飢紋



 「儂は、これはいかんと思うた。」

  師範の息子が、おぞましい面を躊躇いなく顔に近づけた瞬間に、逃げ出すべきだと脳裏だけでは
 なく全身が訴えていた。生物としての根本的な恐怖が、身体のありとあらゆる場所から噴き出して、
 それに抗う事など出来るはずもなかった。
  ただ、辛うじて残る理性が、無様にも一人逃げ出す事を抑えた。
  即ち、老爺は今すぐにでも山を駆け下りて町へと逃げ出したい思いを抑えて、兄弟弟子達が眠る
 道場へと駆けこんだのだ。一人で逃げ出すのではなく、とにかく同じく危険に曝されている兄弟弟
 子達を見捨てる事は、彼の性根が許さなかったのだ。
  いや、あれはもしかしたら、彼自身の性根と言うよりも、幼い頃から慣れ親しんだこの道場の教
 えによるものかもしれなかった。
  いずれにせよ、とにかく若かりし頃の老爺は、皆に師範の息子がとうとう自分達の手の届かない
 所に行ってしまった事を伝えるべく、道場の中に駆け込んだ。

 「背後では、爛々と奴の眼が面の向こう側で輝いているのが分かった。背中で、それを痛いぐらい
  に感じた。もしも視線が眼に見えるものであったなら、奴の視線は儂の背を刺し貫いていたので
  あろうな。」

  追い縋る、もはや尋常ならざる視線を振り解き、とにかく背後に迫る足音と出来る限りの距離を
 を取り、一刻も早く兄弟弟子達を逃がさねばならなかった。
  足音高く、古びた道場の床を突き破るほどに踏み鳴らして皆が雑魚寝をしている広間に向かった。
 そこではいつものように、中央を年嵩の兄弟子達が埋め、それを取り囲むように年若い弟弟子達が
 小さく身を丸めていた。
  いつもと同じ光景であって、それがこれより引き裂かれるとは到底思えなかった。だが、奴の足
 音は確かにこちらに向かっている。

 「儂は、とにかく無茶苦茶に叫び回った。叫び回って兄弟弟子達を起こし回った。奴が来る、奴が
  狂ったと。傍から見れば儂のほうが狂っているように見えたであろうな。だが、あの時は必死じ
  ゃった。」

  奴が我等を殺しに来る。早く早く逃げなければ――。
  喚き散らす老爺を、兄弟子達は不審げに見やり、そして何を言っているのかと呆れたように言っ
 た。疲れ果てて眠っているところを起こされた事に不満もあったのだろう。老爺もろくに説明でき
 なかった所為もある。
  一向に、兄弟弟子達は迫りくる危険から逃れようとしなかった。
  そうこうしているうちに、奴の足音は迫り、今にもあの爛々と輝く既に人間離れした眼が現れそ
 うだった。

  ――いかん、早く逃げねば、いかん。

  これ以上その場に留まる事は、老爺の命さえも危険に曝す事を意味していた。
  老爺は寝ぼけた眼で呆れたように、ある者はせせら笑うように眺めやる兄弟子達に、とにかく魂
 消るような悲鳴を残し、その後も何度も何度も叫びながら、今にも奴が角を曲がって姿を現しそう
 な廊下に背を向けて、皆が眠る広間を横切り、窓を突き破るようにして逃げ出した。

 「儂の奇怪な行動に、とにかく誰かが妙だと思ってくれたなら、と考えた。じゃが、いずれにせよ
  儂は彼らを見捨てたのよ。」

  そうせねば死んでいた。しかし見捨てたという事実が覆るわけではない。

 「広間から抜け出した儂は、そのまま近くにある大木に登ろうとした。町に逃げても良かったが、
  そうすれば奴が町まで追いかけてくる事が眼に見えておった。流石に、そこまでする事は儂にも
  出来なんだ。いや、もしかしたら大木に登っている儂を奴は見過ごして、町に行って新たな獲物
  を捜す事を望んでいたのやも。」

  幸いにして、奴は町には下りなかった。下りずにその場で果てたが、しかしその前に兄弟弟子達
 が餌食される事だけは変わらなかった。
  老爺が大木に登ろうと太い幹に手をかけた時、絹を裂くような悲鳴と罵声と怒声が重なるように
 して降りかかってきたのだ。何かが激しく打ち付けられる音と、砕ける音が悲鳴の合間合間を縫い
 留めて、その音に老爺はとにかく死に物狂いで木に登った。

 「木に登ったところで、兄弟弟子達の阿鼻叫喚が聞こえなくなるわけでもない。儂は木の上で、耳
  を塞いで震えておったよ。」

  眼を閉じる事は出来なかった。眼を閉じて開いた瞬間に、奴が目の前にいたらきっと心が耐えら
 れないだろう。だから道場に眼を背けて、耳を塞いで闇の一点を凝視し続けた。
  瞬きする事も忘れ、汗が眼に入る事も気にならず、ただただ凍り付いたように木の上で、一つの
 ところを見つめ続けた。
  耳を塞いでいるので、道場での惨禍がいつ果てたのか、老爺には分からない。老爺が次に道場を
 見に行ったのは、ようよう帰ってきた師範が惨状を見て、生き残りがいないかと周囲を探し回った
 時に見つけられた後だった。
  師範と共に恐る恐る見た道場の中は、まさに酸鼻を極める様相をしていた。
  兄弟弟子達は悉くが骨を折られ、身体があらぬ方向に捻じ曲がっているものばかりだった。顔が
 分からぬほどに腫れ上がり、皆が一体どれほど激しい折檻を受けたのか、血みどろであった。血管
 という血管が破れるまで殴られ蹴られた事は明白だった。

    「師範は、道場の惨憺たる様子について、深く慟哭したりする事はなかった。」

  己が門派が一夜にして全滅したというのに、ただ、何かを悟ったような諦観したような眼差しで
 老爺を見たのだ。

  ――あれの、所為か。

  師範は、一瞬で己の息子の成した事を理解したようだった。
  師範の息子の死体は、広間の中央で見つかった。他の兄弟弟子達が無残な姿であるのに対し、奴
 の身体は綺麗なものだった。どこも折れ曲がっていなかったし、血にも濡れていない。
  ただ、顔が綺麗に削げ落とされていた。

 「それを見て、儂はようやくまともに、奴の身に起こった事を説明する事が出来たのじゃ。」

  自分達との確執、呪術にはまり込んでいった事、そして奇妙な面を持って帰ってきた事、その面
 から何とも言い知れぬ気配がした事。
  師範はそれを無言で聞いていた。
  老爺が語り終えた後、師範はようやくぽつりと呟いた。

  ――奴は、その面に取り込まれてしまったのだな。
  ――いや、取り込まれていたのは儂も同じか。
  ――奴を放り出し、止める事が出来なんだ。 

  師範の顔には、げっそりと老け込んだ皺が刻み込まれていた。何もかもを失った事を考えれば、
 当然だった。
  師範は若かりし日の老爺に向き直ると、深々と頭を下げた。

  ――お前にはすまない事をした。
  ――お前の言う面は、おそらく我らの弱さを突く化生だったのだろう。
  ――心を見据える我が流派、それが見るが良い、一網打尽よ。

  師範の息子に憑りつき、そして憑り殺した、あの面。
  今は何処にも姿がない。何処に行ったのか、と老爺が問えば、師範は首を横に振った。

  ――分からぬ、が、奴と同じく弱さを超えられぬ者を探しておるのだろうよ。
  ――お前は、偶然かもしれぬがこの窮地を生き残った。
  ――儂はもう、これ以上の弟子は取らぬ。
  ――お前が我が流派の継承者じゃ。

 「儂は、こうして跡を継いだ。なるべくして継承者になったのではない。他に受け継ぐ者がおらな
  んだから継承者になったのよ。」

  師範はそれから三年後に亡くなった。
  誰もいない道場で、老爺は一人になった。いや、その方が楽であった。大勢の兄弟弟子がいたあ
 の場所は、賑やかしく楽しくもあったが、同時に感情の坩堝でもあったのだ。もしももっと人数が
 少なければ、何らかの策を講じる事も出来たのではないか。そう思わずにはいられない。
  とはいえ、師範になった以上は自分も後継者を見つけなくてはならない。

 「儂は、三人の見どころのある若者を拾い、道場へ連れて帰った。」

  皆、良い弟子だった。
  誰が師範になってもおかしくない。
  仲が良かった事も、老爺を安心させた。

 「だが、良い事とは長くは続かぬもの。」

  弟子達が寝静まった後、道場を見て回っていた老爺は、廊下に何かが落ちているのを見つけた。
 昼間には落ちていなかったそれ。弟子が落としたのか。
  そう思って見て、瞬間、心の臓が縮まるかと思った。
  ぽっかりと開いた二つの眼窩が、老爺を見上げている。

 「あの、面じゃった。」

  岩肌に彫り込まれた紋様の何一つして変わっておらず、何一つとして欠けていない。そこから漂
 うおぞましささえ記憶の中にあるままだった。

 「何故、今になってそれが現れたのか、全く分からん。もしや、儂が後継者を捜している事を感じ
  取り、かつてのように血を啜ろうとやって来たのか。」

  心を見据える事を掲げる我等を、再び試そうと言うのか。

 「弟子達にそれを見せる事は出来ん。触れる事も許されぬ。儂はそれを己の部屋に持ち帰り、深く
  深くにしまい込んだ。」

  あんな物、誰も見なければいい。
  誰にも触れられるべきではない。
  だが。

 「今になって一つ、疑念が沸き起こる。」

  後継者は無事に選ばれた。だが、その際にやはり惨禍は起こった。老爺の時のような兄弟弟子が
 争うようなものではなく、他からの襲撃であったけれども。

 「しかし、そこに我が弟子達が関わっていないと、本当に言い切れようか。」

  もしも三人の中で生き残った者が、老爺が奥深くにしまい込んだあの面を見つけ出していたなら。
  その疑念は、今になっても尽きない。