王妃がトルヴァを呼び出して以降、トルヴァはまるで王宮に召し抱えられたかのように現れるよ
 うになった。
  我が物顔で、王宮の大理石の床を踏みしめる吟遊詩人は、しかしその特異性によってほとんど咎
 められる事はなかった。トルヴァの歌声は、田舎の貴族達の耳にも十分にその質が分かるものであ
 って、王妃曰く田舎臭いサロンの中で、宝石のように光り輝いていた。
  それに何よりも王妃の寵愛を受けている事が一目瞭然であった為、諫言よりも保身のほうが得意
 なルクレチアの臣下は皆、トルヴァを表だって悪し様に言う事は出来なかったのである。
  故に、トルヴァは昼夜問わず王宮に出入りし、むしろ一日のほとんどを王妃の傍で過ごしている
 ようだった。
  その一方で、旅芸人達のトルヴァに対する視線は日に日に冷たいものへと変化していった。
  それは氷柱のように突き刺すような視線ではなく、憐憫と困惑に満ちた、ともすればトルヴァの
 誇りを傷つけるような眼だった。
  その眼の中には、彼の『夢見』の視線も混ざっていたから、トルヴァにしてみればやはり屈辱を
 感じるものであっただろう。
  トルヴァは『夢見』を自分の手元に置きたがったようだったが、ブライニクルはそれを許さなか
 ったし、『夢見』もまたトルヴァと共にいる事は望まなかったようだ。
  現に、あの後幾度となく旅芸人は王妃の前に召されたが、『夢見』は体調不良を理由に一度とし
 て王宮には上がらず、トルヴァと顔を合わせる事もなかった。
  代わりに、ブライニクルの妹であるエスメラルダが、何事かトルヴァと言い争っているのは度々
 目撃されていた。
  その光景は、今宵も王宮の暗がりに紛れて繰り広げられているようだった。
  王妃に呼び出された旅芸人達は、今夜は芸を見せるというよりも、王妃の傍に侍る事を目的とさ
 れていたようだ。だから、旅芸人達は思い思いに笛を吹いたり踊りを踊ったりしている。時に疲れ
 たのか、柱に凭れてくらくらと首を揺らしていたりする者もいる。
  着ているものが異国情緒溢れるものでなかったなら、それは貴族達の夜会の終盤のようにも見え
 ただろう。
  しかし彼らは旅芸人であり、彼らが広間から出たり入ったりしている様子は、他国から見れば少
 々異様な光景に映るに違いない。
  だが、王妃からそれを許された彼らは、床に座って飲み物を飲んだりと寛いだ様子を見せている。
  そんな中、王妃のお気に入りである吟遊詩人がふらりと席を立ち、その後を煙のように足音も立
 てずに妙齢を過ぎた踊り子が追いかけていく。踊り子の様子があまりにも風のようだったので、真
 剣に見張りをしているハッシュ以外は彼らの動きに気付かなかった。
  夜の暗がりに紛れて王宮の壁と柱で出来た闇の中で落ち合った二人は、一見すれば王妃の嫉妬を
 招きかねない逢瀬にも見えただろう。
  だが、こっそりと追いかけたハッシュの耳に届いたのは、逢瀬といった甘い響きからは程遠いも
 のだった。

 「強がってないで、さっさと帰ってきたらどうだい。」
 「強がってなんかないさ。」
 「嘘言うんじゃないよ。言っとくがね、あの王妃様がいつまでもあんたに夢中でいられるわけがな
  いんだ。飽きっぽくて我儘で、あたし達にだってそのうち飽きるさ。あたし達全員総がかりでも
  それなのに、あんた一人だけで長続きするとは思えないね。」

  黒いヴェールをはためかせながら腕組みをするエスメラルダに、トルヴァは鼻を鳴らした。

 「僕を見くびってもらっちゃ困る。僕の歌に魅了されなかった人間なんか、この世にいないだろう?
  現に、エスメラルダ、貴女だって僕の虜だ。だから、そんなふうに僕を引き止めるんだ。」

  夜の闇と一体化してしまいそうなほど黒い衣装に身を包んだエスメラルダの姿は、まるでお伽噺
 に出てくる魔女のようだ。その魔女を糾弾するかのように、トルヴァは繊細な指を伸ばして、エス
 メラルダを指差す。
  白と銀に彩られた灰銀の吟遊詩人は、魔女を封じ込めようとする正義の使者のよう。
  しかし、口からついて出る言葉は、酷く即物的だ。

 「あの日から、僕がブライニクルに追放の言葉を吐かれた日から、何度も何度も女達が僕を引き止
  めに来た。 貴女だって、その女達の一人に過ぎないんだ。」
 「でも、『夢見』は、カサンドラは来なかっただろう?」

  魔女は、吟遊詩人の甘さを笑うように言った。
  吟遊詩人が喉から手が出るほど欲しがった『夢見』は、去りゆく彼を引き止めようとしていない
 のだ。
  その事実は、吟遊詩人には面白くないのだろう。
  だから、つまらなさそうに吐き捨てる。

 「どうせ、貴女の兄上が何かしてるんだろう。ブライニクル、あの、偽善者。」
 「ブライニクルが何を考えてるのかまでは、あたしにも分からないけどね。でも、自分の『呪歌』
  が効かなかったからと言って、偽善者扱いするのはどうかと思うよ。それにあたしも『夢見』は
  あんたと一緒にいるべき娘じゃないと思ってる。あの娘は、ごく普通に、仕立て屋か粉牽き屋の
  男と一緒にいるのが一番なのさ。」
 「馬鹿な!」

  その台詞にトルヴァは眼を剥いた。
  『夢見』という存在に惹かれ、あわよくばその能力を利用してのし上がろうとしている青年にし
 てみれば、彼女の先読み能力が自分以外の誰かの手に渡ったり、また、能力が潰されてしまう事は
 耐え難いのだろう。

 「そうやってカサンドラの力を押し潰すつもりか!さては、貴方は僕が自分に惹かれないからとい
  ってカサンドラを潰してしまうつもりなんだな!」
 「馬鹿な事を言うんじゃないよ。あんたの『呪歌』に対して、あの子の力が釣り合ってないだけさ。
  どれだけあんたが吠えようとも、その事実は覆らないさ。でも、だからといって、あんたを『夢
  見』に近づけない為に追い出すつもりもない。王妃に食い散らかされないうちに、戻ってきな。
  ブライニクルも今なら許してくれるだろうさ。」

  再び、いずれは捨てられる事を告げるエスメラルダに、トルヴァを突然激高した。
  それはもしかしたら、ブライニクルの名が許しの意味を孕んでいたから、矜持の高いトルヴァに
 は耐えられなかったのかもしれない。

 「はっ!許す!?何様だ!どう聞いたってそれは負け犬の遠吠えにしか聞こえないな!いいさ、あ
  んた達はこれまで通り旅芸人として貧しく暮らしていけばいい。僕はこの国で名を売って、いず
  れ世界に轟いて見せる。」

  夢を描いてみせたトルヴァに対して、エスメラルダはその夢が現実になる可能性の低さを言い放
 った。

 「寝言は寝てお言い!そんな『夢』を、あんたは聞いた事があるのかい!」
 「エスメラルダ。」

  トルヴァの夢は『夢見』は告げていないのだ、と。
  即ち現実になる可能性は低いのだ、と暗に告げたエスメラルダの声を、低いがよく通る声が遮っ
 た。柱と壁の暗がりよりも尚黒い影が長く聳え立ち、トルヴァとエスメラルダを照らし出している。
  
 「そこまでにしときな。お前が『夢見』を語る資格はねぇんだ。」

  緩やかなブライニクルの声に、トルヴァは嘲るように息を吐いた。

 「はっ!自分しか『夢見』の声を語ってはいけない、だと?傲慢にもほどがある!」
 「だったら、お前も『夢見』の声が聞こえるようになるんだな。『夢見』の声はお前の『呪歌』と
  違って、この世ならぬ声だ。普通の耳には聞こえない。お前の『呪歌』聞くその辺にいる人間は、
  普通の耳しか持ってねぇんだからな。」

  だから、それと相対するお前も普通の耳しか持ってない。
  冷やかに、普通の人間以上を相手に出来ないのだとトルヴァを評したブライニクルに、何一つ言
 い返せなかったのか、トルヴァは舌打ちをして背を向ける。去っていく細い影を見る兄に、エスメ
 ラルダは取りすがった。

 「ブライニクル!このまま放っておくつもりかい?!」
 「ああ。俺達には『夢見』の結果を捻じ曲げる事は出来ない。それだけの力も、俺達にもねぇって
  事さ。」
 「でも!」
 「エスメラルダ。お前がガキ共に入れ込みたいのは分かる。でも、トルヴァもカサンドラも、お前
  の子供じゃねぇ。お前が何かを肩代わりしてやる必要はねぇんだ。」

  それとも、とブライニクルは言いかけて口を閉ざす。
  そして、黒い眼をさっと走らせて、口角を持ち上げた。

 「どっちにしろ、喋りすぎだ。この城には、立ち聞きが得意な騎士殿がいるだろう。」

  兄の台詞に、エスメラルダもはっとしたように視線を巡らせて、ブライニクルの見ている一点―
 ―ハッシュがいる場所を見つめる。
  ブライニクルはハッシュのいる場所を見つめたまま、エスメラルダに命じた。

 「お前は広間に帰りな。なに、騎士殿には俺から話をしておくさ。お前よりも、俺の方がそういう
  事は得意だ。」

  行け、と言ったブライニクルの台詞に、エスメラルダは渋々といった態で黒いヴェールを翻して
 夜の闇に去っていく。足音を立てない彼女の足音が、ブライニクルには聞こえているのかもしれな
 い。
  しばらくじっとエスメラルダの去っていた方向に意識を向けていたが、やがて再びハッシュのい
 る物陰を見つめた。

 「さあ、出てこいよ騎士殿。立ち聞きの言い訳を聞いて差し上げるぜ。」