旅芸人達が密やかに慌ただしくルクレチアを去る準備を進める頃、子を孕んだ王妃を内包するル
 クレチア城では、今宵も王妃が吟遊詩人を呼びつけていた。
  初産を迎える王妃は、悪阻も酷く、いつにもまして不機嫌で我儘であった。気に入らない事があ
 ると、身の回りにあるものを見境なく侍女達に投げつけ、先程も兵士達にも水差しをぶつけて切り
 傷を作らせたところだった。
  王妃は美しい。
  それは、妊婦となった今でも変わらない。
  黙っている王妃の姿は、それだけで見る者を圧倒させ、その美しさ故に全てを許してしまいたく
 なる気分にさせるだろう。
  だが、王妃の身の回りの世話を任せられた者達には、既にその効果が絶えて久しかった。幾度も
 幾度も王妃の我儘に振り回され、その度に配置換えを頼んでも、王妃の不興を恐れる大臣達の所為
 で望みは受け入れられない。
  王妃の周りに一生涯就く事を定められた兵士や侍女は、その事実に対してもはや諦観の念を抱き、
 一日一日を王妃の我儘に耐え、不興を買わぬように生きるしかなかった。
  それ故、彼らはトルヴァが夜分に王妃のいる閨に入る事も、黙認していたのである。
  彼らのほとんどは、トルヴァを間男と見做していた。
  だが、その事実を知っていても彼らはトルヴァが王妃の閨に入る事を止めようとはしなかったし、
 その事実を大臣、引いては王の耳に入れようとは断じて考えなかった。
  トルヴァが王妃の閨に入るのを黙認しているのは、むろん、王妃に逆らう事で逆上した王妃の不
 興を買う事を恐れたからだ。
  そして王妃とトルヴァにあるであろう不貞を誰にも知らせなかったのは、不貞を黙認、それどこ
 ろか手引きしたと考えられて処罰される事を恐れた為だ。
  大臣達は自らの保身の為に、そして今や兵士から侍女に至るまでもが保身の為に、ルクレチアの
 中で起こっている物事に口を閉ざしていた。
  それがなければ、とハッシュは後々になって思う。
  皆が皆、保身を考えなければ、これから起こるであろう悲劇の連鎖は食い止められたはずなので
 はないか、と。
  しかし、旅芸人が予言した『夢見』は、決して覆らないのだ。
  そして覆らぬ『夢見』――トルヴァの破滅は、その夜、切り裂くような悲鳴によって開幕を告げ
 た。

 「王妃様のお部屋から悲鳴が!」

  トルヴァが王妃に呼ばれ、兵士や侍女に見過ごされて閨に入ってから一刻と経たぬ頃、女の、絹
 を裂くような悲鳴が王妃の部屋と兵士が見張りをする通用門を繋ぐ長い回廊を駆け抜けて聞こえて
 きた。それは、トルヴァがやって来ると必ず王妃の部屋から距離を保つ侍女の耳にも届いた。
  兵士達は王妃のただならぬ悲鳴に、吟遊詩人が何かしたのではないかと頷き合い、侍女に他の兵
 を呼んでくるように告げて自分達は長い回廊を走って王妃の部屋に向かった。
  この時、彼らの脳裏に、吟遊詩人が王妃の身に何かをしたのではないか、その結果如何ではトル
 ヴァが王妃の閨に入る事を見過ごした自分達に何らかの処分が下されるのではないかという思いが
 通り過ぎ去ったのは事実だ。だから、彼らは王妃の部屋に入る瞬間を、躊躇ったのだ。
  騎士団長であるハッシュが駆けつけて来るまで。
 王族に関わる者の火急の件となれば、当然、騎士団長であるハッシュはやって来る。ハッシュは、
トルヴァが王妃の寵愛を受けている事は知っていても、それがよもや深夜の寝床を二人きりで共に
するまでとは考えていなかった。
  それは、保身のあまりに王妃付けの兵士や侍女がトルヴァの振る舞いを如何に固く黙っていたか
 を物語る。
  トルヴァのように王妃の寵愛を受ける者による国政への干渉等の問題がある事を、ウラヌスから
 聞かされてはいるものの、それがまさか閨の問題にも関わっているとまで聞かされていなかったハッ
 シュにしてみれば、悲鳴の上がった王妃の部屋で躊躇して立ち止まっている王妃付きの兵士の姿は、
 単に王妃の部屋で行われている惨事に怖気づいてるだけにしか見えなかった。

 「何をそんなところで立っている!」

  王妃を助けるという任務を放棄している兵士達を怒鳴りつけ、ハッシュは彼らを押しのけて腰に
 帯びた剣の柄に手をかけながら、半ば突き破るようにして固く閉ざされている鉄の扉を押し開いた。
  間男を招いた王妃の部屋は、鍵などかかっていなかった。
  あっさりと開かれた両開きの鉄の扉の中を見て、ハッシュは息を呑んだ。
  それは、恐る恐るハッシュの肩越しに中を見た兵士達も同じ事だった。
  だが、王妃の部屋の中にある光景は兵士達が思い描いた何れのものとも違っていた。
  部屋の中には、兵士達が間男と見做しながらも王妃の不興を買う事、間男を手引きしたと見做さ
 れ処罰される事を恐れて見過ごしてきた吟遊詩人の姿は何処にもなく。
  代わりに、黒々とした影が羽ばたいていたのだ。
  部屋の中にみっしりとこびりついた影は、角を生やした顔を首を捩じってハッシュ達の方へと向
 ける。そこには剃刀色の瞳が三日月のようにほっそりと裂けていた。そして、もはや何処から何処
 までが背で、腕なのか分からぬ闇の中に、微かに紫紺の髪が埋もれている。

 「王妃殿下!」

  ルクレチアには、紫紺の髪を持つ者は一人しかいない。
  ハッシュは、巨大な翼と角を持つ巨大な闇がなんであろうと、それが王妃をかどわかそうとして
 いると見てとり、素早く剣を抜き放った。金属が擦れ合う音を立てて抜き放たれた白刃に、しかし
 それを見た闇は顔に赤い笑みを浮かべただけだった。
 
 「貴様、何者だ!今すぐ王妃殿下を離せ!」
 『何故?』

  ハッシュの声に対して、応えはまるで地から響くような声だった。

 『何故、我が貴様らの命じるままに動かねばならん?下等な人間如きに。』

  かかと嗤い、闇は剃刀色の眼を光らせた。
  そして、肩と翼で半ば隠れながらも、凄惨と分かる笑みでハッシュ達を射抜く。

 『我が名は魔王オディオ。この澱みに満ちた国に根差し生きる者。それを受け継ぐこの国の次代に、
  我が血の祝福を与える為に降臨した。ありがたく思うが良い。次代は、我が血を引く者としてこ
  の国を治めるのだから。』
 「何……?」

  次代というのは、今まさに王妃の腹の中にいる子供の事だろう。
  それが魔王の血を受け継ぐとはどういう事なのか。
  酷く悍ましい言葉を聞いたような気がして、ハッシュは微かに身震いした。
  魔王と名乗った影は、それ以上の説明は不要と感じたのか、それとも最初から説明などするつも
 りはなかったのか、大きく翼を羽ばたかせた。

 「……待て!」

  ゆっくりと浮き上がって、背後にある窓にその巨大な闇を吸い込ませるように身を引く魔王の姿
 に、ハッシュは抜いた刃を躍り掛からせた。
  それは確かに魔王の部屋いっぱいに広がった翼を両断した。
  はずだった。
  しかしまるで影を切ったかのように手応えはなく、それを証明するように魔王はするりと窓を潜
 り抜けると、再び夜空に巨大な羽を広げ、その黒々とした影を音もなく空を通り過ぎて行った。
  慌てて窓に駆け寄ったハッシュが見たのは、緩やかに城の東にある森へと降りてゆく影だった。
  そこは、この国が外界と繋がる唯一の道がある場所。
  旅芸人達がやって来て、そしてやがて去る道がある場所でもあった。

 「王妃は!王妃殿下は!」

  呆然とするハッシュの背後で、ようやくやってきた大臣が口から唾を飛ばしながら喚き声を出し
 ていた。しかし、王妃の部屋にはハッシュと、立ち竦んでいる兵士以外には誰一人としていない。
 王妃は、魔王と名乗る謎の者に、唐突に攫われてしまったのだ。

 「馬鹿な……!魔王などが、魔王などが、この国に訪れるはずがない!教会にも寄付をしているし、
  慣例通りにミサも行っているではないか!」
 「しかし、実際に魔王は現れた!」

  神の恩寵がなく魔王に狙われるわけがないと騒ぐ大臣に、ハッシュは愕然としたまま、それでも
 叫び返した。
  王妃がいなくなったと騒ぐ大臣の気持ちは良く分かる。王妃がいなくなった事が近隣諸国――特
 に王妃の父の耳に入れば、ルクレチアという国は一瞬でその咎によって滅ぼされてしまうだろう。

 「急げ!急げ王妃を探し出して魔王から取り返せ!しかし、ああ、兵士達は一体何をしていたのだ!」

  保身を考える大臣の矛先は、とにかく責任を誰かに取らせようと、やはり保身に回って動けない
 兵士達に向けられる事となった。
  兵士達にしてみれば、此処で下手な事を言えば、自分達がトルヴァと王妃の不貞を看過していた
 事がばれてしまう。しかし、このまま王妃が魔王に攫われた事に対する責任を取らされるのもおも
 しろくない。
  だから彼らはこの場から消えてしまったトルヴァに、全ての罪を押し付ける事にしたのだ。

 「あ、あれはトルヴァです!」
 「何?」
 「王妃様の悲鳴が聞こえる前、トルヴァがやってきて、我々に歌を聞かせたのです!その歌を聞い
  た瞬間、我々の身体は動かなくなり……その隙に奴は王妃様の部屋に!」

  トルヴァの歌に魔術があるのではないかという話は、ウラヌスを介して皆が知っていた。だから、
 大臣はすぐにその案に飛びついたのだ。
  ルクレチア国家の対面を保つ為にも、それが一番良い手段にも思えたのだろう。

 「そうか!旅芸人の奴らは皆グルだったのか!人間の皮を被った悪魔だったのだな!王妃殿下を攫
  い、ルクレチアという国を牛耳ろうとしたのだ!」

  王妃におもねり、旅芸人達の逗留を許可したとは思えぬ台詞だった。 
  しかし、ハッシュが異論を挟む間もなく、大臣はすぐさまハッシュに命じる。

 「騎士団長ハッシュよ、今すぐに旅芸人どもを捕えろ!そして王妃殿下の居場所を聞き出すのだ!
  そうだ、ウラヌスも連れて行け!奴め、大司教でありながら、旅芸人どもの正体を見抜けなかっ
  たのだ!責任を取ってもらわねばな!」

  自分の保身の為に、兎にも角にも誰かに責任を押し付けねばならないのだろう。
  ウラヌスと旅芸人達に、全ての罪を背負わせる大臣の声。
  その愚かな声を嘲笑うかのように、窓の外から轟音が持ち上がった。それと同時に、ルクレチア
 にはこれまで起きた事もない地鳴りと地震が、激しく城の壁や床を軋ませた。
  責任を擦り付け合う者どもに恐怖を刻み付けるかのような城の揺れの中、ハッシュは一人窓の外
 を見やり、絶句した。
  王妃を攫った魔王が舞い降りた森の中。
  平坦に続いていた森が、めりめりと音を立てて持ち上がっているのだ。土という土が絡まり合い、
 岩という岩が全てを支えながら、尖塔のように鋭く、幾つも連なり合いながら、槍のように高く高
 く天を目指している。

 「山が……。」

  おそらく、それは時間にして数分もかからなかっただろう。
  その数分の間に、森の中には、鋭い岩肌を剥き出しにした山が聳え立っていた。
  王妃を連れ去った魔王の力を誇示するように。

 「……旅芸人達の元へ行く。」

  もはや、何が起こっているのかハッシュには分からなかった。
  しかし、王妃が攫われたという事実を見過ごす事など出来るはずもなく、それに対して何らかの
 事情を知っているかもしれないのは、やはり旅芸人達であろうとも思われたのだ。
  仮に彼らが何も知らなくとも、世界を渡り歩いてきた彼らならば、魔王と呼ばれる存在について
 何らかの知識を持っているのではないかとも考えられた。
  手早く支度をし馬を呼び寄せて、ハッシュは急いで旅芸人達が逗留している場所へと向かう。
  だが、そこには昼間はあったはずの立ち並ぶテントは何処にもなく。
  ただ、ぽっかりと何もない広場が広がるだけだった。