剣を鞘に納めたブライニクルは、それ以上は特に話す必要はないと判断したのか、再び剣を身体
 の下に仕舞い込むと、ごろりと寝返りを打ってハッシュに背を向けてしまった。
  その背に向かって、ハッシュは彼が命をかけるとまで言った予言について問う。

 「お前達がこの国にきて、そろそろ一か月だ経つ。だが、王妃殿下が懐妊される兆しはない。それ
  でも、お前はあの予言を撤回しないのか。」
 「撤回する必要がない。」

  背を向けたまま答えたブライニクルの声には、予言を口にした時に垣間見えた自信は鳴りを潜め、
 憂いが大きかった。それは、予言に対しての自信が揺らいでいるからではないのかとハッシュが勘
 ぐっていると、ブライニクルは憂いを含んだままの声で、しかしそれだけは譲れないと言わんばか
 りに頑強に告げた。

 「『夢見』の予言は過つ事がない。まだその時が来てない……それだけさ。」
 「だが、お前は春の芽吹く時に御子が生まれると言った。」
 「ならば、そろそろ兆しが見えてもおかしくはない。」

  言いながら、ハッシュは自分がこの予言が当たって欲しいのか、外れて欲しいのか、良く分から
 なくなってきた。
  ウラヌスの言うとおり、ブライニクル達旅芸人が危険ではないという確証は何処にもない。それ
 を考えたなら、この懐妊の予言が何かルクレチアというの根底を揺るがす事態を孕んでいてもおか
 しくはない。ならば、このまま予言が外れたほうが、旅芸人という外部からの介入がないまま、ル
 クレチアは退屈で平凡ながらも穏やかな日々を過ごす事が出来るだろう。
  しかし、王妃懐妊という事実そのものは、決して不幸な話ではない。
  世継ぎの誕生。
  女王が認められているルクレチアでは、生誕するのが男児であれ女児であれ、世継ぎとして認め
 られる。世継ぎの誕生は時として政治権力の格好の材料となるが、ルクレチアにはそうした原因の
 一つである側室はいないし、王妃の父親もそうした権力から娘を遠ざける為にルクレチアに嫁がせ
 たのだから、孫を利用してルクレチアを牛耳ろうなどとは考えていないだろう。
  尤も、ルクレチアには牛耳るに足るだけの資源も財源もないのだが。
  だから、王妃の懐妊とは、ただ単純に喜ばしいだけの話だ。それに、予言が外れる事により血が
 流れるのを考えれば、当たった方が良いのだろうと思う。

 「ああ、そろそろだろうよ。」

  はっきりと、だが憂いを消さぬまま、ブライニクルは告げた。

 「おそらく、今日から一か月と経たぬうちに、王妃には懐妊の兆しが見える。それが、昨夜の『夢
  見』だ。」
 「なに……?」
 「ここまで何度も同じ『夢見』が繰り返された以上、これは決して外れない。誰にも止める事は叶
  わない。王妃が懐妊され、そして子が生まれるまで、王妃は何があっても生き長らえる。如何な
  る凶刃も、その命を取ることは出来ない。」

  それは、王妃の無事を予言するものだった。
  だが、その語り口調に不吉な色が混ざっているように聞こえたのは何故だろうか。ハッシュが怪
 訝な顔をしている事にブライニクルは気が付いているだろう。
  聡い彼が、気づかぬはずがない。しかしそれ以上は語る言葉はないのか、ブライニクルはうんと
 もすんとも言わなくなってしまった。
  黙り込んでしまった旅芸人の長は、既に視界からハッシュを外してしまったようだ。
  何をしても反応しなくなったブライニクルに、これ以上の言葉を聞き出すのは不可能と感じたハ
 ッシュは、仕方なく異国の香りの漂う天幕から出ていく。
  薄茶色の幕を捲って外に出たところで、ひく、としゃくり上げるような音が足元で上がった。
  視線を下に向ければ、痩せた小さな顔が花器を持って立っている。
  茶色と見まがうほどの濃い赤のローブに身を包んだ身体は、そのまま震えだしそうなほどに痩せ
 ており、顔の中で青い眼か大きく見開かれている。癖のない茶色の髪の下にある顔を見て、ハッシュ
 はようやくそれが誰なのかを思い出した。
  旅芸人達の異彩を放ちつつも豪奢な宴の中で、一人平凡な香りを浮かべていた少女だ。
  せむしや片端のような奇人というわけではない。
  しかしブライニクルやエスメラルダ、トルヴァのように端正なわけでもない。
  ひたすらに平凡で、何処にでもいそうな、少しおどおどした少女。
  だが、この少女こそが、王妃懐妊の予言を下した『夢見』なのだ。
  トルヴァが自分の手元に置きたいと望み、それをブライニクルが拒んだ、旅芸人の中で内戦を引
 き起こす原因となった少女。とてもそんなふうには見えないが、彼女こそが夢の中で未来を見通す
 事が出来る力を持っているのだ。
  しかしそんな力などどう見ても今は皆無の少女は、ハッシュを見上げてすぐに眼を逸らしてしま
 った。旅芸人の中に埋もれてしまいそうな少女は、今にも消えてしまいそうだ。

 「『夢見』か。」

  話しかけただけで、その身体は小さく揺れた。それを見て、ハッシュは慌てた。怯えさせるつも
 りなどないのだ。

 「いや、怯える必要はない。私はこの国の騎士団長を務めているものだ。」

  知っております、と小さな声が答えた。震える糸のような声で、『夢見』はかぼそく告げる。

 「貴方は騎士団長のハッシュ様。長よりお話は聞いております。」

  何かご用でしょうか、と尋ねる少女に、いや、とハッシュは口ごもった。
  そして嘘ではないが、事実でもない台詞を口にするに留まった。 

 「そう、トルヴァがお前に逢いたがっていたと思ってな。」

  確かにトルヴァは『夢見』を手元に置きたがっている。だが、それは逢いたいなどという可愛げ
 のある思いとは、まったく別のものだろうとハッシュは理解している。
  その事は少女も気づいているのか、茶色い短い睫を少し伏せた。

 「……私は、トルヴァには相応しくありません。トルヴァには、どうか長に謝罪をし、戻ってくる
  ようにとお伝えください。」

  私には、エスメラルダの言うように、粉牽き屋やパン屋などが相応しいのです。
  少女は痩せた頬に切実さを込めた。

 「私が此処に『夢見』としていられるのは、単に長のおかげなのです。ですから、私には長を軽ん
  じ裏切ってまで トルヴァの傍に侍るつもりはないのです。」
 「素晴らしい忠誠心だな……。だが、それほどにブライニクルは絶対なのか?」

  少女がブライニクルに恩義を感じている事とは、また別の問題であるのかもしれないが、それほ
 どまでに旅芸人の長というのは絶対的なのだろうか。
  ブライニクルの物言いには、誰も逆らわないのだろうか。

 「長は、私の知る限り、過った事を口にした事はありません。」

  途端に、少女の声は先程までの怯えた様子を掻き消して強いものとなった。眼は相変わらず伏せ
 たままだったが、小さいが覇気のようなものも見られる。

 「勿論、今回のトルヴァの事のように、長の手ではどうする事も出来ない事もあります。ですが、
  長の諫言は必ず真を突いております。それに逆らうトルヴァの行先は、決して良いものではない
  でしょう。仲間なので、それをどうにかしたいとは思うのですが。」

  それは出来ないのだろう。
  トルヴァの様子を見れば、トルヴァがブライニクルに頭を下げて、旅芸人の中にもう一度入るの
 は、彼の矜持が良しとしないだろう。

 「エスメラルダは、どうにかしてトルヴァを止めようとしておりますが……。私も長にお願いはし
  ましたが、ですが、恐らく無理でしょう。トルヴァは旅芸人には戻らず、この国で不幸に朽ち果
  てる……。」

  少女の口から突いて出た言葉は、トルヴァが王妃に飽きて捨てられる事を指しているのか。
  いや、それ以前に。

 「それも、『夢見』か?」

  問われて、少女は、はっとしたようだった。そして覇気を再びなくし、おどおどとした様子を見
 せ、溜め息を吐いた。

 「……はい。これも『夢見』でございます。」

  ブライニクルはトルヴァに、トルヴァが大成する『夢見』はないと告げた。だが、その代わりに、
 破滅の『夢見』はあったのだ。だからこその、諫言。
  エスメラルダは自分の二の舞だけではなく『夢見』があったからこそ、なんとしてでもそれを回
 避させようとしているのだ。
  何がそれほどまでにエスメラルダを動かすのかは、分からないが。

 「『夢見』とは、それほどに当たるのか?」

 予言を告げる少女に対し、その疑いの言葉は酷かもしれないと思った。
 だが、少女は目を伏せたまま頷いただけだった。

 「『夢見』が外れた事はないのです。一度も。恐ろしい事に。」

  故に、トルヴァには破滅しかないのだ。

 「エスメラルダは優しい、私の事も、トルヴァの事も心配して、なんとか『夢見』に抗おうとして
  くれている。けれども、止まらないのです。これは、決して。」

  王妃懐妊という喜ばしい予言は覆らない。
  しかし同時に、トルヴァの破滅も、確定しているのだ。
  ルクレチアにとっては、トルヴァの事などどうでも良いのだから、喜びしかないだろう。
  だが、旅芸人達にとっては。
  ハッシュは少女を見下ろし、その顔には既に諦観の念が浮かんでいるのを見てとった。もはや、
 これは諦めるべき事なのだ。ただ、エスメラルダだけが、なんとしてでも止めようと動いているだ
 けで。けれどもその手段はないと『夢見』が告げている。

 「エスメラルダの力ではこの事実は動かせません。もしかしたら、エスメラルダの動きさえ予言さ
  れているのかも。」

  少女は小さく呟くと、花器を手にしたまま一礼し、走り去って行った。