ブライニクルが立ち去った後の残り香を追いかけるハッシュの耳朶を、冷や水を浴びせかけるよ
 うな渋い声が打った。そちらを見れば、銀縁の黒衣に身を包んだ大司教が、声と同じくらい渋い顔
 をして篝火の明かりの中に姿を現していた。

 「ハッシュよ。あのような者と親しくするのは感心せんぞ。」

  初老に域に達した大司教は、大分曲がった背をそれでも出来る限り伸ばして、皺の刻まれた顔に
 更に厳しい皺を作っている。
  ルクレチアの古びた教会を纏め上げ、王宮の祭事を取り仕切る、この大司教は各国を変遷した、
 ルクレチアには珍しい、他国の事を知る人物である。
  ハッシュが聞き及んだところによると、生まれはルクレチアであるが、幼少の頃にして既に聖書
 についての論文を纏め上げるほどの天才であったとか。その才をと先代国王が認め、十に満たぬ歳
 にして、ルクレチアよりも遥か南にあるという大国の大学に留学し、そこで神学を修めたという。
 そして各地の教会を転々とした後、生まれ故郷であるこの地に戻り、大司教となったのだ。
  彼が大司教となる際に、一悶着あったという話も聞いている。
  なにせ、ルクレチアに戻ってくるなりいきなり大司教の座に任じられたのだ。
  当時、大司教の座に収まっていた者とその取り巻き達の心境は如何ほどのものだったか。ルクレ
 チアの教会は、その時まで全て世襲で、神学を修めていようがいまいが、幾多の教会で任務を務め
 ていようがいまいが、如何に堕落していようがいまいが、かまわなかったのだ。 
  大司教の家系というだけで、大司教になれた時代。
  ハッシュはまだ幼かったから良く覚えていないが、ルクレチアのあちこちで、新しい大司教に対
 する謂れのない誹謗中傷が飛び交っていた事は、なんとなく肌で感じていた。
  しかし、新任の大司教の経歴になんら文句のつけようはなく。
  古い時代を生きてきた教会の家系は、全く以てどうでも良いところを、大袈裟に語り彼は大司教
 に相応しくないと言い募ったのだ。
  曰く、彼の名は、教会に封ぜられるには相応しくない、と。
  今、厳格に、教会の名のもとに、旅芸人達を異教徒として苦々しく思っている大司教の名は、な
 るほど、確かに、彼の名こそ異教の名だ。
  大司教ウラヌス。
  遥か昔に栄えた異教の、空の神の名を与えられた者。
  何故、彼がそんな名を与えられたのかは分からない。
  ルクレチアは元々それほど教会の力は強くはなく、先程言ったように、むしろ貴族達の権力の道
 具として世襲されていた。だから、国民もそれほど信心深くもないし、異教の名を付けたところで、
 実際に大した咎めがあるわけではない。
  にも拘らず、それを取り上げて司教として相応しくないと言ったとしても、誰の耳にも入るはず
 がない。
  結果、ウラヌスは大司教の座に収まり、かつての世襲によって任じられていた者達は、皆がちり
 ぢりになってルクレチア国外に出て行ってしまったのだ。
  所謂、追放である。
  ルクレチアという田舎国家で起こった殺伐とした一大事件と言えば、後にも先にも、この大司教
 就任劇だけだ。
  その当事者であるウラヌスは、そんな事に関わった事などまるでないかのように、ブライニクル
 の去った方向を苦い顔で見つめている。

 「まったく、本来ならば、あのような輩を王宮に入れるべきではないのに、王妃殿下ときたら。ま
 るで事の重大さを理解しておられん。国王陛下も、大臣達も然り。そんな中、国を守る要であるお
 前まで奴らに誑かされてどうする。」
 「誑かされてなど。」

  ウラヌスの台詞に、些かむっとしながらも言い返したハッシュは、何故ウラヌスが旅芸人達に対
 してこのような物言いをするのか、首を傾げる。
  ウラヌスは教会の中でもどちらかと言えば穏健派で、大司教になったからと言って、異教徒に対
 して高圧的な態度をとったり、迫害したりという事はしてこなかった。
  にも拘わらず、今、旅芸人達に対して嫌悪じみた表情を浮かべている。
  それを不審に思ってウラヌスを見やれば、ウラヌスは自分でもその事が分かっているのか、僅か
 ばかり視線を逸らした。

 「あやつらは、ただの旅芸人ではない。」
 「では、何処かの国の間諜だと?」

  国境を越える証明書を持っていたが、あれは偽造だというのか。
  それならば、この、他国からの介入がまるでない田舎国家にやってきた理由はなんだというのか。
 ルクレチアに、その名が示す通り、何か豊富な財源でもあると見込んだのか。
  ハッシュは、そんな事有り得ないだろうという何処か小馬鹿にした口調で、大司教にそう告げれ
 ば、ウラヌスは顔にますます皺を深く刻んで首を横に振った。

 「そんな、即物的な話ではない。」

  手の中にある十字架を弄ぶウラヌスも、何処か困惑しているようにも見える。
  しかし、困惑は罪であると言わんばかりに、口火を切った。

 「奴らは、魔術の嗜みがある。」
 「そのようだな。」

  ウラヌスの口から漏れ出た言葉に、ハッシュは今更だと答えた。

 「それは、旅芸人の長も言っていた。」

  たった今、トルヴァという男の歌には魔力が込められている、と。
  大体、そもそも、旅芸人自体がそういう呪術的なものに関わっている事は、珍しい話ではない。
  だが、ウラヌスは苛立たしげに、違うのだと言う。

 「呪術的なものに関わっているとか、そういう程度の話ではない。奴らには、確かに魔力が宿って
  いるのだ。薬草を煎じたり、星の巡りを読むなどといった子供騙しの呪術ではない。紛れもなく、
  魔に属する力がある。今はまだ何も仕掛けてこないが、もしも何かを企んでいるとしたら、王妃
  殿下が奴らを召している今の状態は、非常に危険な事だ。」
 「だが、王妃が気に入っている吟遊詩人の魔力は、大層なものではないと。」
 「ああ、その通りだ。あの吟遊詩人の魔力など、微々たるものだ。」

  トルヴァの人を虜にする歌については、ウラヌスも魔力の成せる業であると気づいていたらしい。
 トルヴァが王妃の元に身を寄せるようになってから、ウラヌスは毎朝王妃にかけられた呪いを気づ
 かれぬように解いているのだという。

 「あの歌は大層なものではない。おそらく、その他の旅芸人達一人一人の魔力は大したものではな
 いだろう。だが、束になってかかってこられたらどうなるか。しかも、王宮は奴らに対して開かれ
 ている。」

  ウラヌス一人では、抑えきれまい。
  旅芸人達は魔力があるだけではなく、武芸にも通じているのだ。聖書を読み、浄化を促すだけの
 司祭では、数人を抑え込む事が出来たとしても、その他の連中によって踏み潰されるだろう。
  それを分かっているからこそ、ウラヌスは騎士団長であるハッシュに言っているのだ。

 「そんな状態で、この国を守る騎士であるお前まで、奴らに誑かされてはいかん。」
 「誑かされてはいない。」

  先程の否定を、先程よりも強い口調でハッシュは言い放った。
  それは、それほどまでに旅芸人を危険視しておきながらも、この期に及ぶまで口を挟まなかった
 大司教に対する反抗心でもあった。
  それほどまでに危険視するのならば、ブライニクルがこの国を一番最初に訪れて謁見を求めた時
 に危険であると何が何でも言い募れば良かったのだ。そういう思いがあったからこそ、ハッシュは
 反抗心を込めた眼でウラヌスを見やった。

 「私は、誑かされてなどいない。ただ、彼らがいつ出ていくのか、それを確かめていただけだ。彼
  らは自分達の予言が当たるかどうか判別がつくまでは此処に逗留すると言っていた。」
 「それは、あの玉座の前での予言の事か。」

  あの時、あの場に大司教はいなかった。だから、予言の詳しい内容までは知らない。
  ハッシュは頷いて、『夢見』の告げた未来をもう一度ウラヌスに対して放つ。
  それは、ブライニクルの、『夢見』の言葉を口にするのはその言葉を理解できる者でなくてはな
 らないという言葉を信じるならば、只人であるハッシュがしてはならない事であったのかもしれな
 いけれど。

 「王妃は、次の春が芽吹く頃、御子をお授かりになるだろう。それが、彼らの予言だ。それが外れ
  た時は、彼らの長が、自らの首で責任を取る、と。」
 「当たると思うているのか。」
 「当たらねば首を差し出すより他、ないだろう。他ならぬ彼らがそう宣言したのだから。それとも、
  当たらぬように小細工をするつもりか。」

  問えば、ウラヌスは黙り込んだ。
  子を孕ませないようにする事など容易い。王が王妃の閨に向かうのを止めるか、或いは王妃に貞
 操帯でも着けるか。
  しかし、如何に天才と謳われていても、ウラヌスは所詮は田舎国家の大司教だ。
  政治権力の争いがないとは言わないが、せいぜいが小競り合いに過ぎず、それによって血を見た
 事は一度もない国家と国民で、それはウラヌスも同じ事。一番の大事件が、先の大司教の追放劇で
 ある時点で、この国が如何に呑気であるかが分かる。
  そんな国に生まれた天才とて、同じ事。 
  一人の首が飛ぶかもしれないこの予言に対して、如何に気に入らないからといって、そこまでの
 事はするまい。いや、それ以上にそこまでの権限はウラヌスにはない。

 「彼らの事は私も責任を持って見届けよう。大司教殿のお手を煩わせる事はなきように。」

  そう言い置いて、ハッシュはブライニクルが去って行った方向へと自分も同じように足を向けた。