飛び上がって振り返った先には、金の刺繍のある臙脂色のローブに身を包んだ女が、得体の知れ
 ない笑みを湛えて立っていた。
  顔立ちは艶やかで、黒い目元はブライニクルによく似ている。それを見て、彼女がブライニクル
 と踊っていた女と同一人物である事に気が付いた。

 「それで?由緒正しい騎士様が、下賤な旅芸人の会合を盗み聞きするなんて。私達は何か疑いをか
  けられてるって事かい?」

  長く、緩やかにウェーブがかった髪を払って問いかける女に、別に自分は由緒正しいわけではな
 いとハッシュは思う。
  騎士団長という座にいる事はいるが、しかし特別地位が高い家柄に生まれたわけではない。家は
 粉牽きであり、口減らしというわけではないが、ハッシュは少年の頃から城に奉公に出させられた。
 そこで兵士として働き、剣の才が認められて騎士団長になっただけの話だ。騎士の称号も、一介の
  兵士から近衛兵になる時に貰ったもので、代々家に受け継がれているなんてものではない。
  大体、この国の兵士の程度などたかが知れている。争いらしい争いを知らぬ兵がほとんどで、そ
 れは騎士の名を受け継いでいる貴族も同じ。そんな中、偶々剣に秀でていたハッシュがいれば、そ
 れは必然的に上に上に押し上げられる。
  ハッシュが騎士団長に任じられているのは、所詮そんな理由だ。団栗の中に、一つだけ背の高い
 団栗がいた。それだけだ。
  しかし、そんな事を旅芸人に言ったところで何も始まらない。何せ、彼らにはルクレチアの事情
 など全く関係ないのだ。
  事実、テントの前で固まるハッシュを置き去りに、女はたおやかな足取りで歩み寄ると、ほっそ
 りとした手でテントの垂れ幕を掻き揚げてしまう。

 「ブライニクル、お客さんだよ!」

  ブライニクルによく似た目を持つ女は、敷物の上に集まり、燭台の火に照らされた薄暗い人々に
 歌うように言い放ち、ハッシュを白日の下に曝した。
  途端にその場にいた無数の眼がハッシュを射抜く。もしも視線が物質化できるのならば、ハッシュ
 はその場で蜂の巣になっていた事だろう。
  凝然としてハッシュを見つめる旅芸人の中で、かしゃん、と軽い音が響いた。ざわめく彼らの中
 で、唯一孤高を保っていたブライニクルが、抜身の剣を鞘に収めたのだ。黒光りする刃が閉ざされ、
 後にはいつものように笑みを湛えた男が残った。
  その笑みが、女と似ている事に気づいて、ハッシュはやはりブライニクルと親族であったのだと
 場違いな事を思う。
 
 「テントの前で固まってたのさ。下賤の中に、どうやって入ったら良いのか、高潔な騎士様には分
  からないってさ。」
 「そんな事は……!」

  意図的にハッシュに悪意があるかのような物言いをする女に、ハッシュは否定の言葉を吐こうと
 する。
  だが、それを止めたのはブライニクルだった。ブライニクルは鞘に納めた剣を持った手で、女を
 制する事で、ハッシュの言葉も止める。

 「エスメラルダ。」
 
  そうして、発した一言で、女は黙った。
  一瞬、何かの呪文のように聞こえた異国の言葉は、少し間を置いてからそれが女の名であると気
 づいた。名を呼ばれた女は、そういう誓約でもあるかのように、そのまま押し黙る。
  押し黙った女を見やってから、ハッシュはブライニクルとその足元に跪いているトルヴァを見比
 べる。項垂れたトルヴァの白い項に、今しも黒光りする剣が押し当てられていたのだ。もしかした
 ら、今一歩ハッシュが訪れるのが遅ければ、トルヴァの首は刎ねられていたのかもしれない。国内
 での、異国民による刀傷沙汰は、いくらなんでも受け入れられない。
  しかし、そんなハッシュの心中など知らないのか、いや、もしかしたら知っているのか、ブライ
 ニクルは笑みを湛えたままハッシュに背を向ける。

 「そいつに用があるんだろう?連れて行け。」

  そいつ、とは未だに項垂れたままのトルヴァの事だ。
  ブライニクルの台詞に、まだ周りにいた旅芸人達が微かにざわめき、押し黙った女も目を見開い
 たようだった。
  そんな様子など意に介さず、ブライニクルはハッシュに背を向けたまま、普段と変わらぬ口調で
 告げる。

 「どうせ、王妃から召喚されたんだろう?一昨日は、お気に入りのご様子だったからな。召し抱え
  られてもおかしくはない。そして、俺はそれを止めない。」

  途端に、周囲のざわめきが大きく広がり、波のようにうねる中、更に波頭のように黙っていた女
 が口を開いた。

 「ブライニクル、どういうつもりだい!城からの招きには、特定の人間だけでは応じず――それが
  決まりだろう?!」
 「どうせ、もうほとんど俺達の仲間じゃねぇんだ。だから構わねぇだろう。」

  その台詞にハッシュは驚いたが、周囲の旅芸人の表情には困惑こそあるものの、驚きはない。た
 だ、エスメラルダという名の女が一人、そのうねる髪を炎のようにして怒りを露わにしている。
  しかし、女の様子など興味なさ気にして、一座の長は今一度トルヴァを一瞥した。

 「騎士殿に感謝するんだな。本来なら二度とその舌が動かないようにしてやる事もできたんだが。
  しかし流石に他国での刀傷はまずいだろう……騎士殿がそう言っている。俺は一座の長として、
  この座の立場を悪くするわけにもいかんのでな。あとは、お前が決めるがいい。俺はお前がどう
  しようと、止めはしない。」
 「ブライニクル!」

  エスメラルダの声が響くと同時に、項垂れていたトルヴァが立ち上がる。
  その顔を見て、ハッシュはぎょっとした。トルヴァの顔には、はっきりと笑みが刻み込まれてい
 たのだ。茫洋とした夢見る笑みではなく、何処か嗤笑と言っていいような笑みを。そして立ち上が
 ったトルヴァは、笑みを湛えたまま、仲間には目もくれずにハッシュの元に寄ってくる。

 「お待たせいたしました、騎士殿。どうか、わたくしを王妃様の元にお連れしてください。」
 「しかし。」
 「構わん。」

  戸惑うハッシュを切り捨てたのはブライニクルだった。
  もはやこちらを見る事もないまま、彼は言い放つ。

 「連れて行ってやればいい。どうせ、誰にも止められない。」

  そう告げたブライニクルの声は、今までにない微かな憂いが含まれていた。その声は、まるで夜
 の畔を覗き込んでしまったかのようだ。
  ブライニクルの声にますます笑みを濃くしたトルヴァは、ひらひらと舞うように幕を跳ね上げて
 テントから出ていく。その背を追って、それからブライニクルに視線を戻したが、ブライニクルは
 おろか、誰一人としてトルヴァを追おうとはしない。
  仕方なくトルヴァの後を追うハッシュの耳に、ブライニクルの声がひっそりと漂ってきた。

 「俺の首一つで収まるというのならそれでもいいと思っていたが、それでは不足という事らしい。
  どれだけ足掻いても、結局、それを変える事は誰にも出来ない」 




  ハッシュの前を行くトルヴァは、何かとても愉しげだった。
  しかしその様に対してハッシュは何故か、不愉快に近いものを感じる。それはトルヴァの口元に
 湛えられている笑みが、嗤笑と呼んでも過言ではないものだからかもしれない。

 「良いのか。」

  ハッシュは、楽しげなトルヴァの背中に向かって問いかける。
  その問いに対してトルヴァは、きょとんとしたような顔で振り返った。

 「長を怒らせたのではないのか。」

  あの、黒光りする抜身の刃。それはブライニクルの怒りを表すものではないのか。
  そう問いかければ、合点がいったようにトルヴァは頷いて、そして嗤笑を一層深めた。

 「あの人達の怒りの理由なんて、大したもんじゃないんです。」

  銀の鈴のような美しい声で、しかしトルヴァは軽蔑の響きの混じった声で告げた。

 「あの人は、自分で定めた掟が覆されそうになったから怒ってるんです。要は、自分の権力の為。」

  実にくだらない、とトルヴァは歌うように言った。

 「『夢見』の事を僕が告げてはいけないだなんて。『夢見』の存在、そして夢の内容、それら全て
  長を通さないといけないなんて、馬鹿げてるとおもいませんか?僕なら、夢の内容を、歌にして
  示す事が出来るのに。」

  トルヴァが口にしたのは、思いもかけぬことだった。
  ブライニクルのあの抜刀は、トルヴァが『夢見』について語ったからだというのだ。
  しかし同時に、何故一昨日の夜、トルヴァの芸の最中にブライニクルの表情が硬かったのか、理
 由がついた。尤も、何故『夢見』についてブライニクル以外の人間が口にしてはいけないのかは分
 からないが。
  だが、王、王妃の前での予言するという事が、教会の眼からみれば決して褒められた話ではない
 事から考えるに、ブライニクルの考えは強ち間違ってもいない。
  しかし、トルヴァにはそんな事思いもよらないのだろうか。

 「皆、僕の邪魔をする。母もそうだったけれども、母が死んでからは旅芸人の掟とやらが。僕は、
  自分の歌を世に認めて貰いたいだけなのに。『夢見』による予言の歌だなんて、人の心を擽るの
  にぴったりじゃないか。それなのに長は『夢見』の予言を僕にはなかなか教えない。いつもいつ
  も邪魔ばかりする。」

  でも、とトルヴァは嗤笑を声にさえ含ませる。

 「それも今日で終わりだ。僕はこの国で、やりたいようにやって、そうして歌で名を馳せる。そう
  なれば長だって『夢見』を僕に差し出すしかない。『夢見』を手に入れたなら、あとは僕の勝ち
  だ。『夢見』さえ手に入ったなら、僕はもっと名声を手に入れられる。こんな世界に別れを告げ
  られる。」

  その口ぶりでは、まるで『夢見』もその為の道具のようだ。『夢見』だけではなく、この国の王
 妃ですら。
  ハッシュは、今になってトルヴァを王妃の前に連れて行くことを躊躇した。
  もしかしたら、王妃の命に逆らってでも、トルヴァを追い返すべきなのかもしれない。しかし、
 所詮ハッシュは田舎の騎士だ。王妃の機嫌を損ねるような事、出来るわけがない。
  愉快気にルクレチアに食い込もうとする吟遊詩人を、ハッシュは止める事も出来ないまま、見送
 るしかなかった。