その日も、19世紀後半のアメリカ西部の荒野は、砂塵混じりの乾いた風で、視界がけぶるよう
  だった。
   しかし、その埃っぽい霞んだ世界が、ほんの少しピンクがかって見えるのは、荒野の化身と言
  っても過言でもない男――砂色の髪と空色の眼をした5000ドルの賞金首サンダウン・キッドが、
  この世に何も求めない男が、この日に少しばかりの期待をしているからかもしれない。
   その日、サンダウンは乾いた砂の上で、同じ場所を落ち着きなくうろうろしていた。常に移動
  している男が、特定の場所――しかしそこには目印となるようなものは何もない――で、そわそ
  わとしているのを見ると、何か大切なものを落としてそれを探しているのかとも思えるのだが、
  そこは逃亡者のサンダウンである。着の身着のままで逃げ続ける男は、落として困るようなもの
  は何一つとして持っていない。
   では、何故、同じ場所をうろうろしているのかと言えば、恐らく此処を通るであろう――もっ
  と厳密に言えば、こうしてじっとしていれば自分を見つけてくれるであろう人物を待っているの
  である。
   念のために断っておくが、サンダウンは別に荒野のど真ん中で迷子になっているわけではない。
  そもそも迷子になっても困りようがない。
   しかし、ある程度の装いをさせれば見れない事はない顔立ちをしているものの、今は長年の放
  浪生活の所為で伸ばし放題な上、手入れもされていない髭面のおっさんが、荒野のど真ん中で首
  を長くして待ち人を待っている姿は、一種異様だった。
   うろうろと半径5メートル周辺を歩き回り、時折きょろきょろと視線を彷徨わせ、再びうろつく
  姿は、何か別の世界の謎の宗教の儀式にも思える。
   だが、サンダウンとしては待ち人に見つけて貰う事は、非常に切実な願いだった。
   この、異様な光景をおかしいとも思わずに作り出すおっさんに、迷惑にも待って貰っているの
  は、サンダウンを追い続けている凄腕の賞金稼ぎマッド・ドッグだ。
   賞金首が賞金稼ぎを待つという、異様な上に不可解な状況を作り出す肩棒を知らぬうちに担が
  されているマッドは、確かにサンダウンの命を狙う賞金稼ぎであるが、サンダウンにとってはも
  はや全ての生物が死に絶えた世界に残された唯一の存在だ。運命の相手と言ってもいい。
   だが、当然の如く、マッドはそんなサンダウンの心境など知る由もない。例えどれほどマッド
  が『今じゃ恋人どうしのような気がするぜ!』と言ってもそれはただの言い回しにすぎず、サン
  ダウンはその度にほろ苦い気分を味わう事となっている。
   ただ、サンダウンにとって幸いな事は、現在マッドには特定の恋人がおらず、あっちに行った
  りこっちに行ったりとふらふらしている状況で、むしろ女よりもサンダウンとの決闘を優先させ
  るという事だった。
   だから、去年のクリスマスはそういう状況も後押しして、サンダウンはマッドと二人で過ごす
  事が出来た。
   が、その夜は何もなかった。本当に何もなかった。
   マッドと二人で酒を飲んで、そしてその夜、マッドの寝顔を堪能したくらいだ。サンダウンは、
  マッドに何一つ手出しをしていないし、何一つとして告白めいた言葉を紡いでいない。サンダウ
  ンはマッドの寝顔だけで満足して、それだけで2カ月間、薔薇色の世界を味わったのだ。
   しかし、やはりそれ以上の事もしてみたいと思う部分もある。
   あの身体を腕に抱き込めば、その熱と重みは果たしてどのようにサンダウンの中に落ちかかる
  のだろうか。いつもジャケットと紫煙に隠されているマッドの体臭は、どのように薫るだろうか。
  肌は跡が付きやすいだろうか。どんな表情で鳴いて、どんな声を上げるのか。
   妄想は限りない。
   むろん、そこに進めるという、大きな期待はしていない。マッドが女を放り出して、サンダウ
  ンのもとに駆けてくるという事だけで十分だとも思う。
   そもそも、今日はもしかしたら、逢えない可能性だってあるのだ。誰にも彼にも愛される彼が、
  この日、一人でいるだろうか。彼に愛を囁く者は多いはずだ。彼に渡されるそれらは全て決して
  社交辞令などではなく、心の底からの欲望に違いない。それを、マッドはその両腕で全て抱え上
  げるだろう。
   もしも仮に逢えたとして、その両腕に溢れるような他人からの欲望を抱えていたら。そして、
  その時、マッドの口元には笑みが湛えられている。それを見たら、きっと、発狂してマッドに何
  をするか分からない。
   サンダウンは、何もかもを捨てた自分が、実は誰よりも欲深である事を知っている。
   やがて、さっと一陣の風が舞った。
   けたたましくも不愉快ではない馬蹄の音が、遠くから聞こえてくる。そこに背負われているの
  は他でもないサンダウンの待ち人だ。突き抜けるように黒い影は、遠目から見ても十分に存在を
  主張する。
   サンダウンの前でひらりと飛び降りたその細身の身体を、ちらりと盗み見し、サンダウンはマ
  ッドがその手にどんな花束も菓子折りもカードも持っていない事に安堵する。そして、マッドか
  ら欲を向けられた香りがしない事にも。  
   そんなサンダウンの心中など一向に推し量らないマッドは、何の戸惑いもなくいつものように
  サンダウンに近付いてくる。

  「よう。あんたはこんな日にもそんなしけた顔してんのか。」

   笑い含みの声を視線だけで見つめると、マッドはサンダウンが自分に視線を向けた事に気を良
  くしたのか口角を上げる。

  「で、あんたのもとには愛の天使は来たのかよ?まあ、こんな荒野のど真ん中に来るのは、救世
   主さんを誑かした悪魔くらいだろうなぁ。」

   だったらその悪魔はお前だ。
   サンダウンは、自分に銃弾を贈り込んでは心を掻き乱していく相手に、心の中だけでそう呟く。
  口に出して言えないところが、なんとも情けないが。
   そんなぐずぐずしているサンダウンを置き去りにして、マッドは、

  「そんなしけたおっさんを憐れんで、この俺様が愛の天使になってやるよ。」

   そう言って懐を探り、一枚の柔らかい白に赤と金の縁取りのあるカードを差し出した。
   その四角く薄っぺらい物体にサンダウンは目を瞠る。サンダウンの眼に、それがまるで至上の
  楽園への切符に見えたかと思ったその時、

  「アニーからだ。」

   マッドは一瞬にしてサンダウンのときめきを叩き潰した。むろん、マッドに他意はない。が、
  カードを見たその一瞬で、賞金首の名を返上して保安官に戻りマッドと二人で新しい町の治安を
  守って生きていこうかという未来予想図まで考えたサンダウンにしてみれば、柔らかく見えたカ
  ードの色が、酷く冷たい輝きを放ったように見えた。

  「社交辞令だと思うぜ。」

   言われんでも分かっている。   
   俺も貰ったし、と余計な一言まで添えるマッドは、本当に悪魔なんじゃないかと思う。
   そんな運命の相手――とサンダウンが勝手に思っている――賞金稼ぎは、カードを渡し終える
  と、さっさと自分の愛馬のもとへと戻っていく。もう、サンダウンに用はないという事か。
   期待はそこまでしていなかったけれど、ここまであっさりと放っておかれると、いっそ清々し
  い。
   薄っすらとふっきれたような気分になっているサンダウンに、けれども予想に反してマッドは

  「で、これが俺からだ。」

   意識が飛び過ぎて、何を言われたのか分からなかった。
 
  「これはピノ・ノワールで作られたブルゴーニュ・ワインでよ。此処のワインは同じ葡萄を使っ
   てもちょっとした気候の変化で味が変わるんだぜ。どんな味なのかは飲んでからのお楽しみっ
   てな…………って、どうした?」

   反応のないサンダウンを怪訝に思ったマッドの声に、サンダウンはようやく我に帰る。一瞬、
  本気で楽園まで飛んでいっていた。

  「とにかく、ブルゴーニュ・ワインはその一つ一つが稀少なんだ。だから俺もあんまり飲んだ事
   がねぇんだ。だから早く開けろ。今すぐ開けろ。俺も早く飲みてぇんだ。」
  「………私にくれるんじゃないのか。」
  「ああ、半分だけな。後の半分は俺のもんだ。なんであんたに丸まる一本やらなきゃなんねぇん
   だ、この俺が。」
  「………。」

   嬉しいんだかどうなんだか、良く分からない。
   とにかく、今日もマッドと一緒に過ごす事が出来る事だけは、確定したようだった。





   その夜。
   毛布に包まって眠るマッドの寝顔を、やっぱりサンダウンはじっくりと眺めるだけだった。
   その様子を、マッドの愛馬であるディオが馬鹿にしたように鼻先で笑い飛ばしていた。