餓面



  商人の消えた後には、何か砂のようなものが微かに残っていた。それが、商人が口にしていた絵
 具の残滓であるのかどうかは、分からなかったが。ただ、床に撒かれた砂は、ランプの明かりを受
 けて、床の上に細く長い影を幾つも小さく生み出していた。影はランプの灯の揺れと共に、瞬くよ
 うに揺らぐ。
  ばらまかれた砂に、商人の言ったような効果があるとは、とてもではないが思えなかった。平ら
 な床の上で、ランプの光を受けてようようその存在一つ一つが認められるような細かな砂に、人の
 人生を大きく狂わせる効果があるようには、この世の誰一人として思わないだろう。
  この砂で、絵を描けば、己の人生を絶頂まで高める事が出来るなど。
  一つ首を振って、馬鹿馬鹿しいと呟いた。
  しかし、確かに行く末に困難を持つ者ならば、或いは行く末に底辺しか望めぬ者ならば、そこに
 一抹の希望を見出してもおかしくはなかった。ほとんどの者が馬鹿馬鹿しいと思う藁に、縋り付く
 事は確かに有り得た。 
  だが、ほとんどの人間は、それを一蹴するのだ。常識と、理性に照らし合わせて。

 「左様。」

  いつの間にか口に出して呟いていたのか。
  そしてその呟きに対して答えがあった事に、ぎょっとして眼を剥いて、砂を眺めていた視線を上
 げる。
  そこには、一人の枯れたような老爺が佇んでいた。顔は酷く穏やかであったが、物音一つ立てず
 にその場に座り込んだ様を見るに、常人ではない事は明白であった。一体、何者か。
  すると、あたかも好々爺と言わんばかりの面持ちで顔を破顔させて、老爺は軽く一礼をした。

 「勝手に上がり込んでしまって申し訳ない。しかし、何せ幾ら呼んでも返事がなかったのでな。」

  何度も扉を叩き、中に居る者を呼ばわったのだと老爺は言った。

 「返事がないので誰もおらんかと思ったが、違っておっての。しかし申し訳ない事をした。」

  改めて礼をする老爺に、何度も謝る必要はないと告げる。事実、この小屋は自分のものではない
 のだ。老爺が呼ばわる声は聞こえなかったが、それも別に老爺の責任ではない。 
  ただ、強いて言うならば己の考えに唐突に割り込まれた事について、魂消ただけだ。

   「確かに、一言声をかけるべきであったな。ただ、儂も、人々が常識と理性に照らし合わせれば一
  蹴してしまう、しかし確実に何人かを餌食にする物を知っておるのじゃよ。」

  枯れた木のような痩せて小さな体から出ているとは思えぬほど張りのある声で、老爺は言った。
 床に落ちている砂粒が、その声によって何処かに吹き飛ばされたようだ。

 「お前さんが思っておる物と、儂の知っておる物とはまた別の物かもしれんが。ただ、そうした物
  はどうやら世界中にあるようじゃな。」

  儂は若い頃、そして年老いてからも、それを見た。
  老爺は小さく溜め息を吐くと、ランプの灯に手を翳す。まだ何もしていないのに、それについて
 二言三言話すだけでも疲れるのだと言わんばかりの様子だった。けれども老爺は語る事を止めない。

 「異なる物を見たのではない。全く同じ物を見たのじゃよ。いっそ別々のほうが良かった。むしろ
  同じ物が、長い時間を超えても同じ態を成している事の方が儂には恐ろしかった。」

  若い頃に老爺が見た物は、数十年の時を経て老人となった彼の元に、彼とは対照的に全く何一つ
 変わらぬ姿で現れたのだ。

 「儂は若い頃から武芸の修行に明け暮れておった。別に跡取りであったわけではない。儂の嗜む武
  芸は血筋で跡取りが決まるものではないからの。だから、誰もが師範になる権利があったわけじ
  ゃ。」

     老爺が武芸を修るところには、確かに息子がいた。だが、血筋では決まらぬ跡継ぎは、息子であ
 ろうとも容赦なく現実を突きつける。
  即ち、息子も、その他の弟子達も同じように扱われ、同じように師範の座を争う枠組みにいたわ
 けである。

 「我が武芸は、己が心に向き合う事で習得する事が可能なのだが。」

  老爺は一つ唇を湿らせて、呟く。

 「あの時の、儂も含めて弟子達がそれを出来たかと言われれば、自信は全くない。我等は血筋に寄
  らぬ跡継ぎというものに、なんとしてでも食いつこうと足掻いておった。まるで飢えた獣のよう
  にな。こと、儂は大家族の末でな。飯の口をなんとか減らそうと追い出されるようにしてそこに
  押し込められた。だから、その修練所を追い出されれば、もはや帰る場所はなかったから、とに
  かく必死であった。」

  と言っても、冷静に考えればそれほどまでに師範の座を欲するのもまた奇妙な話である。追い出
 されれば行くあてがないと言っても、しかし追い出されると言うのはよほどの事をした時であろう。
  すると、当時の師範はそんな非情な人ではなかった、と老爺は答えた。

 「しかし、息子がのう。」

  恐ろしく、暗愚である上に、とかく人を蔑まねば気が済まぬ性分であったのだ。若い頃ならば、
 確かに誰しもそういう事は仕出かしがちであったが、しかし兄弟弟子達を見下ろして、己が師範に
 なった暁にはお前達のような輩は皆追い出してやると、威張り腐って言うのだ。 
  この息子が師範になる事は、今思えば決して有り得ぬ話であったが、しかしそもそも他の弟子達
 もまだ若く、己の心と向き合うなんて事がどういう事なのかも分からぬ小僧どもであった。故に、
 息子の言葉を苦々しく思っていた。まして老爺のように帰る場所を持たぬ弟子にとっては、死活問
 題でもあったのだ。
  息子を諌める事の出来る師範は、何かと修行場を留守にしがちであった。腕の覚えのある師範は、
 町からも頼りにされ、あちこちを渡り歩いていたのだ。

 「じゃから、儂らはなんとしてでも、あの息子に師範の座を取らせまいと足掻いておったのだよ。」

  心を見据えるという事を理解はしていない。しかし幸いにして、息子の武芸の腕は、お世辞でも
 長けているとは言えなかった。
  故に、皆が師範の座を奪い合いながらも、息子の手にそれが移る事はなかろうと幾分か安堵して
 いた。
  だがそれは、他ならぬ息子自身にも理解できていた事であった己の武芸の腕が、他と比べて見劣
 りするものである事は、当の本人も理解しているところだった。己の力を過信するほどに、彼の眼
 もまた曇り切ってはいなかったのだ。
  ただ、焦燥は明らかに別の方向に向かっていった。

 「何としてでも力を付けようとするあまり、彼の者は怪しげな呪術や薬に手を出すようになった。」
 
  薬は流石に効果がないと分かればすぐに止めたが、呪術のほうがなかなか抜け出せなかった。時
 に偶然で、息子の願いが叶う所為もあっただろう。呪った兄弟子が怪我をすれば、呪いのおかげで
 あると狂喜した。
  もはやその時点で、彼からは師範となる資格が失われていたのだが。
  しかし呪術にどっぷりと浸かりゆく様は止まらぬ。兄弟弟子達も敢えて止めようともしなかった。
 彼らにとって師範の息子は己の行く末の邪魔をする輩であって、その身が少しくらい地に堕ちたと
 ころで、溜飲が下がるだけの事だった。

 「そう、あの頃は、儂らにも師範の資格など失せておったのよ。」

  あの時、彼を諌めるべきであった。何かと留守にしがちな父親である師範の代わりに、兄弟弟子
 達が止めるべきだった。
  けれどもそれは起こらなかった。
  そして、悲劇が起きた。

 「それは、不気味な仮面の形をしておった。」

  老爺が若い頃に見たという、普通ならば常識と理性で一蹴すべきもの。けれども当時の不穏な空
 気と、己が身の可愛さに走った人間達の所為で、捨てられる事なく人間に張り付いた。

 「師範の息子が、鬼市にて、ある呪術師から買い受けたと言う。」

  夜も更けた頃に返ってきた息子は、にやにやと笑いながらその仮面を眺めていたという。
  その日、夜間の見回りを受け持っていた老爺は、息子の帰宅を見つけ、その場面に遭遇したのだ。
 にやけていた息子は、老爺を見てもやはりにやけていたという。
  そして、喉に淡が絡まったような、しわがれた声で嗤笑を吐き零した。

  ――見ていろ。今にお前達はこの俺を崇めずにはおられない。

  耳にざらつくその声は、不吉を孕んでいた。だが、老爺はその時彼を相手にしなかったのだ。師
 範の息子が呪術にはまり込み、奇妙な事を口走るのは既に慣れてしまっていたのだ。

 「だが、奴が手に持っている仮面を見た瞬間な。」

  ぞくり、と。
  背筋が粟立つような感覚が走り抜けたのだ。いきなり首筋に氷を差し込まれた時よりも、鋭い寒
 気だった。特に、仮面の中にある、ぽっかりと開いた黒い眼窩を見た瞬間に、これはいけない、と
 思った。

 「何が、と説明する事は出来んが、とにかく生命が完全に拒んでおるのじゃ。その仮面の存在と言
  う存在を。その一欠けでも手にする事はおぞましいと、本能が叫んでおった。」

  仮面は岩を削り取って作られているものだった。よくもまあ、そこまで綺麗に削り取る事が出来
 たな、と思うほどに。よくよく考えてみれば、もしかしたら何かの石像から、顔だけを刳り貫いた
 のかもしれない。
  人の顔程の、石像から。

 「だが、そのおぞましい仮面を、奴は何ら躊躇う事なく、顔につけおった。それをつければ、己に
  逆らう輩をねじ伏せる事が出来るのだ、と言って。」

  そうして、悲劇が始まった。