鈍刀   



  語り終えた老爺は、見る間に老け込んだようだ。しゃんと伸ばしていた背筋が今は丸くなってお
 り、一回りも二回りも小さくなったようだ。
  この老爺の過去に訪れた悲劇と、これからもしかしたら起こるかもしれない悲劇が、彼を怯えさ
 せているのだ。
  老爺が眼にしたという仮面は、おそらく今でも獲物を吟味しつつ、再び世に出る時を待っている。

 「再び見えた時、壊してしまえば良かった。しかし儂はそれをせなんだ。」

  己の心根を信じたわけでも、弟子達の芯の強さを信じたわけでもない。むしろ、老爺がそれをた
 だ隠すだけに終わったのは、全く逆の意味で、だ。
  老爺は仮面を捨てる事が出来なかった。確かに、確かに力を欲する者には紛れもない力を与えた
 であろうそれを、僅かでも惜しいと感じてしまったのだ。
  このような物は存在するべきではない。しかし、だからこそ今此処で失えば二度と出会う事もな
 い。だから、それ故に老爺は捨てる事が出来なかったのだ生物が恐れ忌避するものを、捨て去る事
 が出来なかった。

 「もはや儂に出来る事は、弟子達がそれを手にする事がない事を祈るのみ。例え手にしても、忌避
  すべきものとして忌み嫌う事を願うのみ。そして願わくば、捨て去る事の出来なかった儂の代わ
  りに、叩き壊してくれる事を頼むのみ。」

  何処か力ない、振り絞るような声で呟いた老爺の声は、軋む音にかき消された。
  はっとして老爺と二人して顔を上げれば、ひょお、と風が吹き込んできた。ランプの中の炎がカ
 タカタと揺れる。風が吹き込む先には、見れば顔を隠してすっぽりと身体も外套で覆い尽くした者
 が立っていた。完全に身体の線を隠しているので、男か女か一見するだけでは分からない。

 「済まない、風を凌げるところを探していた。」

  フードの奥で聞こえてきた声は、男のものだった。外套の裾をずるずると引き摺りながら男はや
 って来て、ゆっくりと二人を睥睨しているようだ。
  視線のない視線に気づいた老爺は、よっこらしょと呟いて腰を上げる。

 「おお、もうこんな時間か。儂は行かねば。」
 「外はまだ風が強いが?」

  男の言葉に、老爺は緩やかに首を振り、行かねば、ともう一度言った。決然とした色を湛えた声
 に、男はそれ以上引き止めるつもりはないのか、老爺に道を譲る。老爺は、男が歩いてきた道をそ
 のまま引き返し、再び軋む音を立てて扉を開いた。
  ひょお、と風が声を上げて、眼を打った。カタカタとランプが震える。
  風が収まった、と思った時にはもう扉は閉ざされて、老爺の姿は見えなかった。代わりに、フー
 ドを目深に被って顔を隠した男が、老爺の座り込んでいた場所に胡坐をかいている。
  思えば、そこは何人もの訪問者が腰を落ち着けた場所だった。
  そう思い、じっと見ていると男が居住まいを正した。

 「急に押しかけるような形になり申し訳ない。だが、どうしても一時の休憩が必要になったのだ。
  このまま歩み続けていたら、恐らく倒れていただろう。」

  言い訳するような、しかし堂々とした男の言葉に、そんな事は気にしていないと告げる。なにせ、
 この一晩で既に何人もの人間が、この小屋に入り込んでは去っている。今更、それを咎めるつもり
 はない。
  そう言うと、フードで隠された男から、微かにだが苦笑いめいた気配が漂ってきた。

 「つまり、私以外にもこの夜を進もうと言う者がいるという事か。それは一体心強いのか、それと
  もやはり今夜でなくてはならぬのか。」

  奇妙な男の台詞に、どういう事かと問えば、男はなんでもないのだと首を横に振る。なんでもな
 いとはとても思えなかったが、無理強いして聞く必要もない。だから、それ以上は深追いせずにい
 た。
  すると代わりに男は自らの事を語り始めた。どうやら、押しかけておいて、何も己の事を語らぬ
 というのは失礼だと思ったらしい。
  と言っても、その身体を隠している姿からして、何もかもを話せる身の上ではないだろうとは思
 っていたが。

 「詳しくは語れぬが、私は下総の生まれで、鍛冶屋見習いとして上京した身の上だ。」

  男の言っている地名は理解できなかったが、しかし男曰く結局鍛冶屋としての腕は見込めず、そ
 の道を進む事は出来なかった。
  だが、男の実家は貧しく、鍛冶屋に慣れぬからと言って、里に戻る事は叶わない。しかし無理や
 り鍛冶屋として生きても、食うに困るだけだ。それに、なんとか鍛冶屋として長じたところで、そ
 うなるまで耐える自信はなかった。
  男は凄まじい苛めに会っていたのだ。
  鍛冶屋には大勢の弟子がいる。その弟子達からは散々馬鹿にされ、虚仮にされていた。しかも、
 親方も匙を投げだすほどに、不器用で鍛冶屋としての素質がない。弟子達はそれを知るやいよいよ
 本格的に苛め始めた。

    「耐えられぬ、と思うて、己の打った鈍ら刀を片手に、ある夜、とうとう逃げ出した。」

  冴えたような三日月の晩だった。
  まだ十を越えるとも分からぬ歳だった男は、唯一自分のものであると言える――誰も欲しがらな
 いという所為もあったあ――鈍ら刀を手にして夜道を駆けた。何処に行くなど全く決めていない。
  ただただ、あの場所から逃げなくてはならないという一心で、走ったのだ。
  道など分からない。もとより行く宛もない。里には帰れぬ。なのに月は煌々と照り輝いて、此処
 が何処であるかを無意味にはっきりと知らしめていた。暗闇であっても困らぬ少年を嘲笑うように、
 三日月は道に迷わぬようにと照らしていたのだ。
  そしてそれはつまり、少年の姿を隠す闇がないという事。

 「刀を手にして走り回っている小僧など、傍目から見れば怪しい以外の何物でもないだろう。人気
  のない道であったが、それが余計に、彼らの眼に留まりやすかったのかもしれぬ。」

  闇に生きる彼らの眼に、刀を片手にする少年は怪しく映った。
  故に、唐突に彼らは闇から抜け出してきて、少年の前に立ち塞がったのだ。

    「彼らは私の前に現れて、何をしておるのかと問うた。こう、私の首筋に白刃を突きつけて。瞬き
  する暇もないままに、私は命の綱を取られておったのだよ。」

  顔を隠した男達に囲まれて、少年は驚いた。しかも既に首には白刃が添えられている。なんとも
 理不尽で、少年には受け入れられぬ状況だった。少年が混乱するのも無理はない。咄嗟に逃げよう
 としたのも。
  だが、逃げようとした少年に、男は問答無用で白刃を突き立てた。
  いや、突き立てようとした。

 「あの時、私はようよう、不器用で取り得のない己の才に気づいたのだ。」

  気が付いた時、少年は己で打った鈍ら刀を引き抜いていた。そして何も切り落とせぬと思うほど
 に鈍い刃で、白刃を掲げる男の手を強かに打ったのだ。
  男が呻いた。
  腕が切り落とされなかったのは、やはり刀が鈍かった為だ。しかし、それでも打たれて痛みがな
 くなる事などない。
  少年の突然の行動に驚いたのか、他の男達が一斉に小太刀を抜いて少年に切りかかる。少年は訳
 が分からぬ中、無我夢中で男達を叩き伏せていった。
  己がどう動いているかなど分からない。その動きは、天性のものだった。

  ――まさに刀を持つために生まれてきた奴よ。

  男達を叩き伏した後、ゆうゆうと歩み寄ってきた一際背の高い影は、さも楽しそうにそう言った。
 姿形は、未だ呻き声を上げている男達に似ていた。しかし、間違いなく彼は倒れる男達とは格が違
 う。

 「面白い、とその男は私を見下ろして言った。」

  ――お前のような餓鬼一人放っておこうかと思うたが、何故か目に留まって声をかけさせた。
  ――その結果がこの様よ。
  ――愉快じゃ。

  男は笑い、少年に眼を合わせる。

  ――それも何とも幸薄そうな顔をしておる。
  ――ならばそれはそれで、幸薄い場所に来るつもりはないか?
  ――お前の行く先になってやろうか?

 「男の申し出に、私は一、二もなく頷いた。何せもう私には行く宛がなかったからな。それにその
  時は夢中で考えもしなかったが、後でじわじわと自分に剣の才がある事実に気が付いた。」

  男が何をしているかは分からない。だが、ついて行ってもこれ以上酷くはなるまい、と。
  少年が頷くと、男はもう一度大笑し、少年を己の屋敷へと連れて帰った。

 「男は、国家の中枢に関わる組織の長であった。如何なる組織であるかは語れぬが。とにかく、刃
  が必要となる事もある組織だ。私も、組織の一員となってから、己が鈍ら刀以外の刃を持つよう
  になった。」

     故に、その時になってようやく、素質としては全く縁がないはずだった鍛冶屋とも縁が出来るよ
 うになった。刀を研ぎに出す事もあれば、新しい刀を長に連れられて見に行く事もある。 

 「そんな折だった。私が逃げ出した鍛冶屋にも行く用事が出来たのは。なんでも、腕の良い若者が
  いるのだとか。如何なる鈍ら刀も、見事に鍛え直して稀代の名刀にも勝る物に仕上げるのだとか。」

  それを聞いて、長は、いっそお前の鈍ら刀も鍛え直して貰ったらどうかと言っていた。
  少年としては、あの鍛冶屋に顔を出す事のほうが内心嫌だったのだが。

 「だが、向こうはこちらの事など全く覚えていなかった。まあ、長に拾われてから顔つきも身体つ
  きも変わっていた所為もあるだろうが。」

  少年を見ても誰とも気づかぬ弟子達は、相変わらず狡い眼で自分よりも弱い者を見つけては苛め、
 親方に怒鳴られる憂さを晴らしているばかりだった。
  変わらぬ彼らの様子を、少年が冷笑していると、その中に一人毛色の違う、やけに目元の涼しげ
 な若者がいた。これが、件の、如何なる鈍ら刀も名刀に仕上げる鍛冶屋だと、すぐに分かった。
  あちらもこちらの要件が自分にあると気づいたのか、立ち上がってやって来る。
  その手には、石で出来た槌が握られていた。