「あれが、ルクレチア?」

  フードを掻き上げて、丘の上から眼下に広がる緑に満ちた森を見下ろし、女は背後に問うた。
  ほっそりとした身体に異国風のヴェールを幾重にも巻き付けた彼女は、その白い端正な顔を眼下
 の隅々にまで行き渡らせている。
  見下ろした森は豊かではあるが大きくはなく、それを纏める城も白く壮麗ではあったがこじんま
 りとしている。城下町も同じだ。ぽつぽつと立ち並ぶ家々は、田畑の間を縫うようにしてひっそり
 と建っている。国と言いきるには、その領地はあまりにも小さい。
  しかし此処は伯爵領や公国などではなく、れっきとした王国なのだ。
  いつ大国に踏み込まれてもおかしくないほどの規模なのに、しかしそれでも今日まで王国として
 形を成している。

 「随分とちっぽけな国じゃないか。こんなので国を名乗れるだなんてね。これまでに滅ぼされた国
  からしてみりゃ、なんで、って言いたくなるね。」
 「大した資源がねぇからだ。」

  フードから取り出した長い黒髪を豊かに波打たせながら、女は乱暴な口調で言った。妙齢の女の
 ぞくりとするような低い声は、婀娜っぽくも聞こえたが、しかし聞くべき人間が聞けば、そこには
 嗤笑が含まれている事に気付いただろう。
  そして、その声に応えたのは、女の背後に近付いていた男だ。
  茶色の馬に乗って女の背後に近付いた男は、やはり女と同じくフードを被っていた。けれども今
 は必要ないと判断したのか、女と同じようにそれを取り払い、長らく洞穴に潜って出てこなかった
 熊のように首を振り、軽やかな身のこなしで馬から降りる。
  男にしては細身の、しかし音を立てずに歩くその様からは、何処となく異国情緒のある衣服の下
 にある身体が筋肉に覆われている事を示している。
  馬に吊るしていた二振りの剣を腰に帯び直すと、女に良く似た端正な顔立ちを、女のほうに向け
 て口を開いた。

 「ルクレチアには大した資源もない。かといって交通の要所でもないから、わざわざ攻め入る理由
  もない。こんな山奥に手を出すほど、他の国は暇じゃねぇさ。」

  フードを被っていた所為で湿気た髪が気になるのか、その髪を掻き上げながら男は女の疑問に答
 えた。髪も、やはり女と同じで黒い。違いと言えば短いかどうかだけだ。
  それを聞いていた女は、それで、と男に視線を向けた。

 「こんなちっぽけな国にしばらく厄介になろうって?」
 「ああ。」

  一目で兄妹と分かる彼らは、立場的には兄である男のほうが上だった。その事に妹である女が異
 議を唱える事はないけれど、しかし微かな反抗の形跡はあった。

 「こんな国で、稼ぎが見込めるのかい?もしかしたら、あたし達旅芸人には風当たりが強いかもし
  れないよ?」
 「大人しくしていれば大丈夫だ。この国で、大がかりな魔女狩りが行われたって話は聞かねぇから
  な。」
 「ふぅん。ま、兄さんがそういうなら、そうなんだろうね。けど。」

  兄の黒い眼から微かに視線を逸らし、しかし嗤笑は消さずに兄の背後の影にいる馬車を睥睨した。

 「あたし達の夢見様は、なんておっしゃってるんだい?」

  夢見、とは一種の占い師の事だ。しかしタロットや杯などの道具を使う占いとは違い、そういっ
 た道具を使わず、専ら眠りに落ちた先で見た夢により、吉兆を占う。いや、吉兆を占うというより
 も、先々の事を文字通り『夢に見る』のだ。
  だから、それはむしろ占い師というよりも予言者に近いかもしれない。

 「何も。」

  その夢見の言葉を告げる役目も担う兄は、ゆっくりと首を振る。

 「カサンドラは何も見ていない。吉も凶も、今のところはないと言う。俺もそう思う。」
 「だったら、あたしが言う事は何もないね。」

  兄の言葉に妹は反抗の兆しを見せながらも従順な答えを返す。
  例え妹が何を言ったところで、この一陣は兄を長としており、その兄の決定が妹の言葉で覆るは
 ずもないのだ。

 「兄さんの言葉に、従うさ。」
 「……そろそろ町で休みたいって言ってただろうが。」

  妹の言葉に、兄はやれやれと首を竦める。

 「馬も休ませねぇとまずいし、食料もいい加減補給しておきたい。お前の気に入る気に入らないだ
  けで町に入る入らねぇを決めるわけにはいかねぇ。」
 「だから、別に構わないって言ってんじゃないか。あたしには夢見の力なんかないからねぇ。」
 「くだらねぇ。てめぇがごちゃごちゃ文句言ってる理由はそれだけか。」

  妹のまるで自虐にも満ちた言葉に、兄はすっとその眼を尖らせ、身を翻すと再び茶色の馬に跨っ
 た。そして妹を馬上から一瞥する。

 「念の為に言っとくが、今回のルクレチア行きを決めたのはこの俺だ。カサンドラの夢見は関係な
  い。てめぇがカサンドラにどんな含みがあろうと興味はねぇが、しょうもない鞘当てで一座の中
  を掻き回す事は許さん。」

  そう一息に言うと、兄はもはや妹に視線を向けず、顔を上げるとその流暢な声を響かせた。

 「さあ、てめぇら!しばらく厄介になるのはあの森に囲まれた王国ルクレチアだ!稼ぎは少ねぇか
  もしれねぇが、食糧はありそうだ。今夜の宿に間に合うように、急ぐぞ!」

  朗々と響き渡った声に、馬車の中やその周りから、雄叫びのような合いの手が返ってきた。
  その声を割るようにして、兄はフードを被り直しながら馬を駆けさせていく。
  妹は仲間の声を背後に背負いながら、緑の毛糸を編み込んだようなルクレチアの森を見下ろして
 いた。