旅芸人達は、東の森をひた走っていた。
  彼らは、今宵こそが『夢見』の告げる破滅の日であると知っており、そしてその『夢見』が寸分
 も違わぬ事も知っていた。そして、その破滅が、一歩間違えれば自分達にも及ぶかもしれない事も。
  『夢見』は彼らの破滅まで告げなかったが、それは決して彼らが破滅しないという事を保証する
 ものではない。単純に、『夢見』の内容に含まれなかっただけというだけの話であって、彼らが破
 滅しないという『夢見』は下されていないのだ。
  だからこそ彼らは明かりのない森を走り、一刻も早く内々から崩れ去っていくルクレチアという
 国家から立ち去ろうとしていたのだ。
  そんな彼らを先導するブライニクルは、しかしその顔にはいつにもない憂いの色が濃かった。

 「長。」

  物憂げな表情を崩さぬ長に、旅芸人達が不安に思うのは当然の事だった。しかし、ブライニクル
 はいよいよ憂いの色を深めている。
  何か思案しているようにも見えるその端正な顔立ちは、やがて皆に立ち止まるように命じた。
  一刻を争う事態。
  だが、そんな時であっても長の命令は絶対である。うろたえながらも立ち止まった配下の者達を、
 ブライニクルは深い色を帯びた視線で見渡す。

 「誰か、この中で、エスメラルダを見た者はいるか?」

  己が妹の事を口にした長に対して、誰もがはっとした。
  最後まで、トルヴァを残していく事に反対した魔女は、この一座の何処にも姿が見えない。そし
 てブライニクルは、その事を端から分かっていたように、酷く諦めたような薄い表情を見せた。
  愕然とする旅芸人達の人垣を割って、か細い声が上奏する。

 「エスメラルダなら、さっき森の奥に入っていきました。」

  深い赤のローブを痩せた身体に巻きつけた少女カサンドラが、精一杯に声を上げたのだ。

 「一人日血を外れて、止めたんだけれども、私には関係のない事だと言われて。」

  震えるカサンドラの声に、ブライニクルは自分の声を重ねる。

 「そして、お前にはやはり旅芸人は似合わない、と言い残していったんだな。」

  エスメラルダがカサンドラに言い残した言葉を、そっくりそのまま言い当ててみせたブライニク
 ルは、憂いを消さぬまま天を仰いだ。
  それはまるで神に慈悲を請うているようにも見えたが、実際はそうではなく、今しも頭上を駆け
 抜けて行った黒い影を視線で追いかける為に頭を上げたのだった。

 「あれは……。」

  黒く広がる翼に皆が絶句していたのは一瞬だった。
  旅芸人達は何処にも属さぬ者達。それは、彼らの内々に人とは異なる力が秘められているからだ。
 彼らは互いが、人の枠から外れた場所にいる事を知っている。むろん、自分達が仲間の中から外し
 たトルヴァにも、少なからずともそうした一面がある事も。
  だから、彼らは『夢見』の内容も踏まえて、たった今頭上を通り過ぎて行った黒い影が、トルヴァ
 の生み出した幻影――彼が自らの姿形を隠す為、或いは他の者に畏怖を感じさせる為に身に纏った、
 歌で紡がれた幻影である事を見抜いていた。そしてそれは、もはや破滅が救いようのない所にまで
 迫っている事を物語っている。

 「この方向は、国境に通じる道……。」
 「奴め、逃げるつもりか。」

  呪歌によって紡ぎ出された幻影を纏ったトルヴァが、このまま国境を越えて逃げようとしている。
  おそらく、その腕には彼の唯一の取引手段である、この国の王女がいる事だろう。トルヴァは、
 ルクレチアという田舎国家に嫌気が差している王妃を、王妃の故郷に連れて帰り、そこで王妃の父
 王にルクレチアに対してある事ない事吹き込み、そうしてそれを足掛かりに伸し上がるつもりなの
 だろう。
  しかし、その為にはルクレチアの国境を越えなくてはならない。国境を超えるまでに、ルクレチ
 アの兵に捕まってはいけないのだ。
  だが、呪歌の使い手といっても所詮トルヴァの歌で紡ぎ出されるものはほとんどがまやかしで、
 実態を持てたとしてもそれは直ぐに消えてしまう。今しがた頭上を飛んで行った翼も、すぐに落ち
 るだろう。そしてその後、すぐにもう一度同じ歌を歌う事は出来ないはずだ。
  トルヴァの内々にある能力など、その程度のものでしかないのだ。
  トルヴァも、その事には気づいているだろう。
  しかし同時に、あの短絡的なルクレチア城の連中が、自分だけではなく旅芸人全員に全ての罪を
 被せようとする事も分かっているはずだ。
  つまり、ブライニクル達はトルヴァが国境越えをするまでの間の時間稼ぎ、或いは責任を押し付
 ける為の存在なのだ。
  だが。
  ブライニクルは、道を外れた妹の事を考えた。
  途端に、耳に地面全てが割れるような轟音が打ち付けられた。
  めりめりと森の木々が悲鳴を上げ、土埃を上げて地面が持ち上がっていく。旅芸人達が短い悲鳴
 を上げたたらを踏み、馬達が嘶き後脚で立ち上がったり気を荒くしている中、ブライニクルは一人、
 納得したように天を突かんばかりに木々を振り払いながら伸びていく地面を見上げる。

 「……屠殺の毒槍。」

  みしみしと音を立てながら、互いに巻きつき、崩しあいながら一つの巨大な槍を作り上げる大地。
 それは、まるで国境へと続く道を塞がんばかりに。更には、岩と岩の繋ぎ目から、腐臭にも似た瘴
 気がしゅおしゅおと音を立てながら小さく噴き出し始めている。
  樹立してゆく大地を、ひっそりとした眼で見て、ブライニクルは馬を宥めている仲間達に命じた。

 「お前達、この岩山を迂回して森の中に逃げ込め。ルクレチアの兵士共の事だ。どうせ恐れをなし
  て、此処に辿り着くのはごく僅かだろう。お前達は奴らをいなしながら、国境へと急げ。」
 「長は?!」

  荒れる馬達を宥めながら旅芸人達は、一人そこに根が生えたように動かないブライニクルを見る。
 その視線に対して、ブライニクルは鼻息の荒い一頭の馬の手綱を取って、やはり憂いの消えない眼
 で応じた。

 「エスメラルダが屠殺の毒槍を使った。トルヴァと王妃の受け答え次第では、間違いなくこの国は
  滅びる。俺は、長としてエスメラルダとトルヴァの始末をつけねばならん。それが終わってから
  追いかける。国境を越えた次の集落で待て。」

  行け、と。
  有無を言わさぬ口調で背を押され、旅芸人達は瘴気を放つ岩山――たった今、エスメラルダがト
 ルヴァの行く手を遮る為に作り上げた『屠殺の毒槍』を迂回するために、道なき森へと進んでいく。
  何度も何度も背後を振り返る仲間の姿が、薄暗い森に完全に消えてから、ブライニクルは一つ息
 を吐いて、魔女である妹の作り上げた山を見上げた。
  そして馬を引いて、エスメラルダと、そして閉じ込められたトルヴァと王妃のいるであろう山を
 行き始めた。




  それから半刻も経たぬうちに、白馬を走らせたハッシュが、大司教ウラヌスだけを唯一の付添と
 して連れて、旅芸人が足踏みをした、山への入り口に辿り着いた。
  山が出来上がってからの半刻のうちに、辺りは岩肌から噴出された瘴気で濃い霧となっていた。

 「あやつらは、この山を登ったのか……?」

  姿の見えぬ旅芸人達に、ウラヌスが苛立たしげに呟く。
  ウラヌスの苛立ちは、旅芸人達だけではなく、この場について来なかった教会関係者、及び兵士
 達にも向けられていた。
  いきなり突き上げられた大地に、皆が一様に恐れ戦き、これは教会の祈りが少なかった所為だと
 大臣や貴族は口々に言い募り、責任を押し付けられた教会は、教会行事を取り仕切っている大司教
 であるウラヌスの責任であると論じたのだ。
  そしてまた、大臣達は旅芸人達を連れてきたのはハッシュであるとして、ハッシュにも責任を押
 し付けようとしたのである。
  別に、ハッシュとしては特に何を思うわけでもない。 
  ハッシュは端から自分が動くべきと考えていたし、旅芸人達に事情を聴く事も厭うべき事ではな
 かった。
  しかし、トルヴァに付け入る隙を与えたのは、紛れもなくルクレチア全体の責任でもあったはず
 だが、それを城の中にいる誰一人として見据えようとしない事が、ハッシュには酷く虚ろな現実に
 思えた。
  瘴気を放つ山。
  それはまるで、ルクレチアにこれまであったが、しかし誰もが眼を背けていたが故に見えなかっ
 た人々の心の内が、一気に噴出したかのようにも見える。

 「……旅芸人達は、山を迂回して国境に向かいました。どうか、彼らを追いかけないで。」

  忌々しげに山を見上げるハッシュとウラヌスの耳に、弱々しい声が届いた。
  それは、ハッシュも何度か耳にした事のある声であり、同時に全ての元凶とも言っても過言では
 ない声だった。
  『夢見』。
  赤いローブを纏った少女は、そっと足音も立てずに紫の闇に沈められた森の木立から身を投げ出
 した。

 「山には、恐らくトルヴァと、王妃殿下が。そして二人を止める為に山を作り上げたエスメラルダ
  が。」
 「エスメラルダが?山を作った?」

  唐突に持ち上がった大地の原因を聞かされ、ハッシュは思わず聞き返した。そのような事が只の
 人間に、しかもエスメラルダに出来るとは思わなかったからだ。エスメラルダは確かに妖艶で、何
 か只ならぬところがあったが、しかし山を一瞬で作り上げる力があるなど、ハッシュはにわかには
 受け入れられない。トルヴァが翼と角を生やして飛び去った今でも、受け入れがたかった。
  しかし、少女はひっそりと頷く。

 「呪歌によって影を纏い、空を飛んだトルヴァ。彼はかつての仲間である旅芸人達に王妃誘拐の罪
  を着せて、自分は逃げようとしました。それを止める為に、エスメラルダは最も強大な魔法であ
  る『屠殺の毒槍』を作った……。この山は、逃げる者を射落とす、槍なのです。けれども、エス
  メラルダにはきっとトルヴァは殺せない。」

  エスメラルダは、私達に、自分の子供を重ねて見ているから。
  もしかしたら、逆に、エスメラルダがトルヴァに殺されてしまうのかもしれない、と『夢見』の
 少女は告げた。

 「長は、それを止める為に一人山を登りました。」
 「止める?どうやって?」
 「……わかりません。」
 「分からない?『夢見』では見なかったのか?この先の事を。」

  トルヴァの破滅を見たのなら、ブライニクルがそこにどのように関わるのか、エスメラルダがど
 うなるのか、分かるはずだ。
  そもそも、さっきから少女の口ぶりはおかしい。
  もしかしたら、かもしれない。
  まるで、全てが推察でしかないような。
  ハッシュは少女の大きな震える目を覗き込む、少女の喉が、ひくりと動いた。
  分からないのです、と。

 「そう。エスメラルダの言った事は正しい。私は、何処かで粉牽きやパンでも作って生きるべきだ
  ったんです。ブライニクルとエスメラルダに拾われてから、それに甘えるのではなく、何処かで
  普通に生きる術を身に着けて、旅立てば良かった。」

  か細い声は、小さく、しかし絶叫と同じだけ喉を震わせていた。

 「私には、旅芸人として、生きる術がないのです。」

  ハッシュの眼を見て、自分の眼を歪ませた少女は、今にも泣きだしそうだった。
  その顔と声で、短い呼気の間に今まで語られなかった少女の事を告げた。

 「私には、歌も、踊りも、獣を使う術もありません。ましてや『夢見』だなんて。あれは、なんの
  取り得もない私にブライニクルが与えたものです。」
 「あれは嘘だったのか!?」

  叫んだのはウラヌスだった。
  王と王妃の前で嘘を吐いたのか、と叫ぶ大司教に、少女は喉だけではなく肩も震わせ、全身で叫
 び返した。

 「嘘じゃありません!あの『夢見』の内容は本物です!……ただ、私が『見た』わけじゃない……。」

  最後は、掠れていた。

 「あの夢を『見た』のは、全て、ブライニクルです。ブライニクルこそが、本当の『夢見』。」