのだが。
  幸いにして、王妃を寝とろうとする貴族はこの国にいないものの、他国から忍びこんでくる輩が
 いないとは言い切れない。それに王妃の不機嫌を知った領主から責め立てられるのも、決して望ま
 しい事ではないだろう。
  しかし、所詮は騎士でしかないハッシュに、良い考えなど思うはずもなく。
  ハッシュの意識は、朝靄の中から割り入るように村に入って来た黒い一団へと向けられていた。
 遠目で良く分からないが、馬車が数台ある。しかし、そのような大勢での訪問があるとは聞いてい
 ない。
  何者か。
  本来ならば騎士団長自らが動く事ではないのかもしれないが、だが、見張りを外したり、この時
 間まだ眠っている部下を呼ぶのも気が引けた。そういった考えは、国としては間違っているのかも
 しれないが。
  ハッシュは、腰に帯びた剣の感覚を左手でなぞると、ただの散歩だと自分に言い聞かせ、身を翻
 した。