大きく開かれたテラスからは、夏の強い色を滴らせた木々の色合いが濃く見えた。そこから聞こ
 えるのは鬱陶しいほどの虫の鳴き声で、王妃などはその音が一層暑さを誘うと言って、兵士達に虫
 達を一掃するようにと無茶な命令を投げかけていた。
  困り果てた兵士達を助けたのは、今や王妃のお気に入りで片時も傍を離れないトルヴァだ。
  トルヴァは暑さにうんざりしている王妃に、常に氷に閉ざされているという遠い国の歌を聞かせ
 たのだ。トルヴァが歌を歌い始めた瞬間に、一瞬周囲が涼しくなったような気がしたから、やはり
 その歌声には魔法がかかっているのかもしれない。
  だとすれば、やはりウラヌスの言うように、危険な事なのかもしれなかった。
  ブライニクル達には、恐らく魔法でルクレチアをどうにかしようというつもりはないだろう。根
 拠はなにかと問われると困るが、しかしブライニクル達にとってルクレチアを牛耳ったところでな
 んの旨みもない事も確かなのだ。
  しかしその一方で、トルヴァはこの国を足掛かりにして伸し上がると明言している。その為に王
 妃に近づいたという事は、魔法で王妃をどうにかしようと考えているのではないかと思われても仕
 方がない。
  ただ、とハッシュは『夢見』である少女の言葉を思い出す。
  トルヴァは破滅する。
  王女懐妊の裏に隠されていた、もう一つの予言。
  今、王妃にすり寄り、それを足掛かりに成り上がろうとしている若い吟遊詩人は、自分の目の前
 に広がっている破滅の道など全く知らないのだ。
  それを知るのは彼の仲間であった旅芸人達だけ。
  だが、とハッシュはふと思う。
  何故、トルヴァが破滅するという『夢見』を、ブライニクルもエスメラルダも告げてやらないの
 か。それを告げる事で回避できる未来もあるかもしれないのに。
  例えば、今回の王妃懐妊の予言についても、もしも積極的に政治に介入しようとする貴族や臣下
 がいたのなら、王妃を隔離するなりなんなりして、懐妊を回避する事も出来なくはないのだ。
  ならば、トルヴァの破滅も、それをトルヴァが知る事で回避できなくはないのか。エスメラルダ
 が動くよりも何よりも、それが一番な気がする。
  思って、いいや、とハッシュは思い直す。
  それでも、絶対に起こりえないなんて事はないのだ。
  王妃の懐妊とて、そんな簡単に回避できるような話ではない。何処かの神話に出てくる、子を産
 まぬように娘を石牢に閉じ込めたとしても、結局その神話でも娘は子を孕んでしまった。神話と現
 実は違うと雖も、そもそも王妃をどうやって隔離せねばならぬのか。
  王と王妃の間を冷え切ったものにしてしまい、そこにつけ込んでという方法も考えられるが、そ
 の為には、王に対しても何らかの口利きをせねばならない。しかしそれは一朝一夕で成り立つもの
 ではない。そうした陰謀は、何年もかけた下地があってこそ成り立つものだ。そうでなければ、世
 継ぎが生まれる王妃懐妊という吉事を、誰が何故妨げようか。
  そして、トルヴァの破滅は、トルヴァが旅芸人達の諫言を聞き入れなければ避ける事は困難だろ
 う。『夢見』は必ず当たる、という事はトルヴァも知っているはずだ。だが、その『夢見』をブラ
 イニクル達の作り話と判断する可能性とて有り得る。仮に信じたとしても、果たしてトルヴァは再
 び同じような事――権力者に近づいて成り上がろうとする事を、止められるだろうか。
  人が、根本を変えるという事は難しい。性根を入れ替えるのは、果てしなく困難だ。それを、ト
 ルヴァに出来るとは、ハッシュには思えなかった。
  だからこそ、誰も彼もが『夢見』の内容について口を閉ざしているのか。エスメラルダでさえ。
  それは、『夢見』の少女があの時見せた諦観にも似たものだった。
  再びそれを感じたハッシュは、唐突にトルヴァが憐れに思えてきた。
  王妃に取り入り、それを名を売る為の道具としてしか見做していない吟遊詩人。
  決してルクレチア国民からは受け入れられず、同情など出来ない考えなのだが、最も近しいはず
 の旅芸人にまで諦めの眼で見られるという事は、王妃に捨てられたらもはや帰る場所はないという
 事と同義だ。
  何処にも行く場所がない。
  それは、ルクレチアという国から出る事はなく、そこ以外に居場所がないハッシュにとっては憐
 れであると同時に、酷く恐ろしい事に思えたのだ。

 「まったく、困ったものだ。」

  苦み走った声を出した方向を見れば、珍しい事に王宮の奥にまでウラヌスが来ていたのだ。
  朝議の為に、謁見の間や執務室にやって来る事はあったが、こうしてサロンに近い場所にまでや
 って来る事はこれまでなかった。それほど、今の王妃とトルヴァの状況を苦々しく思っているとい
 う事だろうか。

 「王妃の成す事に臣下が誰一人として諌める者がいないという事態が問題なのだ。あの吟遊詩人や
  旅芸人に、本当にこの国を牛耳る意志があったとしたら、我が国は成す術なく乗っ取られる事に
  なる。」

  それは確かにその通りだ。
  しかし、ハッシュはトルヴァがそれを成す前に破滅する事を、予言として聞かされている。

 「あの吟遊詩人は大丈夫だろう。」
 「何を根拠に。」

  じろりと睨まれたが、しかしこれで予言を口にすれば、また顔を顰めてしまいそうだ。
  ハッシュが黙り込んでいると、ウラヌスは小さく溜め息を吐いた。

 「あの吟遊詩人がルクレチアを牛耳なかったとしても、また同じように王妃が誰かを傍に置けば、
  いつかはそれを利用しようとする輩も現れるだろう。誰かがそれを諌めなくては。」

  王妃が傾国に関わるなど、あってはならない事だ。
  他国では往々にして良くある事だが、ルクレチアでは決してない事なのだから。

 「そういえば、王妃懐妊の予言はどうなった?」

  王妃と吟遊詩人の事を考えれば、自然と予言について思い出されたのだろう。未だに懐妊の兆し
 のない王妃を見れば、気にならないわけがない。ましてや、ブライニクルは首をかけるとまで言っ
 たのだから。
 
 「近々、そうなるだろうと。」
 「ふん、随分と大雑把な事だ。」

  ウラヌスが、不機嫌そうに呟いたその時。

 「王妃様!」
 「お気を確かに!」

  トルヴァと共にテラスへと出ていた王妃のいる方から、王妃付きの女官達の悲鳴にも似た声が上
 がった。
  何事かとハッシュとウラヌスが眼を剥いていると、忙しなく女官達が駆けていく。

 「王妃様がお倒れに!」
 「なんだと、医者を早く!」

  慌ただしい衣擦れと、怒号。王妃の身体が、何人もの兵士達に抱え上げられ、後宮へと運ばれて
 いく。その流れに逆らうように、女官が医師を呼びに、まろぶように駆け去っていく。
  テラスの外がら聞こえていた煩い虫の声が、まるで嘘のように遠くへと掻き消されていき、女官
 の声がそれに取って代わる。
  周囲にいた貴族達が皆一様に不安そうな顔をしたのは、このまま王妃の身に何かあったら、自分
 達に咎が向かうのではないかと恐れたためだろう。中には、そのまま自分の屋敷に帰ってしまおう
 とする者までいる。
  皆が愕然とした慌ただしさにいる中、トルヴァだけがただ一人薄ら笑いを浮かべているのが、ハ
 ッシュの眼に映り込んだ。




  それから数時間後、王妃を診察した医師が、厳かに宣言した。
  王妃殿下、御懐妊、と。