ブライニクルの視線に過たず射抜かれて、ハッシュはうろたえた。
  よもや、ここまで明確に自分の存在が分かるとは思っていなかったのだ。
  このまま黙って立ち去ったとしても、恐らくブライニクルは追いかけては来ないだろうと思う。
 ブライニクルがハッシュに係わったとしても、その行為がブライニクルにとって些かの旨みもない
 事は明らかだった。
  そもそもブライニクルは貴族の前では慇懃に振る舞うが、決してそれは媚び諂うものではない。
 それに、貴族に係わろうとするトルヴァを切り捨てるあたり、彼が貴族と関わり合う事を好まない
 事は明白だった。ハッシュは騎士団長というだけで、歴然とした貴族ではないので、媚び諂ったと
 してもそれに見合うだけのものをハッシュが出せるわけもないのだが。
  とにかく、ブライニクルがわざわざ逃げ出したハッシュを追いかけるという事は考えにくい。
  だが、それでもハッシュがすごすごとブライニクルの前に姿を現したのは、単にハッシュがお人
 好しであったからだ。奇を衒う事が得意ではない田舎の騎士など、そんなものだ。
  先程まで吟遊詩人と踊り子が言い合っていた、冷たい石畳の前に出たハッシュは、その場所が月
 の光の見える、意外と明るい場所であった事に今更に気が付いた。月の光の直撃こそ受けない為、
 周囲からは闇に沈んでいるように見えがちだが、しかし実際にその場所からは周囲が良く見える。
  だから、ブライニクルもハッシュに気づいたのか。言い争っているトルヴァとエスメラルダは気
 づかなかったが。
  自分がなんとなく間抜けに思えてきて、ハッシュは項垂れる。
  そんなハッシュを、ブライニクルはいつもの口角を持ち上げただけの笑みで見つめる。

 「本当に、騎士殿は立ち聞きがお好きなようで。」
 「聞こうとしたわけではない。」
 「あの二人が広間から出て行ったのを追いかけたのに?」

  そこから見ていたのか。
  言い逃れが出来ないままに、ハッシュは黙り込む。

 「あの二人の何が気になったのかは知らねぇが、あまり俺達の事に関わらないほうがいいぜ。俺達
  は旅芸人だ。一つの所には収まらねぇ。それが時として、迫害を招く事だってある。」

  何処かの国の間諜として。
  そうでなくとも、家を持たぬ物乞いとして。
  或いは、民の不満の眼を余所に向けようとする権力者達によって、何らかの言いがかりを付けら
 れる事もある。

 「だが、トルヴァとやらは、置いていくつもりだろう?」

  関わり合うな、と言いながらも、自分達の一部を置いていくつもりの男に、ハッシュは小さく問
 いかけた。
  それは問いかけというよりも独り言と言っても良いようなものだったが、ブライニクルはそれを
 聞き逃さずに頷いた。

 「王妃様の腹が膨らむまでは、俺達も此処にいるさ。」
 「どういう事だ?」
 「『夢見』を告げた。それに対して俺は首を懸けて責任を取ると言った。なら、予言通り王妃の腹
  が膨らむまで、俺達は此処に逗留する。」

  あの夜の言葉を果たそうとするブライニクルには、何の気負いもなかった。
  呼吸するかのように責務を果たそうとする男は、軽い口調のまま続ける。

 「それまでにお前達の王妃があいつに飽きなけりゃ、置いていくさ。」

  その言葉は、エスメラルダの台詞と被るところがある。彼の妹も、同じくトルヴァは王妃に飽き
 て捨てられると告げていた。
  しかし大きく違うのは、ブライニクルの声の中にはそれを信じていない色が含まれている事だ。
 ブライニクルは、王妃がトルヴァに飽きるとは思っていないのだ。

 「トルヴァの歌の所為で、王妃が離れられなくなるという事はないだろうな?」

  『呪歌』。
  エスメラルダもブライニクルも、揃ってトルヴァの歌の事をそう言っていた。
  ハッシュは騎士だ。呪い事には疎い。しかし、それを抜きにしても、『呪歌』という言葉には、
 何か魔法がかったものが嗅ぎ取れた。そんなものを王妃に聞かせているとなれば、放っておくわけ
 にはいかない。
  だが、ブライニクルはゆったりと首を振る。

 「確かに、トルヴァの歌にはある種の魔法がかかっている。だが、それはそんな大層なもんじゃね
  ぇよ。せいぜい、一時的に歌を聴いた人間を虜にするだけのもんさ。しかも何度も同じ歌を聞か
  せてりゃ効かなくなってくる。その程度のもんだ。大体、あいつの呪いにはあいつ自身の顔が大
  きく関わってくる。あいつが世にも醜い男だったなら、呪いの効果は半減するだろうよ。つまり、
  あいつの呪いに罹るのは、あいつの顔に見惚れた人間だけだ。動物には全く効果がねぇし、男に
  は効きにくい。」

  顔に飽きれば効果は皆無だ、と続けて、ブライニクルは首を竦めた。

 「王妃にとってのトルヴァの歌がそう長く続くとは思えない。トルヴァだって新しい歌を幾つも作
  る事はできねぇだろう。あいつは吟遊詩人を気取ってるが、吟遊はともかく、詩人としての才能
  は皆無に等しいからな。どうせ、すぐに飽きる。」
 「そのわりには、それを信じていないようだが。」

  ハッシュが慎重に言葉を紡ぐと、ブライニクルは一瞬眼を見開いて、そうか?と首を傾げた。
  とって付けたような仕草だったが、それを追及するよりも先に、ブライニクルが言葉を紡いでし
 まった。

 「まあ、俺はどちらでも良いからな。トルヴァが旅芸人に戻ってこようが、このまま離れて行こう
  が、どちらでも問題ない。」
 「だが、お前の妹はそうは思っていないようだった。」
 「ああ。」

  ブライニクルは、ハッシュの言葉に、密やかに笑って見せた。
  そして密会をするかのようにハッシュにすり寄ると、やはり密やかな声で囁いた。

 「俺の妹は何故だが母性愛が強い。トルヴァに拘わらず、若い連中に対して世話を焼きたがる。若
  い奴らが道を踏み外しそうになってりゃ、飛んで行って道を正してやろうとする。あいつは、ト
  ルヴァが自分の二の舞を踏むんじゃねぇのかと思って冷や冷やしてんのさ。」
 「二の舞………?」

  王妃――王侯貴族の元に身を寄せようとしているトルヴァが二の舞とは、どういう事だろうか。
  ハッシュの問いに、ブライニクルは旅芸人とは思えないはんなりした笑みを見せた。

 「知りたいのか?」

  うっとりと首を傾げるブライニクルは、男であるにも関わらず遊女のような艶やかさでハッシュ
 にこれは秘密なのだがと囁いている。
  踊り子の妹も顔負けのしなやかな仕草は、もしかしたらエスメラルダよりも婀娜っぽいかもしれ
 ない。
  ブライニクルの細い、指輪を幾つも付けた指は、悪戯にハッシュの胸を覆う鋼の鎧の上を辿って
 いる。その感触は、もちろん感じないはずなのだが、ハッシュは思わず身震いしそうになった。
  が、そんなハッシュを弄ぶようにブライニクルは、つと身を下げる。

 「だが、こんなとこで話すような話でもねぇ。何より、此処で変な真似をしたら天罰が下りそうな
  顔をしてる奴がいやがるしな。」

  ハッシュから視線を外し、ゆったりとした動作で肩越しに背後を見るブライニクルの視線の先を
 見れば、そこには黒い法衣の裾が篝火に照らされた石畳の上に見えた。
  銀の縁取りのあるそれは、王宮に使えるものならば誰でも知っている大司教のものだ。
  それを一瞥したブライニクルは、く、と喉の奥で笑うと、ハッシュの頬を小さく指で掠めて、そ
 の一瞬の間に蕩けるような声をハッシュの耳に吹き込む。

 「だから、また今度、な……。」

  指輪だらけの指をハッシュの肩に最後に置いて、ブライニクルは足音を立てずに広間に続く道を
 下って行った。